「(近代俳句論への)執着の否定、超克」は「不易流行」と言えるのではないでしょうか??それ故に軽みに通じる気がします。それは固定観念からの解放であり日々新たな世界を産み出す空即是色、「無から有を呼び出す切れ」に伴う創造活動といえる気がするのですが?
https://ko-to-ba.com/choukoku/ 【「超克」の意味と使い方を解説!「超克」の例文を紹介】より
「超克(ちょうこく)」という言葉は、ご存知でしょうか。
この「超克」は、普段の日常会話ではほとんど使いませんし、いままで見たこともないという人も意外と多いような気がします。
ですが、一度知ってしまえば、特に意味は難しくないので、せっかく出会ったこの機会に、ちゃちゃっと覚えてしまいましょう。
ということで、以下では「超克」の意味や用法について深掘りしていきましょう!
「超克」の意味
「超克」は「ちょうこく」と読みます。
次に意味ですが、まずは「超克」の漢字をひとつずつ確認していきましょう。
「超」は「こえる」「過ぎる」「すぐれる、ぬきんでる」などの意味があります。
「克」は、さまざまな意味がありますが、ここでは「打ち勝つ」という意味です。「克つ(かつ)」という和語でも使われる漢字です。よく使う熟語としては「克服(こくふく)」があります。
「超克」の意味は、「困難を乗り越えて打ち勝つこと」です。
「超克」の使い方
では「超克(ちょうこく)」という言葉はどのように使うのしょうか。
「超克」は、かなり固い印象のある漢語ですので、会話というよりも、文章中で用います。しかも、くだけた文章には似合いません。やはり論文のような真面目な文章で使うのがふさわしい言葉です。
この「超克」が使われた有名な表現に「近代の超克」があります。
これは戦時中に文芸誌で行われたシンポジウムのタイトルですが、とても重視されて、その後もしばしば言及される討論となりました。
「超克」の類義語・同義語
「超克(ちょうこく)」の類義語・同義語にはどのようなものがあるでしょうか。
以下に、例をあげてみましょう。
「克服(こくふく)」
=これも意味は「努力して困難に打ち勝つこと」なので、同義語と言えます。「服」の字には「身につける」という意味がありますので、「超克」とくらべると、努力した結果、何かを自分の力として身につけるというニュアンスも含みます。
「超越(ちょうえつ)」
=これは標準をはるかに超えている様子として用います。しかし、「超克」のように、「努力」や「困難」という意味合いはあまりありません。むしろ、「神」のように当然全てを超えた存在などに対して使う言葉です。
他に類義語として、「打ち勝つ」「乗り越える」「克つ」などがあります。
「超克」の対義語・反対語
「超克(ちょうこく)」の対義語・反対語にはどのようなものがあるでしょうか。
以下に、例をあげてみましょう。
「超克」の明確な対義語と呼べる語はありませんので、対照的な状況を表す表現を挙げておきます。
「敗北」「敗走」
=戦いに負けて逃げることを意味します。
「敗残」
=戦いに破れて残っていることを意味します。
「負け犬」
=争いに負けてすごすご引き下がる人の比喩です。
「失う」
=得るべきものを得られずになくすことです。
「失点」
=得るべきだったのに得られずになくしたもの、こと。
「落とす」
=拾うべきものを拾えず、失うことです。
「超克」を使った例文
「超克(ちょうこく)」はどのように使うのでしょうか。以下に例文を挙げてみました。
「 超克(ちょうこく)」を使った例文
わたしたちが解脱するには、百八つある煩悩を超克せねばなりません。
自分自身を超克する心を、克己心(こっきしん)と呼ぶ。
近代を超克するというが、乗り越えたつもりで近代以前の野蛮状態に戻っているのではないか。
無神論を超克して、信仰を獲得したと思ったが、それもやはり自己欺瞞に過ぎなかった。
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/4bu-ronsou/fl-detail-b/3bu-muga-saigusa.htm#sa1-2 【(2)初期仏教の「無我」とは「執着の否定・超克」】より
三枝充悳氏の趣旨をそこなわないように(大田の我田引水にならないように)注意しながら、重要な箇所を抜書きして三枝氏の主張を理解したい。
「無我」の意義・内容は、仏教の歴史を通じて種々に変化している。
「「無我」はかならずしも、「諸法無我」とは限定されず、幾つもの「無我」に関する教説が存在することを、当初から考慮に入れておく。」(1)
最古の経典とされる「スッタニパータ」から、「無我」に関わる資料を抜き出して「無我」説の由来・起源を探究する。その資料から「捨てられるべきもの、否定されるべきものとして示されている用語(A類)と、反対に、奨励されているもの・肯定されている用語(B類)を集めて考察した。そして結論は次のように「執着」の否定である。
「以下のようなことが結論され得る、とわたくしは考える。
すなわち「スッタニパータ」に関するかぎり、ここでは、無明、慳み、怠惰、識別、苦、老衰、憂い、悲しみ、心の荒び、疑惑、嫌悪、迷い、慢心、怒り、おそれ、おののき、動揺、偏見、妄想、愛、憎、悔恨などが、A類のなかに見えて、すべて斥けられているけれども、それらにもまして、パーリ語の多くの語を総動員しつつ、きわだって斥けられるべきものとして強調されているのは、「執着」に関する種々の語、ないしは「欲望」に関する種々の語である。また他方に、B類を見ると、そのなかに取りあげられている語は、きわめて多くが、「捨てる」「制する」「断つ」「斥ける」「滅する」などの否定的な語であり、同時に「乗りこえる」「渡る」などの「超越」をあらわす語である。」(2)
その「執着」の根底に、「自我」がある。「執着」の否定、その根底の「自我」の否定、ということから「無我」の語となった。
「そこでその「執着」をさらに追求して行くと、ここで突きあたるものが、「我」「自我」である。すなわち、「欲望」の根拠に「執着」があり、その「執着」の根底に「自我」がある。そしてその「執着」の「否定」「超越」は、「無執着」から、さらに一歩ふみこんで、「無我」という術語となった、「執着」に関する種々そのようにわたくしは考え解釈する。
このようにして、「スッタニパータ」の説く「無我」説は、「自我」の否定を正面からあからさまに説くのではなく、その「自我」を「執着する主体」としてとらえ、そこでとくに「執着の否定・超越」をくり返し強調するという形で述べられている、ということができるであろう。」(3)
「こうして、「無我」説の起源は、ここに明らかに、「執着」の「否定」「超克」にあったということができる。」(4)
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