https://plaza.rakuten.co.jp/operanotameiki/3015/ 【●夏石番矢『俳句百年の問い』から(1)】より
正岡子規が、連句の発句を独立させてそれを「俳句」として以来、まだほんとに、百年ほどしか経っていないのだということを、この『俳句百年の問い』を手にして改めて思った。
文学は自己の表現方法であり、あらゆる文芸のジャンルの中から、俳句という一番短い十七文字の文型を選んでしまった俳人たちは、俳句革新を進めた正岡子規が亡くなった後、河東碧梧桐・高濱虚子を師系として、あるいは自由な立場で、「俳句とは何か?」
「十七文字で何ができるか?」「十七文字の字数にこだわらずに 俳句と言えるか?」「季語に頼らずに俳句を作れるか?」「有季定型という伝統において新しさとは何か?」「俳句は詩と言えるのか?」等と考えてきた。そして独自のスタイルを見つけるべく、俳句実作において工夫と実験を重ね、理論化してきた。
この『俳句百年の問い』に集められているのは、正岡子規以降の俳句本質論の選りすぐりであると、夏石番矢氏の選んだ32編である。
1「美」をめざす俳句 正岡子規 2ほのめかしのスケッチ B・H・チェンバレン
3「無中心」という新しい時空 河東碧梧桐 4目の驚異 P=L・クーシュー
5十七音の型式の力 芥川龍之介 6潜在意識がとらえた事物の本体 寺田寅彦
7超季の現代都市生活詠へ 篠原鳳作 8歴史的産物としての俳句 山口誓子
9俳句と短歌の近さと遠さ 水原秋櫻子 10「真実感合」という飛躍 加藤楸邨
11平板な大衆性を脱出しえない俳句 桑原武夫 12俳句的対象把握 井本農一
13表現と人格の高度な結合 平畑静塔 14抽象的言語として立つ俳句 山本健吉
15生活の現実から湧き出るリアリズム 栗林農夫 16垂直に息づく永遠の詩 富澤赤黄男
17「創る自分」のダイナミズム 金子兜太 18二重性の世界 中村草田男
19批判精神による現実裁断 鈴木六林男 20俳句は全人的に笑う 永田耕衣
21生命の「お化け」の見える虚 森 澄雄 22切実な「見る」行為 高柳重信
23ゆらめき光る「イメージ」 阿部完市 24本質的なものと異質的なもの 荻原井泉水
25「有季定型」と無意識 鷹羽狩行 26高度な無心 平井照敏
27「片言」の活力 坪内稔典 28「季語」と「切れ」はオリジナル 長谷川 櫂
29内面化されない他者性 柄谷行人 30矛盾のむこうの風雅 川本皓嗣
31遊撃的な使い捨てカメラ 中上健次 32キーワードから展開する俳句 夏石番矢
これらの中から、いくつかを紹介させていただこうと、二度読み始めたのだが、一度目は文語体で読みにくいので飛ばし読みをしていた、一番目の正岡子規の「俳諧大要」に、最初からひっかかってしまった。
面白いのである。ちっとも古くさくなんてないのである。「俳句」を近代化し、35歳で病没し、俳句革新の結末を見ることなかった子規が、俳句にどんな未来を夢みたのか、を知っておくことは俳句文型に関わった以上大事なことであろう。
夏石番矢氏が解説で述べているように、子規が「まだ見ぬ俳句についてのビジョンを集中的に展開した」のがこの「俳諧大要」である。
子規が百年前にもうすでに考えていたんだ! と思った箇所を、ランダムに抜き出してみよう。
1「美」をめざす俳句 正岡子規
明治28年10月から12月まで25回にわたって、新聞「日本」に連載された俳論「俳諧大要」の抜粋である。
第一 俳句の標準
一、俳句は文学の一部なり文学は美術の一部なり 故に美の標準は文学の標準なり文学の標準は俳句の標準なり即ち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準を以て評論し得べし(略)
第二 俳句と他の文学
一、俳句と他の文学との区別は其の音調の異なる処に在り他の文学には一定せる音調有るもあり無きもあり而して俳句には一定せる音調あり其の音調は普通に五音七音五音の三句を以て一首と為すと雖も或は六音七音五音なるあり或は五音八音五音なるあり或は六音八音五音なるあり其の他無数の小異あり故に俳句と他の文学とは厳密に区別す可らず(略)
第三 俳句の種類
一、俳句の種類は文学の種類と略々(ほぼ)相同じ(略)
第四 俳句と四季
一、四季の題目にて花木花草木実草実等は其の果実の最も多き時を以て季と為すべし藤花牡丹は春晩夏初を以て開く故に春晩夏初を以て季と為すべし必ずしも藤を春とし牡丹を夏とするの要なし梨西瓜等亦必ずしも秋季に属せずして可なり (略)
第五 修学第一期
一、俳句をものせんと思わば思うままをものすべし巧を求むる莫(なか)れ拙を蔽う莫れ他人に恥かしがる莫れ
一、四季の題目は一句中に一つずつある者と心得て可なり併し知りたき人は漸次に知り置く可し(略)
第六 修学第三期
一、空想より得たる句は最美ならざれば最拙なり而して最美なるは極めて稀なり作りし時こそ自ら最美と思え半年一年も過ぎて見たらんには嘔吐を催すべき程いやみなる句ぞ多き実景を写しても最美なるは猶得難けれど第二流位の句は尤も得易し且つ写実的のものは何年経て後も多少の味を存する者多し(略)
第七 修学第三期
一、修学は第三期を以て終る
一、第二期に在る者己に俳家の列に入るべし名を一世に挙ぐるが如き亦難きにあらず第三期は俳諧の大家たらんと欲する者のみ之に入ることを得べし一世の名誉に区々たる者の如きは終に此期に入るを許さざるなり
一、空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず空想に偏僻し写実に拘泥する者は固(もと)より其の至る者に非るなり(略)
この「俳諧大要」は、先日、やっと読み終えた馬場あき子解説の世阿弥の『花伝書』を思わせるものであった。
漫然と俳句を作ってきて10年、丁度、俳句って何だろう? と、何もかもが疑問符だらけとなっている私は、基礎へもどりたくなっていた。口語体で書かれていたらもっと直裁に理解できるのに、と思いながらも、たどたどしいながら読むことが出来た。
『花伝書』が、年代に沿って、また、習い事の習熟度に沿って、こうあって欲しいと、段階が述べられているように、「俳諧大要」には、第一修学期、第二修学期、第三修学期に分けて俳人としてあって欲しい姿が書かれている。
子規が、俳句を意外と広い間口、広い視野で考えていることに一番驚いた。しかも、子規が28歳のときの言葉である。 私たちは、伝統派にしろ、前衛派にしろ、小さな世界にこだわり過ぎていはしないだろうか?
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