https://miho.opera-noel.net/archives/1882 【第三百二十八夜 長谷川櫂の「春の水」の句】より
長谷川櫂さんのお名前を知ったのは、夏石番矢編『俳句 百年の問』の中の「季語と切れはオリジナル」(原題『俳句の宇宙』の一部)の文章だったように思う。深見けん二師の下で、「季題」「写生」「切れ」などはかなり厳しく言われてきていたので、高浜虚子に全く触れていない夏石番矢さんの編著は、多様な考えを知ることができた書ではあったが、どこか納得できずにいた。
ブログ「千夜千句」の2度目の登場は、鑑賞がうまく書けずにいた「春の水」の作品に、再度挑戦してみたいと思ったからである。当たり前のようにも見えるけれど、そうではない深さがあるのだろうと、宿題にしたままであったのが、次の作品である。
今宵は、季題のことも考えながら、鑑賞を試みてみよう。
春の水とは濡れてゐるみづのこと 『古志』
「濡れてゐるみづのこと」の、「水が濡れている」をどのように鑑賞してよいのかずっと惑っていたのだ。
このようにずばり言い切られた17文字は、読み手に「なぜ?」と思わせるが、これが「俳句の詩」なのかもしれない。
長谷川櫂さんの師、平井照敏編『新歳時記』5巻本は文庫本なので、私は、便利で役立つ歳時記として身近に置いている。大歳時記には長々と書かれているが、季題の本意として、分かりやすくコンパクトに書かれているところが特長である。
ちなみに、季題「春の水」の本意は、「冬枯のあとの春の水で、あたたかく活気がある。ゆたかな、春のうるおいがある。〈春の水山なき国を流れけり 武尊〉」としている。
さて、長谷川櫂編著『現代俳句の鑑賞 101』の最終頁には、この作品の櫂さんの自註があった。詩人で英文学者の西脇順三郎の詩集「Ambarvalia(あむばるわりあ)」に「雨」という詩が紹介されていたので、転載させていただく。
「南風は柔(やわらか)い女神をもたらした。/青銅をぬらした、噴水をぬらした、/ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、/潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。/静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、/この静かな柔い女神の行列が/私の舌をぬらした。」
詩の中で、様々なモノを「ぬらし」てゆくのは南風の吹く頃に降る雨を、すなわち「春の水」と考えたのであろうか。「春の雨」ならば納得できるが、「春の水」となるとどうだろう。
だが櫂さんはつづける。水は濡らしてゆくが、1つだけ濡れないものがあって、それが水であると。水は水を濡らさないと。そうすると、「では水って何?」と、再び理科の時間に学んだことを考えてしまう。
私は、平井照敏の季題「春の水」の本意に納得したい。たとえば、春の小川も、水はもともと濡れているもので、その濡れている水が春の水で、暖かく、気持ちよさそうにさらさらと流れている。そこに春という季節の潤いが感じられるのではないだろうか。
虚子の日の空気と遊びゐる子猫 『古志』
掲句は、「虚子忌」を「虚子の日」として詠んでいるのであろう。高浜虚子が亡くなったのは、昭和34年4月8日である。桜の花も満開の頃で、晴れた日はうらうらと暖かいほどの陽気。
「虚子の忌の空気」と、「虚子の日の空気」では全く雰囲気が違ってしまう。
「虚子の日」と、季題のオリジナルな挑戦をしたことで、虚子句集「七百五十句」の中で詠まれている多くの「老の春」の作品が浮かび、楽しい老境を見せた虚子が、子猫と戯れているような情景がすっと見えるようになる。「虚子の忌」の「春」の季題と捉えて、それでいいのだと思った。
https://ameblo.jp/ouroboros-34/entry-12052584434.html 【《春の水とは濡れてゐるみづのこと》の句解について】より
天地わたるブログに「春の水とは濡れてゐるみづのこと」という長谷川櫂の句についての論評がある。
この句を当初「奇を衒った句」だと嫌悪したが最近は「言い得て妙」と思う、と評価が逆転したと述べておられる。
水が濡れているなんてあたりまえではないか、実にくだらん、とする評価が、水自身は濡れておらず触れたものを濡らすという浪漫的な読みも可能なこの句は逆説にさらに捻りを加えた虚の味わいがあり、それが現実の水をかえっていきいきと感じさせてくれる、というように変わったというのである。
見当違いの褒めかたもさりながら、どうもよくわからんお説だ。持って回った言い方はひとを煙に巻いて悦に入っているだけでこれは説明ではない。
春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川 櫂
そこであらためて小生なりの句解を試みた。
まず、佳句とか傑作とかいう評価は他の文学諸作に対するそれと同様つまらないからやめよう。この句もあの句もそれぞれの世界をもっているのだから比較などおこがましい。火星と土星をくらべてどちらがエライといってもはじまらないのである。
物差しはおもしろいかどうかである。奇を衒おうがそうでなかろうが要するにおもしろいかおもしろくなくてアクビが出るかである。おもしろい、とは知的満足を与えることである。穿ちがあることである。
わたしは着眼点、表現がおもしろいと見た。理屈に流れるのは本意ではないがしかたがない。説明しよう。
〈とは〉とは「というのは」のこと。主題を定義する、という宣言。これがおもしろいの仕掛け、である。単に「水」ならばそれはH2Oのことで「触れたものを濡らす」物理的性質を有している。定義するまでもない。
ここに櫂は「春の…」と特定する。「春の水」というものは、わたしには(ふつうの)水よりもねっとりと感じるなあ、春の海がのたりのたりと感じた俳人がいたが、そうなんだなあ、まさに水が濡れているんだよ、蕪村はおもしろいひとだ。そうそう、濡れ甘納豆・濡れ羊羹ね。あのねっとり感ね。春の水を掬うともちおもりがしますものねえ。
語りかけているところは旧仮名遣いになっている。櫂はさすがにこういうこまかいところまで気配りが行き届いているんだねえ。
素直によめばこうなる。浪漫的…逆説…虚…??なんですこりゃあ。
「水が濡れているなんてあたりまえ」と俳人仲間と笑いあったそうだが、とんでもない。なにが当たり前、だ。「水が濡れてる」なんてそんなニホンゴがあるか?ナンセンスじゃないか。おさまりの悪さを百も承知で句にするからにはこの俳人、手妻を使おうとしているんだな、とプロなら思わなきゃ。
俳人の批評っていいかげんなもんなんだね。赤ペンを入れて凡作にするんだもんね。
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