https://diamond.jp/articles/-/250623 【】より
橋爪大三郎
佐藤優氏絶賛!「よく生きるためには死を知ることが必要だ。」。「死」とは何か。死はかならず、生きている途中にやって来る。それなのに、死について考えることは「やり残した夏休みの宿題」みたいになっている。死が、自分のなかではっきりかたちになっていない。死に対して、態度をとれない。あやふやな生き方しかできない。私たちの多くは、そんなふうにして生きている。しかし、世界の大宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、仏教、神道、儒教、ヒンドゥー教など、それぞれの宗教は、人間は死んだらどうなるか、についてしっかりした考え方をもっている。
現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である著者が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明する『死の講義』が発刊された。コロナの時代の必読書である、本書の内容の一部を紹介します。連載のバックナンバーはこちらから。
バラモン教もヒンドゥー教も同じ
インド文明は、「真理を覚(さと)る」ことに最高の価値を置く。バラモン教もヒンドゥー教も、仏教も、この点は同じだ。
「真理」とは何か。世界のあるがまま、出来事のあるがままを、認識することだ。その認識、すなわち「真理を覚る」ことは、可能である。そして、「真理を覚る」ことは、最高の価値がある。インドの人びとはそう確信している。
真理を覚るとは、この世界のあるがまま、すなわち因果関係の連鎖のネットワークを認識することである。すると、それは、自然科学と似ている。自然科学も、この世界の因果関係の連鎖を、認識し尽くすことを目標にするからである。
インドの宗教と自然科学は、では、やっていることがまったく同じか。目標は、同じかもしれない。でも、方法が異なる。
自然科学の方法
自然科学は、観察と実験にもとづく。自然科学はものごとを一度に認識しようとしない。それをばらばらに分解する。物理/化学/生物/地学/天文学/…。それがさらに細かく分かれている。物性物理/電子物理/…。それがまた分かれている。関心を、ある範囲に絞る。
そして、実験をする。実験とは、条件をコントロールすること。考えたい要因(変数)間の関係を取り出すため、それ以外のすべての要因(変数)を一定に保つ。このように条件をコントロールして、自然法則の一部を取り出そうとする。あとは、そうした個別の結果をつなぎ合わせて行けば、世界の全体を認識できるだろう。
科学者は、一度に全体を認識しようとしたりしない。一部で我慢する。将来科学が進歩すれば、やがて自然の全体がわかるだろう、と期待する。
インドの宗教の特徴
それに対してインドの宗教は、「瞑想(めいそう)」によって、真理に到達しようとする。瞑想は、実験も観察もしない。いきなり真理の全体を、把握しようとする。「このわたし」がいますぐ、真理をつかもうとする。
もうひとつ、因果関係の範囲が、自然現象にとどまらない。善悪や道徳も因果の一部である。よい行ないをする→よい結果が起こる、のように、人間社会も貫いている。
瞑想とはなにか。瞑想とは、精神を集中すること。英語では、meditationである。じっと座り、自分の精神に注意を集中する。自分の内面を見つめると、なぜ真理が認識できるのか。
瞑想で真理に到達できるのは、インドの人びとが、「宇宙方程式」が成立すると考えているからだ。(宇宙方程式は、私が名づけた。)どんな方程式か。
この世界(宇宙=マクロコスモス)と、「このわたし」(自分=ミクロコスモス)が、対応していること。数学に、同型写像(isomorphism)という考え方がある。集合から集合への一対一写像で、演算などの数学的構造が保存されるもののことだ。
たとえば、ジャンケン(石/カミ/ハサミ)と、キツネケン(庄屋/キツネ/猟師)みたいに。平たく言うと、集合としては異なるが、なかみはそっくり、ということだ。
世界と自分も、集合としては異なるが、なかみはそっくり、になっている。あそこに山があるが、自分の中にもある。目の前に友人がいるが、自分の中にもいる。だから、内省して自分をみつめると、世界のありさまがありありと映じてくるのである。
自分(ミクロコスモス)のなかに、世界(マクロコスモス)が入り込むものだろうか。それなりに合理的な考え方ではある。
たとえば、宇宙の数百万光年のかなたに、アンドロメダ銀河がある。それを、あなたは視ている。銀河は、はるかかなたに存在する。あなたの内部にはない。だが、銀河から出た光線は、はるばる宇宙のかなたからやって来て、あなたの眼に飛び込んだ。そして、網膜に像を結び、それが脳に伝わって、アンドロメダ銀河として認識された。この意味で、アンドロメダ銀河は確かに、あなたの内部にある。ならば、世界がそのまま、あなたの内部に縮小されて像になっている、と言えるではないか。
もともと人間が外界を認識するとは、このようなことであるとすると、インドの人びとが、宇宙方程式が成り立つと考えるのは、理由のあることなのだ。
(本原稿は『死の講義』からの抜粋です)
死の講義
橋爪大三郎(はしづめ・だいさぶろう)
1948年生まれ。社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。大学院大学至善館教授、東京工業大学名誉教授。著書に『はじめての構造主義』『はじめての言語ゲーム』(ともに講談社現代新書)、社会学者・大澤真幸氏との共著に、『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書、新書大賞2012を受賞)などがある。
深みと奥行きのある生き方をするために――著者より
突然ですが、この本は、死んだらどうなるかの話です。
だいたい死は、突然やってくるものなので、お許しください。
ただしご安心ください。「死んだらどうなるかの話」は、死ぬことそのものではありません。むしろそんなことを考えるのは、生きているひとです。かく言う著者の私もまだ生きているし、この本を手にとったあなたも生きている。悠長なことです。いまにも死にそうで、それどころではないひとだってけっこういるのに。
じゃあなぜ、そんな悠長なことを考えるのか。
いよいよ死にそうになったときには、じっくり考える時間がありません。気力も体力もないかもしれない。そうするうち、死んだらどうなるかもはっきりしないまま、死んでしまう。もったいないことです。せっかく死ぬのに。
人間は、自分が死ぬとわかっている。よろしい。では、死んだらどうなるとわかっているのでしょうか。
むかし人びとは、群れをつくったり、村に住んだり、小さな集団で暮らしていました。そこには、死んだらどうなるか、の決まった考え方がありました。死んだら鳥になる。先祖のところに帰る。どこか遠くで、楽しく暮らす。などなど。それは、人びとが自分の考えを持ち寄って、みんなの考えにしたものです。
そのうち、社会はもっと複雑になります。広い場所で農業を営み、人口も増えた。社会階層が分化した。ふつうの人びとのほかに、商人や職人や、軍人や王さまや、官僚や神官がいます。複雑な社会のなかで、人びとはさまざまな人生を歩みます。職業を変わったり、出世したり落ちぶれたり、戦争に駆り出されたり難民としてよその土地に移住したり。人びとの生き方が何通りもあるということは、人びとの考え方も何通りもあるということです。
広い場所には、さまざまな文化をもった人びとが集まります。さまざまな人種、さまざまな民族の人びとが集まります。死んだらどうなるか、の考え方も違います。これが、「宗教の違い」として意識されます。
いくつも宗教がある。それは、死んだらどうなるか、の考え方がいくつもあるということです。いくつも宗教が出てきてどうなったかというと、大部分は廃れてしまいました。けれどもそのうちいくつかは、信じる人びとの人数が増えて生き残りました。それが「大宗教」です。大宗教は、社会を丸ごと呑みこんで、文明につくり変えました。そうした文明は現在も大きな勢力を保っています。
いま、世界には、四つの大きな文明があります。どれも、宗教を土台にしています。
・ ヨーロッパ・キリスト教文明 ……キリスト教を土台にしている
・ イスラム文明 ……イスラム教を土台にしている
・ ヒンドゥー文明 ……ヒンドゥー教を土台にしている
・ 中国・儒教文明 ……儒教を土台にしている
この本では、これらの宗教が、人間は死んだらどうなると考えているのか、詳しく追いかけることにします。それぞれの宗教について調べて、もの知りになることが、目的ではありません。自分で納得して、そうだと思える考え方を、選び取ることが目的です。もしかしたら、どの考え方にも納得できないかもしれません。(最近、そういう人びとが増えています。)そういう場合には、ほかにどういう考え方があるのかも、わかる限りで紹介することにします。
この本のタイトルは、『死の講義──死んだらどうなるか、自分で決めなさい』です。こんな本を読んでいると、変な目で見られるかもしれません。縁起でもない、と。いやいや、決して怪しい本ではないですよ、と説明してあげましょう。
この本を読む理由。
死んだらどうなるかわからないので、怖くて、心配で、読むのではありません。もちろん、怖くて、心配で、困って読むのでもかまいません。でもほんとうは、しっかり生きるために読む、のです。
死んだらどうなるのか、死んでみるまでわからない。それなら、死んだらどうなるのかは、自分が自由に決めてよいのです。宗教の数だけ、人びとの考え方の数だけ、死んだらどうなるのか、の答えがあります。そのどれにも、大事な生き方が詰まっています。人生の知恵がこめられています。それは、これまでを生きた人びとから、いまを生きる人びとへのプレゼントです。
これより大きなプレゼントがあるでしょうか。私の役目は、そのプレゼントを、読者の皆さんに届けることです。
そこで、読者のみなさんに、約束します。
中学生でも読めるように、わかりやすく書きます。
少しむずかしい言葉を使うときは、説明や注をつけます。
頭に入りやすいように、かみ砕いて話を進めます。
人間が死んだらどうなるのか。この本にあるように、ほんとうにいろいろな考え方があります。そしてどれも、よく考えられています。選りどり見どりです。
人間が死んだらどうなるのか、いろんな考え方に触れるのはよいことです。とりあえずどれかに決めてみるのもよい。より深みと奥行きのある生き方を実感できます。ほかの考え方を、理解する力も高まります。
それでは、死んだらどうなるのか、さまざまな考え方を一巡して、自分の考えを磨いてください。そして毎日を、胸を張って生きてください。
■新刊書籍のご案内
『死の講義』橋爪大三郎 著、定価1700円+税
佐藤優氏推薦
「よく生きるためには死を知ることが必要だ。」
「死」とは何か。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、ヒンドゥー教、仏教、儒教、神道など、それぞれの宗教は、人間は死んだらどうなるか、についてしっかりした考え方をもっている。本書は、現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である著者が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明するコロナの時代の必読書。
宗教の、どれかひとつを選んで、死んだらどうなるか、考えてみる。ちょっとやってみる、をお勧めする。それは、運命の出会いかもしれない。とのべておきながら、反対のことを言おう。どの宗教を選んでも、結局は同じことですよ、と。
なぜか。それはどの宗教も、いまの時代を真面目に生き、でも相対主義に苦しむふつうの人びとの、プラスになるに決まっているから。科学と常識だけでは満足できなかった、ぽっかり空いたあの偶然の空白を埋めて、自分なりの確信をもって他者と共に歩むことができるから。
宗教をひとつ、選んでみなければ、宗教のことはわからない。その宗教だけでなく、どの宗教のこともわからない。その意味で、どの宗教を選んだとしても、結局は同じことなのである。
人類の最大の知的財産である宗教をわからないままで、生きていると言えるだろうか。ささやかな本書を手がかりに、宗教の豊かさを味わってくれる人びとがひとりでも多いことを願っている。(本書より)
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