https://nordot.app/550856313230214241?c=174761113988793844 【弘法大師空海への信仰なぜ? 遣唐使船最後の寄港地、五島列島】より
理由「定かでない」が複数の仮説
「お弘法さま御堂」で般若心経を唱える参加者=小値賀町唐見崎地区
遣唐使船最後の寄港地とされる五島列島では、真言宗の開祖、弘法大師空海にまつわる信仰が各地に残る。毎月20日、住民が「お弘法さま御堂」に集う北松小値賀町東部の唐見崎地区もその一つ。史跡や真言宗の寺院もないのに、なぜ島で最も頻繁に行事が開かれるのか探ってみた。
■歓 談
人口約2400人の小値賀町で、21世帯37人(8月末現在)が暮らす唐見崎地区。8月20日午前10時半、集落入り口付近の木造平屋建ての御堂に、お年寄りが次々と集まってきた。弘法大師像や祭壇がある8畳ほどの内部は、10人ほどでいっぱい。木魚をたたきながら般若心経を唱え始めた。しかし、わずか3分。その後は持ち込んだ菓子や手作りのおにぎりを囲み、楽しげなおしゃべりが始まった。
住民などによると、御堂は1942年10月に完成。国選定重要文化的景観「小値賀諸島の文化的景観」の要素の一つともなっている。住民たちは1、2年交代で御堂の世話役を務め、花の交換や掃除をし、正月には餅を供える。
地区で生まれ育った崎山代志子さん(93)は「みんなの幸せを願い地域の人たちと集まる大切な場。毎回参加している」。唐見崎地区出身で、結婚を機に同町笛吹郷へ引っ越したパート職員、坂井敬子さん(73)も「今も年に5、6回は参加。弘法様の御利益で元気でいられる気がする」。手術の前に願掛けしたり、成功すればお礼にも参るなど、身近な祈りの場だ。
■背 景
町教委や住民によると、空海を祭る行事は島の3地区にあるが、唐見崎地区以外では4月と10月だけ。同地区を含む島内には真言宗の信者は少ない。それなのに住民が親しみを持つ理由は、町教委の担当者も「定かでない」と首をかしげる。
島の外に目を向けてみた。平安時代に空海が入定したとされる旧暦3月21日の前日、弟子たちに姿を見せた「廿日(はつか)大師」にちなみ、毎月20日に行事をする寺院も少なくない。長崎市寺町の延命寺もその一つ。お経を唱えた後、集まった人たちが車座になり巨大な念珠を手繰る。堤祐敬住職は、小値賀の伝承について「弘法大師本人が五島列島訪問の際に立ち寄ったのか、大師を慕う人たちが代わりに教えを広めた可能性もある」と見解を示した。
■集 落
日本の集落(ムラ)の共同体の研究のため8月20日に唐見崎を訪れた静岡大情報学部の金明美(キムミョンミ)准教授(文化人類学)は「お堂」は外部から集落に来た人たちを受け入れる役割があったと説明。「ある時期、真言宗を広める宗教家が唐見崎にも入ってきたのでは」と、同地区に古くから空海信仰が根付き「お弘法さま御堂」の毎月の集いにつながった理由の仮説を示してくれた。
金准教授は言葉を重ねる。「唐見崎で自主的な信仰の場が続くのは、当番制で御堂を維持したり、定期的に集まって語ったりする、相互扶助の精神が残るからではないか」と語った。
https://heiseibasho.com/heiseibasho-comment-kukai/ 【平成芭蕉の旅語録~五島福江島の名所「大瀬崎」の夕陽と空海ゆかりの地】より
長崎県の五島は今話題の世界遺産だけでなく、「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋」というストーリーで日本遺産にも認定されています。
これらの島に残る史跡や文化財で構成される物語は、朝鮮半島や中国大陸との交流や交易によって作られた「国境の島」特有の文化が伝わり、特に五島では奈良・平安時代に大海原へ漕ぎだした遣唐使たちに想いを馳せることができます。
すなわち、五島市の「三井楽」は日本最西端にあり、遣唐使船の日本最後の寄港地として弘法大師、空海も804年に立ち寄り、命を賭して日本を去るという意味の「辞本涯」という三文字を残しています。
「本涯」とは日本の最果ての地という意味ですが、かつては福江島の三井楽は「亡き人に会える島」、「此岸と彼岸の交わる場所」と考えられていたのです。
五島に残る弘法大師、空海の足跡
また、空海は唐より帰国の際にもこの福江島の寺に立ち寄り、明星の奇光を拝して、自分が修めた密教が国家や民衆のために役立つものと、仏より示されたと歓び、寺の名前を「明星院」と命名しました。
現在、この明星院は高野山真言宗に属し、「五島88か所島へんろ」の第一番札所になっており、五島家の祈願寺でもあります。
空海の唐での偉業と密教の教え
空海は五島を出港した後、苦難の末、赤岸鎮に漂着、福州を経由して長安に赴きました。
そして長安に着いた空海は、金剛頂経、大日経という2系統の密教を統合した第一人者のインド僧の恵果に師事し、胎蔵界・金剛界・伝法など密教のすべてを教わり、灌頂(かんじょう)を受け、正式な継承者となったのです。
密教という難しい教義も空海の次の名言で私たちにもわかりやすく理解できます。
片手だけでは拍手できない
片足だけでは歩けない
右手と左手が感応して拍手になり、
右足と左足が感応して歩く
だから相手が感応するまで祈り続けなさい
修行して悟りを得ようとする人は
心の本源を悟ることが必要である
心の本源とは清らかできれいな明るい心である
周りの環境は心の状態によって変わる
心が暗いと何を見ても楽しくない
静かで落ち着いた環境にいれば、
心も自然と穏やかになる
五島での空海の軌跡を訪ねる五島88か所島遍路を巡ると、四国のお遍路とはまた異なる体験が得られます。
私はこの自然豊かな島の大瀬崎断崖にたたずみ、大瀬崎灯台のかなたに日本で最後に沈む黄金色の夕日を眺めていると、弘法大師の教えの通り、心も穏やかに、また素直な気持ちになれたような気がします。
http://chatandoji.cocolog-nifty.com/shifu/2013/01/post-a8b3.html 【五島の冬-空海・椿・教会】より
長崎県の五島列島の福江島を初めて訪れました。1月26日に五島市の福江文化会館で教育セミナー九州2013in五島を開催するためです。25日に到着、27日までの間、教会や空海ゆかりの史跡、椿の自生林などを見る機会にも恵まれました。島に着いて驚いたのは、大きな島であることでした。それもそのはず、調べてみると、福江島は、択捉島、国後島、沖縄島、佐渡島、大島(奄美大島)、対馬、淡路島、下島(天草諸島)、屋久島、種子島に次ぐ11番目に大きな面積の島でした。
梶田叡一・前兵庫教育大学長と大阪国際空港から福岡経由で福江空港に着き、五島市立福江中学校の公開授業を参観しました。どの教科も素晴らしい授業。美術科では、同校の技術部と美術部が模写した「風神雷神図屏風」の「魁バージョン」の巨大屏風を披露して鑑賞していました。
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ここで合流した文部科学省の直山木綿子教科調査官と3人は、五島市で最初に出来た常崎教会案内されました。
気温は低く摂氏5度。風も強く、教会の手前の海は鉛色です。空も黒い雲に覆われています。
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教会に着き、先生方は説明を受けています。
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明治12年にマルマン神父によって五島における最初の天主堂が建てられました。現在の天主堂はペルー神父によって明治41年に建てられた五島最古の洋風建造物であり、遠くイタリアからも資材の一部が運び込まれたといわれています。赤レンガ、ゴシック様式は、ヨーロッパの典型的な教会スタイルです。現在は、キリシタン資料館として、隠れキリシタン時代の資料等も展示しています。第1日曜日早朝にはミサも行われています。
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天主堂の内部は撮影禁止です。内部を紹介した案内板の写真を撮ってみました。
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教会の前に広がっている海です。
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ホテルに帰ってきましたが、夕べの会食まで時間があるので、タクシーで出掛けました。
まず、五社神社に参拝しました。「八幡鳥居」と呼ばれる形式の立派な鳥居が立っています。福岡の筥崎宮の鳥居に似ていることから「筥崎鳥居」とも呼ばれています。
慶長19年(1614)年、それまでの居城であった江川城を焼失した藩主五島盛利は、石田陣屋の構築、福江城下町の造成などを企画し、五社神社に参詣して工事の無事成就を祈願し、「千早ぶる神の御前の石鳥居くちはさせまじ八百万代も」という歌とともにこの鳥居を奉納しました。
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五社神社の御祭神は、天照大神、武甕槌神、経津主神、天兒屋根神、姫神。持統天皇の9年(675)正月28日に天照大神、武甕槌神、経津主神の3神を奉斎し、その後、称徳天皇の神護景雲3年(769)正月9日、大和の春日大社から天兒屋根神、姫神の御分霊をお迎え合祀しました。大値賀島鎮護地主五社大神宮と尊称される、五島で最古の神社です。
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五島のシンボル的な山ともいうべき鬼岳を写真に納めたくて、鬼岳がよく見える場所に運転手さんに行ってもらいました。
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日本一の椿の島である五島の街路樹はツバキです。そのツバキ越えに鬼岳を望みました。
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福江城の門のところでタクシーを降りました。横丁口蹴出門をくぐりました。
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門を入ってしばらく歩くと、本丸跡に長崎県立五島高等学校がありました。城の門のような校門です。
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門を入って生徒達に声をかけました。内堀の向こうに校舎が見えます。この高校からは、国公立大学に約100人が合格するそうです。この数字からも、五島の学力の高さをうかがうことができます。
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城跡を出て、武家屋敷通りを歩きました。
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26日は、教育セミナー九州2013in五島が福江文化会館で開かれました。五島を中心に約300名の熱心な教育関係者が参加されました。長崎県教育会の立岡誠会長とともに僕も主催者あいさつをしました。
セミナーでは、加藤明・兵庫教育大学大学院教授の基調講演のあと、文部科学省の直山木綿子教科調査官(外国語担当)が特別講演。大好評でした。
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続いて、地元の先生方が中心になってパネルディスカッション。最後に、梶田先生による総括講演で締めくくり。充実した中身の濃いセミナーとなりました。
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会館ロビーの壁には大きな「バラモン凧」が吊してありました。バラモン凧は、五島に古くから伝わっており、「バラモン」とは「活発な、元気のいい」という意味です。鬼に立ち向かう武士の兜の後ろ姿が描かれており、勇壮で鮮やかな彩りです。五島では、男の子の健やかな成長を願い揚げられ、また、民芸品としても人気があります。
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壁いっぱいに「チャンココ」の絵が描かれていました。チャンココは五島各地に800年以上前から踊り伝えられている念仏踊りです。もとは悪霊を追い払うための踊りでした。
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会館の隣には五島観光歴史資料館があり、ちょっと覗いてみようと行きかかると、昭和天皇の御製の石碑が建っていました。
久しくも五島を観んと思ひゐしが つひにけふわたる波光る灘を
御製の説明には「この歌は昭和天皇の御製です。天皇皇后両陛下は、昭和44年、長崎国体を機にに県内各地を御巡幸され、10月27日、海路はじめて五島をおたずねになられました。天皇は、学習院時代、五島にゆかりのある御学友から五島について親しくお聞きになり、以来、久しく訪問を待望されていたとのことであります。五島への往路、お召し船上でお詠みになられたこの歌は、念願がかなった陛下の御喜びが込められています」と記されていました。
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五島観光歴史料館に入って展示を観て回りました。
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セミナーを終え、ホテルに帰るアーケードを通っていると、公衆電話が設置されているチャンココを踊っている人形に出会いました。
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夜は反省会・懇親会。講師と関係者が一堂に会して、美味しいアンコウ鍋をつつきながら歓談しました。アンコウの卵を初めていただきました。
27日は10時5分福江空港発で帰ります。それまでの間、空海記念碑の地、ツバキの自生林、空海ゆかりの明星院だけはぜひ訪れたいと思い、前夜、タクシー会社に予約し、7時30分に出発することにしていました。7時から朝食を始めていると直山木綿子さんが、史跡巡りに「ご一緒させて」と言われ、2人で回りました。運良く、運転手さんが空海記念碑のある三井楽にお住まいで、いろいろお話や説明を受けながらのドライブになりました。
自生のヤブツバキのあるところで車を止めてもらってツバキの花を撮りました。
椿は、日本原産の常緑樹、日本を代表する花です。何事にも媚びることのない凛とした容姿と風情があるいかにも日本的な花です。花言葉は「誇り」「完璧な魅力」「理想の愛」「謙遜」「美徳」「おしゃれ」「控えめな優しさ」など。自生するツバキは約426万本。東のツバキの名所である伊豆大島を上回っているそうです。花椿の資生堂は、この島と提携してツバキ油の製品を造っています。
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三井楽は遣唐使船の寄港地です。三井寺中学校の校門の回りには遣唐使船を模したプランターに花が植えられています。
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バス停も遣唐使船を型取っています。道の向かい側の建物は、道の駅「遣唐使ふるさと館」です。
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空海記念碑「辞本涯」が立つ柏の岬に着きました。小雪が舞ってきました。強い風です。
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この地は、空海が渡唐する際の日本最後の見納めの地です。碑の字句は、空海の書より引用し、「辞本涯(本涯を辞す)」は日本の果てを去るという意味です。弘法大師空海の死を賭して唐を目指す感慨と心意気が伝わってきます。
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直山さんとツーショットの記念撮影です。
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海岸の所々に、ハマユウの緑の葉。直山さん「私の木綿子ですね」。
岬の近くの岩嶽神社とぶぜん川の寄りました。
岩嶽神社は、遣唐使船が柏に寄港した承和5年(838)ころ、遣唐使の守護の任に当たった鎖鎌の名人が順風を待って逗留中、病死したためその霊を祀ったといわれています。
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ぶぜん川の水は遣唐使船の乗組員たちの飲料水として利用されていたもので、岩盤からわき出る水は渇水期でも尽きることがないそうです。
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タクシーの運転手さんによると、この島の家々では、どの宗派にかかわらず弘法大師空海をお祀りされ尊ばれているそうです。
帰りの道路から「水ノ浦教会」が見えたので、脇道を登ってもらいました。この教会は、木造教会堂としては最大規模の白亜の天主堂がそびえています。女性に人気がある教会だそうです。
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水ノ浦教会を降る道沿いの民家のツバキの生け垣に「玉之浦椿」の花が咲いているのを運転手さんが教えて下さいました。世界的名花「玉之浦椿」は、五島の玉之浦で発見されてその名がついたのです。花がよく写真に撮れるように、直山さんが枝に手を添えて下さったので、綺麗に撮れました。
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最後の見学地は、田園地帯にひっそりと佇んでいる明星院。藩主五島家代々の祈願寺です。寺伝によると弘法大師空海が大同元年(806)唐からの帰りにこの寺に立ち寄り、唐で修めた密教が国家や民衆のために役立つように祈願されました。翌朝、東の空に輝く明けの明星を瑞兆と思い、明星庵と名付けたと伝えられています。
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本堂は今から約230年前の安永7年(1778)、28代盛運公が火災で焼失した本堂を再建したもので、五島最古の木造建築物です。見事な檜の芯柱を使用して建立されており、重厚感が漂います。格天井には五島藩絵師で狩野派の大坪玄能の筆による121枚の花鳥画が極彩色で描かれていますが、時間もなく拝観は省略しました。
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明星院にも、空港にも五島の教育委員会や学校の先生がお見送りに来ておられ、人情の厚さ、心配りの細やかさに頭が下がりました。
五島の先生方、お世話になりました。ありがとうございました。ぜひまた訪れたいと思います。
福江空港の外は冷たい雪が舞っていますが、心はホットです。
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往路と同じプロペラ機に乗って福岡空港経由、博多に出て新幹線で家路につきました。
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