依り代としての神は外なる神 ニール・ドナルド ウォルシュ著の「神との対話」で示される神は内なる神 外なる対象と一つになる体験は共鳴現象と言えるのでしょうか?共鳴現象による写実を子規に見る思いがします。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81899 【日本の神はどこからきたのか? 自然現象から宗教が発生するワケ】より
「カミ」から考える、日本人の心の歴史
佐藤 弘夫
プロフィール
日本人にとっての神は、いつ、どこからやってきたのか? 先史時代の日本における信仰は、しばしば言われるような「アニミズム」的なものではなかったと、日本思想史の大家・佐藤弘夫氏は言う。
先史から現代まで、神(カミ)をめぐる想像力を通して「日本人の心の歴史」を解き明かす最新刊『日本人と神』より、「神」が誕生するメカニズムをお届けする。
「まれびと」だった日本の神(カミ)
この列島において、人間を超えた聖なる存在=カミはどのようにして立ち上がり、いかなる変身を遂げてきたのだろうか。
日本列島で生み出された最古のカミのイメージとはいったいどのようなものだったのだろうか。そのカミに対して、いかなる儀礼が執り行われていたのだろうか。
「アニミズム」の概念を提唱したタイラーによれば、人類が生み出した宗教の最も原基的形態は、自然の森羅万象のなかに精霊の働きを見出すもの=アニミズムだった(タイラー、1962)。
日本の神を論じる場合でも、「一木一草に至るまで神宿る」という言葉に知られるように、神の本質がモノに憑依する精霊であるいう理解は、ほとんど常識化している。日本の神をアニミズムの系譜として把握しようとする視座である。
神は定まった姿形をもたないゆえに、祭祀を受ける際にはなんらかの依代に付着することが不可欠だった。
柳田國男(やなぎたくにお)は山から麓へと去来する神に祖霊の影を見出し(柳田、1990)、折口信夫(おりくちしのぶ)は季節の変わり目に異界から来訪する神を「まれびと」と命名した(折口、2003)。
柳田國男や折口信夫によれば、日本の神の古態は一定の地に常住することなく、折々に出現しては祭祀を受ける来訪神だった。それが終わればまた本来の居場所に帰還すると考えられていたのである。
「日本民俗学」の祖・柳田國男
人類はいつからカミを感じるようになったか?
他方、近年の認知科学者の説くところによれば、カミの存在を感知する心的な能力はいまから6万年ほど前に、この地球上に登場した現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)の脳内で起こった認知構造の革命的な変化に由来するものだったという。
ビッグ・バンとよばれるこの変革を経て、ヒトはカミを認識する能力を初めて獲得した。以後の人間社会の複雑きわまりない展開も、そのすべての端緒はこの事件にあったとされる(ミズン、1998)。
こうした見方を前提として、基礎的な認知能力の展開という視点から遺跡や遺物の背景にある当時の人々の心の働きを読み取ろうとする一方、そこから翻ってヒトの認知構造の特性を明らかにしようとすることが、認知考古学の基本的な立場なのである。
認知考古学者は、この方法を積極的に日本列島というフィールドに導入していった。たとえば、石器は本来実用品として作られているにもかかわらず、しばしば実際の用途を超えた装飾=「凝(こ)り」がみられる。
後期旧石器時代の後半に作られた御子柴(みこしば)型とよばれる大形の石槍のなかには、左右対称に薄く形の整えられたものがみられるが、壊れやすくて実用には不向きだった(松木、2007)。ここでは美しくバランスの採れた石器を作ること自体が目的となっている。
「凝り」は認知考古学でカミの誕生を測る指標とされていたものだった。後期旧石器時代に、一部の石器が単なる道具―モノを超えた存在として捉えられていた様子が窺うかがわれるのである。
「アニミズム」への違和感
日本の神の原型を「タマ」などとよばれる不可視の神霊に求める見方は、今日ほとんど常識化している。
しかし、わたしは来訪する神霊を神の原像とみなす通説には疑問がある。日本の神を「アニミズム」という範疇で捉えることにも強い違和感を覚える。
神道の源流を自然崇拝のアニミズムに見出す根拠として、しばしば天孫降臨にあたっての葦原中国(あしはらのなかつくに)の様子を描写する『日本書紀』の言葉が引用される。
そこでは、ニニギノミコトが赴(おもむ)こうとしている下界の葦原中国には、多くの「蛍火(ほたるび)のかがやく神」「蠅声(さばえ)なす邪しき神」がいて、「草木ことごとくによくものいう」と記述されている(神代下)。
だがこの表現は、人間と自然との親和的で「対称的」な(兄弟のような)関係を述べたものにすぎない(中沢、2002)。草木国土が、そのまま崇敬の対象としての神であることを強調する言葉ではない。
弥生時代や古墳時代の祭祀遺跡を調査しても、当時の人々が個々の草や木を、アニマをもつカミとして崇敬したという証拠は見出せない。
わたしは、人類における始源のカミは抽象化された不可視のアニマとしてではなく、個別具体的な事象に即して把握されていたと考えている。霊魂などという抽象的な概念が登場する以前に、眼前の現象がそのままカミとみなされていた段階があったのである。
自然現象こそがカミだった
人類が最初に超越的存在を感じ取ったのは、何に対してだろうか。その一つは、人に畏怖(いふ)の念を抱かせる自然現象だった。
激しい雷鳴や稲光、すべてを渦に巻き込んで空中に持ち上げ、破壊していく竜巻などは、そのメカニズムを理解している現代人にとってさえ、カミの仕業にしかみえない驚異の現象である。
雷は現代でもなお驚異的な現象だ(photo by iStock)
夕方になれば太陽が没して闇が支配するが、夜明けが来ればまた光に満ちた世界となる。毎日起こる太陽と月の正確な交代も、実に不思議なことだった。
原初の人類は、こうした自然の出来事の一つ一つに、人知を超えた力を見出していたのではなかろうか。
人類がカミの働きを見出したもう一つの対象は、人間のもちえないパワーを有する動物たちだった。
世界各地の神話に、しばしばカミとして登場する動物が熊である。鷲やコンドルなどの猛禽(もうきん)も、カミあるいはカミの化身と考えられていた。鳥葬(ちょうそう)が行われるチベットでは、鳥は死者の魂を大空へと運ぶ聖なる存在だった。
縄文土器には蛇が描かれている。強力な毒と驚異的な生命力を備え、直接幼蛇を出産するという特殊な生態をもつマムシに対する畏怖の念が、それを特別視する背景にあったと推定されている。
萌え出ずるアシの若芽は、それぞれの芽に満ち溢れる生命力そのものがカミだった。思わず畏敬の念を引き起こす巨木や奇岩も、それ自体が聖なる存在として把握されていた。
独自の景観をもつスポットが聖なる場所とされ祭祀の場となることは、古今東西でみられる現象である。
カミを認識し始める人間
カミは最初、カミと認識されたこれら個々の現象、個々の動物、個々のスポットと不可分の存在だった。
私たちが目にする雷の背後に、それを引き起こす抽象化されたカミがいるのではない。生起するそのつどの雷がカミだった。雷鳴と稲光そのものが人知を超えた驚異だった。
俵屋宗達(たわらやそうたつ)の絵に有名な「風神雷神図」があるが、雷雨をもたらすカミがイメージを与えられ、人格化されて図像に描かれるようになるのは、はるか後世のことだった。
同様に、熊や鷲の場合も、なにものかがそれに憑依することによって初めてカミとなるのではなかった。一頭一頭の熊がそのままカミだった。
江戸時代の国学者本居宣長(もとおりのりなが)の言葉を借りれば、「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物」(『古事記伝』巻三)=無条件に畏敬の念を起させる対象そのものがカミの始原だったのである。
先に言及した、後期旧石器時代の御子柴型の石槍にみられる過剰な「凝り」が出現するのも、この段階のカミ認識における出来事と推定される。人はカミの実在を認識し、その本質を再現できる能力を徐々に身につけ始めていたのである。
これらの最初期のカミに対しては、人はひたすら畏敬の念を心中に抱くだけで、ある定まった形式でもって崇敬するという行為が行われることはなかった。
祭祀が開始されるには、無数にあってそのイメージが拡散していたカミを、集団が共有できる実体としていったん同定する必要があった。超越的存在が、目に見える形をとって表現されなければならなかったのである。
同定されるカミ
それが開始されるのは、この列島でいえば「縄文時代」とよばれる、いまから1万5000年ほど前のことだった。
縄文時代を特色づけるものに、人を象(かたど)った土器である土偶がある。これは、当時の人々が抱いていたカミのイメージを象徴的に表現したものと考えられる。
土偶はカミのイメージを表した(photo by gettyimages)
大量に出土する土偶が実際にどのように使用されたのかは、諸説があって定かではな
い。しかし、それがなんらかの聖性を象徴するものであることは疑問の余地がない。
土偶がしばしば解体された形で出土することなどから、それを用いた祭祀儀礼が行われていた様子についても論じられている。
当時の人々が大自然のなかに見出した驚異を可視化したものが、この土偶だったのである。
わたしは土偶が聖性の表象ではあっても、それを超える高次のカミは想定されていなかったと考えている。個々の土偶がそのままカミであり、崇敬の対象だった。
その背後に、土偶の霊力を支えるアニマやマナなどの不可視のパワーが認められることはなかった。
縄文時代には墓地も作られていた。縄文人の間で、亡くなった人物が墓地に留まっているという感覚が共有されていたことはまちがいない。
太陽や月や星が織りなす壮大なドラマに対する驚異の念も、人々の心の中には存在したであろう。実際に、現代人がそうするように、太陽に向かって祈りを捧げる人物もいたかもしれない。
だが、縄文時代の中期までの段階では、それが集団によって共有され、定式化した祭祀儀礼として定着することはなかった。
宗教はいかにして発生したか?
「先祖」といった目に見えない存在に対するイメージが固まり、太陽や月などの手の届かない事物に対する定期的な祭祀が行われるようになるのは、もう少し後のことだった。
集団的な祭祀は親族関係を核とするグループによって、より小さく、より身近なカミから始まった。日本列島では、それが土偶だったのである。
ドイツで発見されたライオンマンと呼ばれる、上半身がライオンの姿をしたたいへん有名な彫像がある。制作は、3万年から4万年前のことと推定されている。
このライオンマンもまた、土偶と同じく当時の人々が認識していた聖性の表象であろう。現実には存在しないものの姿を表現した像や絵画が、このころ各地で作られるようになる。
新石器時代のある段階から、カミが四肢を備えた存在として表現されてくるのである。
これは聖なるものが可視的に表示され、そのイメージが共同体の構成員によって共有されていく現象を示している。カミが同定され、崇拝の儀礼が形を整えていく。宗教の発生である。
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【参考文献】
タイラー、エドワード『原始文化』比屋根安定訳、誠信書房、1962年
柳田國男「先祖の話」『柳田國男全集』13、ちくま文庫、1990年(初出1945年)
折口信夫「国文学の発生(第三稿)」『古代研究』3、中央公論新社、2003年(初出1929年)
ミズン、スティーブン『心の先史時代』松浦俊輔訳、青土社、1998年
松木武彦『列島創世記』日本の歴史1、小学館、2007年
中沢新一『熊から王へ』講談社選書メチエ、2002年
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