https://note.com/honno_hitotoki/n/n01d5f62e5bd4?magazine_key=m3a7527ff3839 【秋深き隣は何をする人ぞ|芭蕉の風景】より
秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉
縄張り争いの仲裁
元禄七(1694)年旧暦九月、故郷伊賀を出た芭蕉は、奈良を経て大坂に入った。このころ、芭蕉が目をかけていた弟子洒堂しゃどうが近江から大坂へと進出してきて、もともと大坂を地盤としていた弟子之道しどうと縄張り争いをしていた。洒堂も之道も芭蕉に仲立ちを頼み込んだために、芭蕉は大坂を訪れたのである。
芭蕉はまずは洒堂邸を旅宿として、洒堂と之道の仲裁のための句会を何回か催す。しかし、仲裁の成果のあがらぬまま、芭蕉は無力感を覚え、体力を消耗するばかりだった。芭蕉は両門弟に平等に対するために、旅宿を洒堂邸から之道邸へと移した。
掲出句は、九月二十八日、之道邸での詠。翌日には大坂の俳人芝柏しはくの家で句会が予定されていた。その句会のために前もって芝柏に送っておいた発句である。翌日二十九日、芭蕉は死病となる下痢を催して、臥床してしまう。この日以後、芭蕉が句座に列することはなかった。
門弟支考しこう編の句文集『笈日記おいにっき』所載。句意は「秋も深まった。隣に住む人はいったい何をしているのだろうか」。旅宿の隣に住んでいる人が、音でも立てたのだろうか。耳を澄ましていた芭蕉は、隣の住人へと思いをめぐらしているのだ。
さて、芭蕉が死病に倒れた之道邸はどこにあったのか。俳人瓠界こかいが大坂の俳人たちを歴訪した記録『難波巡礼なにわじゅんれい』(元禄七年・1694年刊)に、「西横堀にしよこぼりをひがしへ入、本町ほんまち」という記述があると、俳文学者櫻井武次郎の著書『元禄の大坂俳壇』(前田書店・昭和五十四年・1979年刊)に書かれている。同時代の俳人の実訪記録なので信頼性は高いだろう。
別説もあって、芭蕉研究家曰人わつじんが蕉門俳人たちの伝記を記した『蕉門諸生全伝しょうもんしょせいぜんでん』(文政年間・1818〜30年成立)に残されている「道修町どしょうまち」である。こちらは後世の資料で、確実ではない。ただ前後に転居の可能性もあろうし、なにより之道の家の場所や職種を考えるためのヒントとなろう。
今日は、本町と道修町を歩いてみたい。
看病する之道、姿を消す洒堂
東海道・山陽新幹線新大阪駅下車、大阪市営地下鉄(現・大阪メトロ)御堂筋線に乗り換え、本町駅下車。二番出口を出ると、暑い。南北を貫く御堂筋に面して巨大な寺院がある。本願寺津村別院、いわゆる北御堂きたみどうである。
「西横堀をひがしへ入、本町」の「西横堀」とは、かつて大阪を南北に流れていた運河西横堀川である。御堂筋の西を平行に流れていた。現在は埋め立てられて、阪神高速一号環状線などになっている。そこから東へ進んだあたりの本町といえば、現在の地名で本町四丁目。住宅地ではない。北御堂の他にはビルばかりだが、かつてここに之道の家があったのだ。
次に御堂筋を北上して、『蕉門諸生全伝』で之道邸があったとする道修町へと向かう。道修町三丁目の交差点を右折すると道修町通、道の左右に製薬会社が立ち並んでいる。ここ道修町とは、くすりの町なのである。
くすりの町と言われるようになったきっかけは、寛永年間(1624〜44年)に、堺の商人が道修町に薬種屋を開いたことからであった。くすりの町の中心は、堺筋近くの少彦名すくなひこな神社である。日本医薬の祖神少彦名命すくなひこのみことと中国医薬の祖神神農炎帝しんのうえんていとが祀られている。
『蕉門諸生全伝』には、之道は商人であると記されているが、何を扱っていたかは明らかでない。前出の櫻井武次郎は、道修町に住んだという説があること、同門の許六が「同門評判」という文章の中で、之道について「長い間、草薬を舐めていた」という意味のことを書いていること、その二点から、之道の職業が薬種商ではなかったか、と推定している。その推定が正しければ、本町の家に芭蕉を迎えた之道は、売り物の薬も使って必死に治療に努めたことだろう。
それでは対立していた洒堂はどうしていたのか。九月二十八日の芭蕉出座の句会には、出席していた。しかし、その後は芭蕉の前から姿を消してしまった。芭蕉の葬送や追悼の催しにも、顔を見せることは一切なかった。
なぜこんな行動をとったのか。強く味方してくれると期待していた芭蕉が、平等に扱うばかりで力になってくれず、宿まで之道の家の方に移してしまったことを恨んだのかもしれない。
掲出句の世界は寂しいが、好奇心も微笑も含まれている。気持ちに余裕がある。芭蕉はこの句の時点では、洒堂が姿を消すことを知らないのだろう。愛弟子の洒堂が姿を消したことと、芭蕉の病状の悪化とは、おそらくは関係があるはずだ。
大阪の河なみだてる暑さかな 實
蟬の地に落ちし時鳴く鳴るごとし
https://www.10000nen.com/media/21378/ 【「秋深き 隣は何を する人ぞ」17文字に秘められた想い〜芭蕉と木曽義仲】より
芭蕉ならではの言葉の力
秋深き 隣は何を する人ぞ
これは『奥の細道』で有名な松尾芭蕉の俳句なのです。
秋になると、風景も美しく、食べ物もおいしくなります。「さて、隣の人は、何をして楽しもうとしているのかな……」と耳をそばだてている様子が浮かんできます。ユーモアが漂い、思わず口ずさんでしまうのは、芭蕉ならではの言葉の力です。
この句の意味は、芭蕉がどのような時に詠んだのかを知るとより鮮明に味わえます。
旅の途中で……
実は、この句を詠んだ時、芭蕉は旅の途中でした。大阪の宿で体調を崩してしまったのです。こんな秋晴れの、気持ちのいい日に、体が自由にならないもどかしさ、寂寥感が表れている俳句だとも味わえます。
この句を詠んでから、芭蕉は寝込んでしまい、2週間後に亡くなりました。51歳でした。
木曽義仲への敬慕
芭蕉は、『平家物語』で有名な木曽義仲の大ファンでした。「義仲の墓の隣に葬ってほしい」と遺言したほどです。今も遺言どおり、琵琶湖のほとりの義仲寺に、芭蕉の墓が残されています。
木曽義仲は、北陸から都を目指して快進撃を続け、ついに巨大な平家を西海へ追い落としました。朝日将軍と呼ばれ、時代を大きく変えた男なのです。
17文字に情熱を注いだ生涯
芭蕉は、情熱の塊のような義仲の志に共感を抱いたのです。それは、俳句の世界に新風を吹き込もうと、17文字に情熱を注いで闘ってきた芭蕉の一生と、通じるものがあったからではないでしょうか。
この道や 行く人なしに 秋の暮 (芭蕉)
https://shigekeura.exblog.jp/18643515/ 【秋深し -ひと文字違えば-】より
「秋深し」とくれば思い出すのは松尾芭蕉の俳句、「秋深し 隣は何を する人ぞ」である。
この句を詠んだ時、芭蕉はどのような状況にあったのだろうか?
彼がこの世を去ったのが元禄7年(1694)、10月12日、上の句を詠んだのは9月28日、即ち、死の2週間ほど前のものである。
このとき、芭蕉を励ますことを目的で句会が予定されたが病床にあった芭蕉は出席が叶わず、発句として上の俳句を弟子に託した。
結果として句会そのものは流れたのだが、この時、芭蕉はこう詠んだ。
「秋深き 隣は何を する人ぞ」「秋深し」ではなく、「秋深き」である。
芭蕉のこの時の胸中は、
「秋が深まっていき、床に臥せって静かにしていると 自然と隣の人の生活音が聞こえてくる。 今は何をしているのだろうか?」
いつ、どこで、誰が、「秋深き」から「秋深し」に変えてしまったのかは分からない。
ただ、「僅かひと文字、されどひと文字」、随分と印象が異なって来る。
「秋深し」だと、傍観者的、軽い言葉に聞こえるが「秋深き」だと当事者の実感がより強く迫ってくる。
「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」
これは芭蕉が元禄7年(1694)10月8日に詠んだもの、一般的に彼の辞世の句として知られている。
ここで注目したいのが最初の「旅に病んで」の所だ。
これは5文字でなく6文字だ。何故、芭蕉は辞世の句の最初をわざわざ、6文字の字余りとしたのだろうか?
「旅に病んで」ではなく、「旅に病み」の5文字で代用できるじゃないか?
「旅に病み 夢は枯野を かけめぐる」となる。
これまた、僅かな違いで印象が随分と違ってくる。
「旅に病み」の場合は、軽い印象、つまり、旅先でちょっとした病を患っている印象だ。
一方の「旅に病んで」となると物事の深刻性、相当な病に侵されてるように思われる。
だから、字余りとはいえ、ここは、どうしても「旅に病んで」でなくてはいけないのだ。
さて、本当なのか?確かめようもないが、芭蕉は辞世の句を詠んだ翌日の10月9日、
もうひとつの作品を残しているとの説もある。
「清滝や 波に散り込む 青松葉」辞世の句と比べ何と瑞々しい事か、若さあふれる生命力すら感じてしまう。
1日の間に、この変貌、芭蕉は、すべてをやりとげて思い残すことは無いとの潔い心持に到達したのだろうか。
http://www.basho.jp/senjin/s1509-1/index.html 【清瀧や波にちり込靑松葉】より
芭蕉(旅寢論)
句意は「美しい清滝川の流れに、風で吹き散った青い松葉が散り込んでいるよ」となろうか。清滝は京都嵐山の保津川の支流清滝川のこと。
一般的に芭蕉最後の句と言えば「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が挙げられる。しかしそれよりも後、死の三日前に「清瀧や浪にちりなき夏の月」を芭蕉が一生懸命練り直して生まれたのがこの句である。
去来の『旅寝論』によれば、園女宅での自身の発句「白菊の目に立て見るちりもなし」と等類(類想)になるとして改作したという。芭蕉の俳諧への恐ろしいほどの執念が感じられる逸話である。
この句を読むと私には、きらきら光る清滝川の清流に、青い松葉が一本一本突き刺さるように散り込んでゆく景色が浮かぶ。現実には枯れていない松葉が一本ずつ散ることはありえないのだけれど、私の頭には透明で静謐な世界が広がってくる。
芭蕉が熟考の末たどり着いた句に満足し、川に散り込む青松葉のすがすがしい景をイメージしながら死んでいったと考えると、この句が一層魅力的に見える。
(文) 安居正浩
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