晩秋

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けふばかり人も年よれ初時雨 芭蕉

老いてみなければわからないものがある、ということを、芭蕉が自信を持って示しているところに、この句のおもしろみがある。現代、ぼくらの時代は老いるということをマイナスに考えがち。儒教的な長幼の序から自由になったことはいいとしても、老いを若さの退化とばかり、考えてしまうというのは、あまりに貧しいではないか。老いることが楽しみになる一句である。

https://note.com/honno_hitotoki/n/n8245da0572d6?fbclid=IwAR2x0LENEGjTBQ5w2KdD5StDOqxuJ4Y4ZuCoVfndcJEcRH4zvlspQ3Ux5jo 【けふばかり人も年よれ初時雨|芭蕉の風景】より

ほんのひととき

2021年11月26日 06:00

「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書『芭蕉の風景(上・下)』(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

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けふばかり人も年よれ初時雨 芭蕉

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老いなければわからないもの

 元禄五(1692)年秋、芭蕉は江戸で、多才な俳人と会う。森川許六きょりくである。近江彦根藩士で、狩野派の絵画、漢詩と親しみ、貞門・談林の俳諧を学んでいた。明暦二(1656)年生まれ、芭蕉より十二年、年下である。仕事で江戸に出てきた、三十六歳の許六は、はるかに憧れていた芭蕉に入門がかなったのである。同時に芭蕉は、許六を絵画の師として仰ぐこととなる。お互いに学び合う関係となるのだ。

 李由りゆう・許六編の俳諧撰集『韻塞いんふたぎ』に所載の掲出句には、「元禄壬申(五年)冬十月三日許六亭興行」と前書がある。許六亭を訪れた芭蕉の挨拶詠である。ちょうど初時雨が降りかかっていた。歌人、連歌師、俳諧師にとって、「時雨」はただの雨ではない。さっと降りすぐにやむところに無常を感じるものとして、たいせつに受け止めてきた。

 ましてや初めての「時雨」である。そこには初めてという華やぎと、冬という季節の到来を確認する侘しさも加わる。微妙な明暗を感じさせる雨なのである。この雨の味わいを若者が解せるとは思えない。

 句意は「君の若さはすばらしいものだが、今日の初しぐればかりは味わいつくせないだろう。年老いたつもりで、味わってみたまえ」。

 老いてみなければわからないものがある、ということを、芭蕉が自信を持って示しているところに、この句のおもしろみがある。現代、ぼくらの時代は老いるということをマイナスに考えがち。儒教的な長幼の序から自由になったことはいいとしても、老いを若さの退化とばかり、考えてしまうというのは、あまりに貧しいではないか。老いることが楽しみになる一句である。

 掲出句を発句として、歌仙が巻かれている。脇句は許六が付けた。「野は仕付しつけたる麦のあら土」。「仕付たる」は種を蒔いたということ。「あら土」はこなれていない土ということ。句意は「野に麦の種を蒔いたのだが、まだ、土はこなれていない。でも、初時雨に濡れている、すこしずつ馴染んでいくだろう」。

 芭蕉の挨拶に対する返答としては、「入門したばかりで、先生のおっしゃることを完全には理解できてはいません。でも、幸いなことに、すこしずつわかってきました」というような意味になろうか。

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中屋敷跡から上屋敷跡へ

 さて、許六亭はどこにあったか、二つの説がある。

 俳文注釈書『風俗文選犬註解ふうぞくもんぜんいぬちゅうかい』(嘉永元年・1848年刊)によれば、江戸糀こうじ町喰違くいちがい御門内井伊家中屋敷にあったと言う。

 この地は現在、ホテルニューオータニとなっている。東京メトロ銀座線・丸ノ内線赤坂見附駅下車。ホテルの庭には、築山がしつらえてあり、大きな滝が落ちていた。手入れされた木々の緑が濃い。ところどころに石灯籠が立っている。大きなものには十二支の動物が彫り付けてあったり、背の低いものには笠の部分に桃の実が彫り付けてあったりする。

 この庭はもともと加藤清正邸であり、井伊家中屋敷となり、明治以降、伏見宮邸となり、現在に至っている。灯籠はいつの時代のものか、わからないが、味がある。この庭の歴史を感じさせるものになっている。それにしても、江戸時代から整えられてきた庭のすぐ脇に高層のホテルが聳えているのには、めまいを覚える。ホテルの中に入ったら、迷ってしまった。

 阿部喜三男他著『芭蕉と旅 上』では、許六亭は井伊家中屋敷ではなく、上屋敷にあったとする。三宅坂の「社会党本部の付近にあった」と書かれている。現在の「社会文化会館」(平成二十五〈2013〉年に解体)である。

 弁慶橋を渡り、国道246号を皇居方面に向かうことにする。右側には国会図書館が、左側には最高裁判所が見える。三宅坂は、皇居内濠に面して半蔵門から警視庁あたりまで続く緩やかな坂道であった。

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弁慶橋

 彦根藩上屋敷跡には、当時の面影はまったく残されていない。明治期以後、参謀本部、陸軍省となり、現在では憲政記念館が建てられている。館内には大勢の高校生があふれていた。修学旅行だろう。

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憲政記念館

 許六が滞在していたのは、上屋敷か、中屋敷か、ぼくには判断できない。とにかく、今日歩いたどちらかの場所で、芭蕉と許六とは会い、掲出句が作られたのだ。

 三宅坂交差点近くで、首都高速道路は地下へと入る。その上の空地は一面の秋草であった。やぶからしの花の上を雀蜂が歩いている。ときどき花を舐めているようにも見える。あおすじあげはも飛び交っている。濠の向こうの皇居の森から飛んでくるのかもしれない。にわかに風が吹きだして、雨も落ちはじめた。初時雨にはまだ早すぎるが、一日、初時雨の句を唱えていたぼくとしては、ちょっとうれしい。

 やぶからし踏みつけに蜂あゆむなり 實

 一滴はわがくちびるへ初時雨

※この記事は2006年に取材したものです

小澤 實(おざわ・みのる)

昭和31年、長野市生まれ。昭和59年、成城大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。15年間の「鷹」編集長を経て、平成12年4月、俳句雑誌「澤」を創刊、主宰。平成10年、第二句集『立像』で第21回俳人協会新人賞受賞。平成18年、第三句集『瞬間』によって、第57回読売文学賞詩歌俳句賞受賞。平成20年、『俳句のはじまる場所』(3冊ともに角川書店刊)で第22回俳人協会評論賞受賞。鑑賞に『名句の所以』(毎日新聞出版)がある。俳人協会常務理事、讀賣新聞・東京新聞などの俳壇選者、角川俳句賞選考委員を務める。


https://plaza.rakuten.co.jp/plexus/diary/200811080000/ 【初時雨に芭蕉のこと (2)】より

 きょうは立冬。11月は時雨月ともいうが、その名のとおり東京は朝から雨が降っている。初時雨である。

 松尾芭蕉に、「けふ斗人もとしよれ初しぐれ」という句がある。わかりやすく書き直すと、「今日ばかり人も年寄れ初時雨」。冬の寒空から落ちてくる初時雨、人々はみな身をちじめて、なんだか年をとってしまったようだ。まあ、さもあらん、今日ばかりは年寄りなさんせよ。と言うようなことだろう。

 11月3日の朝日新聞に、大きな文字で「芭蕉 動揺」と出たので、何事かと思った。

 山形市の山寺芭蕉記念館を運営する山形市文化振興事業団が、いままで存在が知られていなかった松尾芭蕉の手紙を発見した。国文学専門家の鑑定により、芭蕉自筆の手紙であると断定。

 それは「奥の細道」の旅に出る2ヶ月ほど前の元禄2年(1689)潤1月20日付で、おそらく江戸に在住した武士「金右衛門」に宛てたもの。旅に同行する予定だった門人の路通(ろつう)が、17日に突然江戸を去って上方に行ってしまった。「昨日より泪落しがちにて」と、いささか尋常でない動揺ぶりがつづられている。

 この手紙の発見が重要な意味をもつのは、「奥の細道」の旅に実際に同行した曽良(そら)がじつは路通の代りだったこと、そして路通に何が起き師芭蕉にとって重要となるはずの旅への同行を出発直前になってキャンセルし、そればかりではなく江戸を去ってしまった「事件」という新しい謎が出て来たことである。おそらく路通は芭蕉に何も告げずに姿を消すようにいなくなったのであろう。

  山形大学大学院の山本陽史教授(近世日本文学)は、新聞によれば、芭蕉は路通の才能を評価していたので「門人たちの間であつれきがあったのかもしれない」と推測している。

 芭蕉にとって泣くほど悲しいこういう事前の事件があったとなれば、『奥の細道』に対する鑑賞的意味合いが少しちがって来るかもしれない。

 この手紙は山寺芭蕉記念館で開催されている『芭蕉・蕪村・一茶』展で16日まで公開されているそうだ。

 さて、11月はその松尾芭蕉の亡くなった「芭蕉忌」でもある(陰暦10月12日)。元禄7年、旅の途中の大阪で病没した。行年51。

 

 そんなことを思いながらしばらくぶりに私の拙い句を五つ。

  夢去りて枯れ野やしおる時雨月   青穹(山田維史)

  誰(た)がことを想う末期や鷹渡る

  凩や三途をわたる裸形かな

  一つ三つ茶の花落ちて文来たる

  冬の日や鴉ひとつ鳴き暮にけり 


https://www.city.yamatokoriyama.lg.jp/soshiki/hishojinjika/shichoshitsu/1/16/3119.html 【平成23年10月31日 初時雨(はつしぐれ)】より

けふ斗 人もとしよれ 初時雨

良玄禅寺(茶町)の境内にたたずむ石碑に刻まれた松尾芭蕉の句で、今の言葉に置き換えると、「今日ばかり 人も年寄れ 初時雨」となります。

元禄5(1692)年の秋、江戸の彦根藩邸で開かれた句会で、当時48、49歳の芭蕉が、30歳代半ばの弟子森川許六(きょりく)らに対して、初時雨が降ってきた。若い人も今日だけは年寄りの気持ちになって、時雨の情緒をしみじみと味わってほしい、と呼びかけた句だそうです。

年寄れという言葉を聞いて、年齢に対する感覚の違いに驚かされますが、この2年後、50歳代の初めに芭蕉は亡くなっていて、二度びっくりです。

その芭蕉は何度か大和を訪れています。郡山の地に足を踏み入れることはあったのか、なぜ初時雨の句がこの寺にあるのか、ご存じの方はお教えください。

一方、弟子の許六はその後、

菜の花の 中に城あり 郡山

という句を残しています(郡山城跡の市民会館前に句碑)。

時雨というのは、秋から冬にかけて、一時的に降ったりやんだりする雨や雪のことですが、台風12号による被災地の方々にとっては辛い季節の到来。一日も早い復旧・復興を願うばかりです。

先日、宮城県東松島市で被災地支援の経験を積んだ職員を、県の要請に応じて十津川村に派遣しました。

さまざまな形で、これからも支援を続けていかなければと考えています。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%8D%81%E6%9D%91%E8%B7%AF%E9%80%9A 【八十村路通】より

八十村 路通(やそむら ろつう、慶安2年(1649年)頃 - 元文3年7月14日(1738年8月28日)頃)は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。

芭蕉との出会い

『蕉門頭陀物語』によれば、芭蕉が草津・守山の辺で出会った乞食が路通である。乞食が和歌を楽しなむとの話に、芭蕉は一首を求め「露と見る 浮世の旅の ままならば いづこも草の 枕ならまし」と乞食が詠んだ所、芭蕉は大変感心し、俳諧の道を誘い師弟の契りを結び、路通(又は露通)の号を乞食に与えた[1]。

出自

路通の出自については、『猿蓑逆志抄』において「濃州の産で八十村(やそむら、又ははそむら)氏」、また『俳道系譜』においても「路通、八十村氏、俗称與次衛門、美濃人、大阪に住む」と記されている。また、『芭蕉句選拾遺』において路通自ら「忌部(いんべ)伊紀子」と、『海音集』では「斎部(いんべ)老禿路通」と記している[2]。出生地についても、「美濃」から「大阪」、「京」、「筑紫」、「近江大津の人で三井寺に生まれる」と様々な説がある。森川許六による『風俗文選・作者列伝』に記されている通り「路通はもと何れの所の人なるか知らず」[3]路通は漂泊者であり、近江の草津・守山辺りで芭蕉と出会ったと多くの書が示していることだけが事実と確認できる。

生涯

路通は芭蕉との出会いの後江戸深川の採荼庵に芭蕉を訪ねたとされ、『笈日記』によれば元禄元年(1688年)9月10日江戸素堂亭で催された「残菊の宴」、それに続く「十三夜」に宝井其角・服部嵐雪・越智越人等と共に参加していることが、路通が記録された最初の資料とされる。また、句が初めて見えるのは元禄2年(1689年)の『廣野』からで、元禄3年(1690年)『いつを昔』にも句が載っている[2]。

元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)芭蕉が河合曾良を伴い「奥の細道」の旅に出ると、路通も漂泊の旅に出て近江湖南周辺を彷徨い、越前敦賀に旅より戻った芭蕉を迎え、大垣まで同道したとされる[1]。芭蕉が故郷伊賀に帰ると、路通は住吉神社に千句奉納を行い近畿周辺を彷徨った後、元禄3年(1690年)には大津に出てきた芭蕉の下で濱田洒堂との唱和を行った[2]。その直後、師の辿った細道を自ら踏むため旅立ち、出羽等に足跡を残し、同年11月江戸に戻ると俳諧勧進を思い立ち翌元禄4年(1691年)5月『勧進帳』初巻を刊行した(初巻のみで終わる)[2]。『勧進帳』の内容は選集として一流と言え、同じ元禄4年(1691年)の『百人一句』に江戸にて一家を成せる者として季吟・其角・嵐雪等と共に路通の名があり、俳壇的地位は相応に認められていた[2]。ただ『勧進帳』において「一日曲翠を訪い、役に立たぬことども言いあがりて心細く成行きしに」と言い、また元禄4年(1691年)7月刊行された『猿蓑』において「いねいねと 人に言われつ 年の暮」と詠むなど、蕉門において疎まれていたことが伺える[2]。『勧進帳』出版の前からその年の秋にかけ、路通は芭蕉と京・近江を行き来し寝食を共にしていたところ、向井去来の『旅寝論』によれば「猿蓑撰の頃、越人はじめ諸門人路通が行跡を憎みて、しきりに路通を忌む」、越人は「思うに路通に悪名つけたるは却って貴房(支考)と許六なるべし」と語っている。許六は『本朝列伝』において、路通のことを「その性軽薄不実にして師の命に長く違う」と記している。

元禄6年(1693年)2月の芭蕉から曲翠宛の手紙において、路通が還俗したことが記され「以前より見え来ることなれば驚くにたらず」と述べ、また『歴代滑稽傳』に勘当の門人の一人として路通が記されるに到っている。その後、路通は悔い改めるべく三井寺に篭もったとされる[2]。元禄7年10月12日(新暦1694年11月28日)芭蕉の臨終に際して、芭蕉は去来に向かい「自分亡き後は彼(路通)を見捨てず、風雅の交わりをせらるるよう、このこと頼み置く」と申し添え破門を解いた[1]。

芭蕉死後、路通は俳諧勧進として加賀方面に旅に出、また『芭蕉翁行状記』を撰び師の一代記と17日以降77日までの追善句を収め元禄8年(1695年)に出版した。元禄12年(1699年)より数年、岩城にて内藤露沾の下にて俳諧を行い、宝永元年(1704年)冬には京・近江に戻り、晩年享保末年頃大阪に住んでいたと伝えられる[2]。路通の死亡日時は元文3年7月14日(新暦1738年8月28日)と言う説があるが、定かではない。

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