メタファー

https://webronza.asahi.com/science/articles/2020061700007.html  【新型コロナを「戦争」の隠喩で語るのはやめよう】より

社会統制の強化ではなく、「他者を守る」という考え方を広げたい

COVID-19禍ではびこる「戦争」の隠喩

 世界で猛威をふるっているCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)禍で、「戦争」の隠喩(メタファー)で語る言説が目につく。例えば国内外の政治家たちは、自分たちはコロナウイルスとの「戦争の最中」にあり、今は「戦時中」であると言う。また報道でも、集中治療室(ICU)と救急救命室(ER)は「戦争地帯」であり、医師や看護師ら「兵士」が決死の戦いをしていると称賛する。

 病気への対応が「戦争」や「闘い」の隠喩をまとうことは珍しくはないが、これには問題が多い。実際の戦争を過小評価する一方、「戦時中」をうたうことで医学的予防手段であったものを社会的統制の手段に変えるリスクがあるからだ。ウイルスには私たちを殺そうとする意思はない。病いを隠喩で飾り立てるのはやめて、あくまで誰しもがかかりうる「病い」として見ることが必要である。

拡大子供たちに贈るマスクを作る学校給食センターの職員たち=2020年5月21日、熊本県水俣市白浜町、奥正光撮影

 感染拡大を防ぐために奨励されているマスクの着用や社会的距離を取ることも、「戦争」の隠喩では、病気をうつされるという他者からの攻撃に対して自己防衛をすることになる。しかし、自分が無症状の感染者であるかもしれない以上、これは他者への感染を防ぐための思いやりと連帯の行為である。マスクの入手が困難であった時期、人々は手間暇をかけて手作りしたり再利用したりして、困難な状況に対応してきた。COVID-19から「戦争」の隠喩を引きはがすと、パンデミックという危機の中において、人々が工夫や忍耐を重ねて日常生活を作り上げようとしているありようが見えてくる。そのような見方を共有することこそ、長丁場となる「ウィズコロナ」の時代に求められている。

公衆衛生には社会統制の側面がある

 病いに対して「戦争」の隠喩を使うと、「戦争に勝つ」という大義のために個人の自律性が制限されてもやむを得ないと示唆してしまう。COVID-19拡大予防のための外出制限は事実上の隔離ともいえるが、フランスの哲学者ミシェル・フーコーは『近代医学の誕生』の中で、「公衆衛生とは、隔離の洗練されたかたち」といい、公衆衛生の社会統制の側面を指摘した。ひとたび感染症が起こると、都市は細分化され、それぞれの空間は綿密に分析され、絶えず記録がとられるという「監視された軍事的モデル」が適用される。


https://news.yahoo.co.jp/byline/haradatakayuki/20200615-00183376  【ウィズコロナ時代のわれわれの「こころ」:社会を疲弊させる「隠喩」とは】 より

感染者への中傷や差別の蔓延

 新型コロナ感染症の蔓延が拡大するなかで,さまざまな誹謗中傷や差別がクローズアップされています。それは大まかに分けて,感染者に対する差別,医療従事者や配送業者など社会機能の維持のために働く人々への差別,これらの人々の家族に対する差別,さらには外国人への差別などあります。

 これらの差別を助長した責任の一端は,マスメディアにもあるといえるでしょう。ニュースやワイドショーは,感染者の年齢,居住地,職業などのほか,感染前後の行動を事細かに報道し,視聴者に怒りを焚きつけているかのような報道ぶりでした。そしてそれを見た人々は感染者を特定しようとして,名前や顔写真などの不確かな情報をSNSで拡散するような動きまでありました。

 マスメディアも最近は反省したのか,日本新聞協会と日本民間放送連盟が「新型コロナウイルスの感染者や医療従事者らへの差別,偏見がなくなるような報道を心掛ける」とする共同声明を発表しています。

 このような動きを見ていると,コロナに感染するよりも,感染した際の誹謗中傷や差別がこわいという気持ちになっている人も多いのではないでしょうか。

隠喩としての病

 スーザン・ソンタグは,自身ががんにかかった体験をもとに,人は病気がもたらす身体的苦痛だけでなく、その病気への隠喩による社会的意味によって二重に苦しめられると述べています。これはがんだけでなく,かつては結核やハンセン病,最近ではHIV感染症などに対してもいえるでしょう。

 たとえば,HIVは当初は男性同性愛者の病気であるとされ,性的放縦さが原因であると非難されました。HIVに感染したということは,「不埒な性行動を繰り返していた同性愛者である」という「隠喩」がついて回ったのです。もちろん,それが正しいかどうかは後回しです。こうして,病気そのものよりも大きな意味を持つようになった隠喩によって差別され,深く傷つけられるという事態に陥ります。

 もっと最近の例では,ある元アナウンサーが「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」という暴言を吐いたことを思い出します。彼の主張は,透析が必要になったのは暴飲暴食などの結果であり,「自己責任」だということでした。そして高額な医療費をわれわれの税金で負担するのは容認できないので,自己負担できないなら死んでしまえという暴論です。ここでも,腎臓病などに対する差別的で暴力的な隠喩が込められています。

コロナと隠喩

 新型コロナ感染症にも同じことが起こっていないでしょうか。

 「みんながこれだけつらい自粛をして感染しないように気をつけているのに,無責任な行動や自分勝手で気ままな行動をしていたから感染したのだ」「感染を周囲に広げたことは,社会への脅威でありテロのようなものだ」。このような批判や誹謗中傷がSNSにはあふれています。

 感染して番組を休んでいたニュースキャスターは,番組復帰の際に,感染前後の私的な行動をあたかも懺悔のように事細かに報告しました。そうでもしなければ視聴者の怒りは収まらないと思ったのでしょうか。事実,たくさんの「お叱りの言葉」が届いたそうです。

 攻撃の対象になるのは個人だけではありません。少し前はパチンコ店,そして今はホストクラブなどが批判の槍玉に上がっています。ホストクラブなど接待を伴う飲食店に関しては,「夜の街クラスター」なる言葉が独り歩きして,コロナ=社会を乱す厄介者という隠喩がますます深く色濃くなりつつあります。

人々の恐怖心

 真夏日すれすれの炎天下,ほとんど人通りのない住宅街でも,マスクをして歩いている人がいます。これは感染を恐れているというよりは,マスクをしていないことを誰かに見とがめられることを恐れているかのようです。

 再開された学校では,教師がマスクをし,フェイスシールドを装着したうえで,ビニールシートの向こう側で授業をしています。これを過剰だと言ったら怒られるでしょうか。できる限りの防御策を何重にもすることが大切なのでしょうか。しかし,それは感染防御というよりは,万一感染が起こってしまったときの批判からの防御が目的になってはいないでしょうか。

 どれもこれも,コロナよりもコロナの隠喩が怖いのです。いまやコロナは「社会的に恥ずべき病気」であるかのように扱われることもあり,病気になったことの「自己責任」が厳しく問われる病気となっています。われわれは新型コロナ感染症という病気そのものよりも,その病気が持つ社会的隠喩に恐れ,疲弊しています。

隠喩の生まれる理由

 それではなぜこのような病気にまつわる隠喩と,それに基づく誹謗中傷や差別が生まれるのでしょうか。

 その核心にあるものは,病気に対する不安です。不安については前回の記事で触れましたが(コロナと不安と心のケア),それはわれわれの健康や生存を脅かすものに対する生物的な感情です。われわれの存在にかかわる根源的な感情だとも言えます。

 それは感情ですから,理性的なものではありません。強い感情によって理性的な判断が曇っている人は,物事を理性的,論理的に理解することができなくなります。これまでも数多くの研究が,不安や抑うつ状態にあるときはわれわれの判断力や思考力が低下することを示しています。

 コロナ感染症が未知の恐ろしい病気であることはたしかですが,感染者を責めることで感染が収束するのでしょうか。われわれの不安が一時的に紛れるだけではないでしょうか。

 コロナの予防には,ソーシャルディスタンス(社会的距離)を取ることが大切だとされています。しかし,コロナの恐ろしいところは,その病気の症状だけでなく,それに付与された隠喩によって,われわれの心の距離までもが引き離されてしまうことです。

前回記事「ウィズコロナ時代のわれわれのこころ:コロナ不安と心のケア」

https://news.yahoo.co.jp/byline/haradatakayuki/20200606-00181618  より

記事配信にあたってのご挨拶

 今日からYahoo!ニュースで「事件を読み解く心理学」というテーマで記事を配信することとなりました。私のバックグラウンドは心理学,特に臨床心理学,犯罪心理学,精神保健学などです。世の中で起きる様々な事件,事故,社会問題について,心理学的な観点から分析を行っていきたいと思っています。

 その際のキーワードの1つは「エビデンス・ベイスト」です。心理学は科学であることを標榜していますが,この国で事件や事故などの社会問題が起きた際にテレビや新聞,雑誌などでコメントをする「心理学者」の意見には,残念ながら首をかしげるようなものが少なくありません。なぜならば,それは本人の主観や古い学説などに基づいたものが多く,とても最新最善のエビデンスに基づいたものではないからです。心理学が科学として,社会問題の理解や解決に少しでも貢献できるように,これから随時記事を配信していきたいと考えております。どうぞよろしくお願いいたします。

ウィズコロナの時代

 さて,記念すべき第1回のテーマを考えたとき,やはり新型コロナ感染症の問題と向き合わざるを得ません。私は感染症の専門家ではないのでコロナ感染症自体を俎上に載せるのではなく,感染症が蔓延するなかでの人々の心理や問題行動に焦点を当てて,今後何回かに分けて,さまざまな視点から分析をしていきたいと考えています。

 今回テーマに上げたいのは,「コロナと不安」の問題です。

 誰もが経験したことのない目に見えない敵に対して,われわれは大なり小なり言い知れない不安を抱えています。それは病気に対する不安だけでなく,経済的な不安や,もっと漠然とした将来への不安などさまざまです。新型コロナに感染していてもいなくても,こうした不安は誰かれ問わず襲いかかってきます。

 コロナウイルスとの戦いは,われわれが当初想像した以上に長く続くものであると専門家は口をそろえて言っています。われわれは,もう「コロナ以前」には戻れないのかもしれません。そのためには,「新しい生活様式」に慣れ,感染からわれわれ自身や周囲の人々を守ることはもちろん,「コロナ不安」「コロナ疲れ」といった心の問題にも上手に立ち向かっていく必要があります。

不安とは

 そもそも不安とは何でしょうか。なぜわれわれは不安になるのでしょうか。

 不安とは,「われわれの身に何か良からぬことが起きるのではないか」というときに抱く漠然とした感情です。確かにこれは厄介な感情ですが,同時にわれわれに危険を知らせ,それへの対処行動を取るように仕向けてくれるシグナルの働きもします。コロナ感染症に不安を抱くからこそ,われわれは手洗いをし,マスクを装着し,自粛もしたのです。それがわれわれの身を守る行動だからです。

 太古の昔,われわれの遠い祖先は,今とは比べものにならないくらい,脅威に満ちた生活を送っていました。野生動物,他の部族,そして病気やケガ。こうした脅威を敏感に察知し,不安のシグナルが鳴った者は,脅威への対処を講じて生き延びることができました。反対に,脅威に鈍感で不安のシグナルが鳴らない者は,やすやすと動物や敵の餌食になったことでしょう。つまり,不安を抱きやすい人々は生き延びて,その遺伝子を後の世代へとつなぐことができたのです。

 したがって,われわれは進化の過程で,不安を抱きやすい人々の子孫なのです。不安のDNAを受け継いでいるのです。そして,不安とはサバイバルのためのシグナルを鳴らすという重要な機能をもっているのです。

不安への対処

 とはいえ,不安は不快で厄介な感情であることは間違いありません。それが過剰になると,心身の不調のもとになります。したがって,そうなる前に何らかの対処をする必要があります。これを心理学では「コーピング」と呼びます。効果的なコーピングを身に付け,不安に対して上手に対処することが大切です。

 その前に,一番大事なことがあります。それはまず,「不安を受け入れる」ということです。

 不安というのは,不快で認めたくない感情であるために,多くの人はそこから目をそらしたり,不安を感じていない振りを装ったり,あるいは無理に抑え込もうとしたり,気をそらそうとしたりします。しかし,これはしばしば逆効果です。

 したがって,まずは自分の不安をあるがままに受け入れてください。少し興味をもって観察してみてください。ゆっくり深呼吸しながら観察するのもよいでしょう。

 先に述べたように,不安はわれわれが生きていくうえで重要な感情であり,サバイバルのためのシグナルです。自分のなかの大事な感情を受け入れて,「自分は不安な状態にある」ということを認めましょう。今の気持ちを文章にしてみてもよいかもしれません。殴り書きでもよいので,深呼吸をしながら,自分が今何を感じているのか,自問自答しながら文字にしてみましょう。

 不安を感じているからといって,それは情けない恥ずかしいことではないし,弱い人間であることを意味するのでもありません。逆説的に聞こえるかもしれませんが,不安を受け入れて初めて,不安と上手に付き合うことができ,過度な不安の解消につながるのです。ここで大事なことは,「不安とは異常な状況における正常な感情なのだ」ということをしっかり自覚することです。

 コーピングを駆使するのは,その後です。これは何も特別なことをする必要はありません。あなたが一番好きなこと,集中できること,リラックスできることをやってみましょう。美味しいものを食べる,体を動かす,歌を歌う,お笑い番組を見る,ペットと遊ぶ,ゆっくりとお風呂に入る。何でも構いません。不安から気を紛らわせようと意識するのではなく,好きなことを好きなようにやればよいのです。そして,それができることに感謝しましょう。

 しかし,それでも気持ちが晴れないときは,周囲の人々や心の専門家に頼ってみましょう。人に頼ることに抵抗感を抱く人も多いと思いますが,困ったときに誰かに頼るということもまた,必要なスキルです。

不幸な経験から学ぶ

 コロナ禍の中で,われわれは多くのことに気づきました。安全だと思い込んでいた社会が,こんなにももろいものであったこと。疫病などはとっくの昔に制圧したと思い込んでいたのが,幻想に過ぎなかったこと。そして,われわれがかくもか弱い存在であること。

 しかし,この不幸な感染症を経験したわれわれは,ただそれに流され翻弄されるだけではいけません。新しいウィズコロナの時代を生き抜くために,そこから何か新しいことを学ぶ必要があります。人間の弱さやもろさを受け入れることは,その第一歩になるでしょう。

 嫌な体験のポジティブな面に目を向けてみることもまた,長引く不安に対処するために効果的な方法です。アメリカの心理学者ハワード・テネンは,不幸な経験をした人々を2つのグループに分け,片方にはその体験の「良いところ探し」をしてもらい,もう片方には「嫌なところ探し」をしてもらいました。すると,「良いところ探し」をしたグループの怒りや不快感などが有意に改善されたのです。

 われわれもこれを実践してみてはどうでしょうか。たとえば,この国には献身的にわれわれの命を守ってくれる素晴らしい医療従事者がいて,生活を支えるための物資を運送し販売してくれる人々がいて,街を清掃しゴミを処理してくれる人々がいる。そのありがたさに改めて気づき感謝できたことは,不安な毎日の中の光であったのではないでしょうか。 

原田隆之

筑波大学教授

筑波大学教授,東京大学客員教授。博士(保健学)。専門は, 臨床心理学,犯罪心理学,精神保健学。法務省,国連薬物・犯罪事務所(UNODC)勤務を経て,現職。エビデンスに基づく依存症の臨床と理解,犯罪や社会問題の分析と治療がテーマです。疑似科学や根拠のない言説を排して,犯罪,依存症,社会問題などさまざまな社会的「事件」に対する科学的な理解を目指します。主な著書に「あなたもきっと依存症」(文春文庫)「子どもを虐待から守る科学」(金剛出版)「痴漢外来:性犯罪と闘う科学」「サイコパスの真実」「入門 犯罪心理学」(いずれもちくま新書),「心理職のためのエビデンス・ベイスト・プラクティス入門」(金剛出版)。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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