Facebook・兼井 浩さん投稿記事
空気を意識し水を意識する時は空気や水が汚れている時 意識をしないほうが自然
空気や水だけでも意識しないですむあたりまえの世の中でありたい
自然がいい 自然がいい 相田 みつを Mitsuo Aida詩人 書家 1924〜1991
偉人たちの名言集より
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今、安全な水を飲むことさえままならない現代社会です。さらに空気まで気にしなければならなくなりました。子どもへの影響が深刻だと騒がれる中、「ボクはいつまで生きられるの?」と、心配する子がいます。
多くの犠牲を払って、「永久に、戦争はしない!」と宣言できた日本人ですが。これだけ、多くの尊い命を失いながら、「自然を破壊することはしない!」とは言えないのでしょうか。さらに言えば。尊いのは人間の命だけでしょうか?
ある人が言っていました。「犬が好き、猫が好きな人間はたくさんいるけど。人間が好きな動物や植物がどれだけいるのだろう」人間は言葉を使い、考えることができ、何かを造ることが出来るから偉いのでしょうか?
人間界で自己満足するものを、自然界から搾取して造っていますが、人間は一切自然のために何ものをも造れない存在です。
動物や植物、自然に癒されるのが人間ですが、果たして人間は、人間以外の何かの癒しになっているのでしょうか?
それが出来なくて、何も生み出せないのであれば、せめて生かしてくれてる存在たちを大きく破壊しないようにしたいです。
少なくとも人間界のルールでは、何かをいただいたら、それに相当するものをお返しするわけですよね。
もらうだけもらって後は知らんぷり。これではやっぱり怒っちゃいますよね。
いつまでも地球のガン細胞をのさばらせておいて、共倒れするほど地球も考えなしではないでしょう。
それとも人間は、共倒れするまで増殖する本当にガン細胞でしかないのでしょうか。
未来の子たちが生まれてこられる地球を残してあげられるかどうかは、今の私たちの行動次第です。自然がいい!本当に自然がいい!
~治造エカシに学ぶ、自然の知恵~ さとうち藍著 関戸 勇撮影
人間は自然のカムイ(アイヌ語で神)とともに生きていると語る、浦川治造エカシ(アイヌ語で長老)の自然との付き合い方を、1年を通して追ったルポルタージュ。
自然への畏怖と感謝の念、森羅万象への慈しみの心を今も持ちつつ、アイヌの文化を守り生きる治造氏。
命をいただく感謝の祈り、伝統のサケ漁、チセと呼ばれる家造り、猟をしながらの冬山歩き…。
いまや伝承する人も少ないアイヌの文化・しきたりが豊富な写真とともに綴られ、残すべき記録としても貴重なもの。
自然との共存の知恵も満載で、現代の私たちに、本当のエコロジーとは何かを教えてくれています。
先住民サミットなどでもアイヌ文化に注目が集まるいま、ひとりでも多くの人に読んでいただきたい1冊です。
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アイヌの人たちについてさほど詳しくなくとも、古代から受け継がれている習慣や感覚、判断の仕方や物への愛着などといったことが、今に至るわたしたちの社会の変動によって生活の質が変わり、何を優先するかが変わり、人を見る目が変わってしまった状態と、どれほどかけ離れているかに気づく。
本書はそのことを確認させてくれる。著者は自然人・先住民族にあこがれ、共感し、教えられて学んでいく事柄の数々に、すべてが新鮮で楽しいとの実感を得ている。ふしぎさを怖がらず、違和感に引きずられない。融けこもうとしている。自分たちの暮らしに必要なものをすべて自然からのみ得て、近代的な社会と行政が奪ってきたものを取り返そうとしており、その方法を都市市民から決して嫌悪などされない方法によって果たそうとする姿勢に、心から惹かれている。
だが、ライターはライターである。記述することとアイヌの人々と一緒に生きることとはどこまでも別のことだ。書名の「エコロジー」という言葉に、そのことがよく顕れている。浦川治造氏やその姉の宇梶静江さんたちによって見せられる、林の切り開き方や保存食の製法やサケ漁をつぶさに観察しつつ、彼女は現代市民の観察法から抜け出ようとしていない。だからわたしたちに楽に読めるのだろうし、理解しやすく、気持を寄り添わせた受けとめ方もできるのだろう。
ただ、自分の自然体験から言うと、実は異文化や初めて接する自然と向き合い、融けこんだところで実感を得て深々と見とおすには、もっと土埃の異質さや、丹田から発生する声明のような力感、「神々が遊ぶ庭」という意味のカムイミンタラへ神々と同化しようとするかのような逼迫、極度の緊張もまた、必要なはずである。笑い声の気さくさや、料理が盛られた器のなじみやすさ、チセと呼ばれる家屋の作り方の素朴さが、そうした緊張をほぐすのでなく、自然の懐にあるものの確かさと厳しさを証拠立てているとの見え方を、やわらかい表情で受け入れるように接しながら、心で思っておく必要がある。
市街地で生活するわたしたちのような者には、常にある種の馴れ合いが何ものとの間にも漂うが、アイヌの人たちの伝統的な暮らしの中にはそれがないはずである。馴れ合いではなく、当たり前がある。馴染まないものに向かって排除する精神ではなく、じっと正面から見つめて長く過ごせる精神があるだろう。それはたとえば、公園で飼育されている平和でおとなしいシカと、エゾシカの野獣としての力強さ、アイヌのハンターたちを幾人も死傷させてきた者たちとの違いでもあるのではないか。
言うまでもなく取材者は対象と距離を置くものだ。まとめるために。言葉で明らかにしたいことのために。そのことは出版文化の経済と歴史からはずせない。だから著者は次のような一言を置いている。
未来に生きる子どもたちのために、私たちは欲望の歴史に歯止めをかける時期にきている。
歯止めをかけるという修正ではダメなのだ。それが可能なら、わたしたちはとっくにそれを成し遂げている。方法は別にある。
それをアイヌの言葉がわたしに確かめさせてくれる。本書の中の「治造さん」のウェンカムイ(悪いカムイ)の存在に対する戦い方のことが、おそらく他の読者の胸も打つだろうと思う。特に自然さが。彼は千葉県君津市にカムイミンタラを建設中とのことだが、ここには来たい人が誰でも来てよいし、思い思いに交流してよい、率直に語り合い、川釣りを楽しみ、持参した寝袋にくるまって寝てもらうが、眠っている間に殺されずに済む場所は希望者に教えてあげる、と言う。
http://www.2kamuymintara.com/
この考えと実践は、ウェンカムイと何によって戦っているかを明らかにしてもいるだろう。彼は避けない。潰さない。直す生き方をしている。その直しは進路変更ではなく取り返しであり、現代社会に認知させることになっている。そして求心力を求めている。そのための庭なのだ。本書から、そのことがものすごく強く感じ取れる。
グローバリズムの、アイヌという根っこを持った事例がここにある。もちろん、求心力は必ず対抗力を生む。そうした力との戦いという、不毛の結果しか残さない事態にならなければよいがと祈りたい。求心、つまりは中心を持つ力ではグローバリズムは結局のところ世の中のウェンカムイを減らせない。中心を持たない、一握りではない数々の、並び立つ中心どうしの絆でしか可能にならない大変な時代。
著者の記述と写真の多くは、治造さんたちアイヌの人々の伝統的な生活技法の良さ、多彩さ、やり方の根拠の正しさ、エコロジックさを伝えることに当てられている。記録として、まちがいなく最も親しめ、最もわかりやすくて詳細な内容だと言えるのではないか。みごとな記録からたくさんの刺激を得て、自らの生活の一端を工夫してみたいと思う人にとっては、まさに福音書のようなものだ。実に一つ一つがみずみずしい。
そのこととともに、わたしはアイヌの英雄シャクシャインが、かつて徳川幕府松前藩と戦った物語を思い出す。彼の悲劇と慰霊祭のことが本書の末尾に書かれている。和睦に応じて招かれた宴の席で、彼は殺されてしまった。結果を出すために、人間は人間であることをやめる。今も同じことがくりかえされている。
自然は、自然であることをやめたことなど、一度もないのに。
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