Facebook・清水 友邦さん投稿記事 「無為自然」
老子を開祖とする道教の修行者は練丹という内丹修行を通して金丹を得て道(タオ)と一体となることを目指します。
内丹の基礎をつくる最初の段階は胎息や吐納などの呼吸法や動功などの身体技法や静功などの瞑想を学びます。
心を修煉することを荘子は「心斎」「坐忘」といっています。
「一切の迷いを去って、心を純一に保つがよい。耳で聴くより心で聴く、いや、心で聴くより気で聴くがよい。耳は音を感覚的にとらえるにすぎず、心は事象を知覚するにすぎない。だが、気はちがう。 気で聴くとは、 あらゆる事象をあるがままに、無心にうけいれることだ。タオはこの無心の境地において、はじめて完全に顕現する。心の斎戒とは、この無心の境地をわがものとすることなのだ」荘子
「タオを体得するためには、心に雑念をいだいてはならぬ 雑念をいだいていれば、心は乱れ、悩みに満たされるにきまっている。心の安定が得られなくては、タオに近づくこともできはしない」荘子
天地万物生成の過程を老子は「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ずる」と述べています。
「道は一より始まるが、一のみでは何ものをも生じない。そこで分かれて陰と陽となり、陰と陽とが、和合して万物を生ずる。されば一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ずる」「淮南子」天文訓の一節
道教では宇宙の根源的エネルギーを大きく気と呼び、さらにそれを精(せい)、気(き)、神(しん)の三つにわけました。
精(せい)はインド哲学のグロス(粗大)、気(き)はサトル(微細)、神(しん)はコーザル(元因)に相当します。
「虚は神に変化し、神は気に変化し、気は精に変化し、精は形に変化し、形は人間となる」
内丹修行は虚ー神ー気ー精の天地万物生成の過程を逆にたどります。
物質的な粗いエネルギーの精の状態から鍛錬してより微細なエネルギーの気を煉る「煉精化気(れんせいかき)」気のエネルギーからより微細な神を煉る「煉気化神(れんきかしん)」の段階を経て金丹は完成します。
最後の段階の「還虚(れんきょ)」は「守中(しゅちゅう)」と呼ぶ練丹法を行います。
道教龍門派の伍守陽(1552-1640. Shouyang Wu)は次のように述べています。
「中とは中間の中を意味せず、中空虚空の中を意味する。守とは固く守ることを意味せず、心の空虚な状態を意味する。
二つの丹田に意識を無理に集中するわけでもなく、意識をゆるめてしまうわけでもない。
元神が二つの丹田を静かに観照し、空寂の境地を現出する。」伍守陽
瞑想の共通点は心を静かにすることにあります。心がくつろいで静まれば神は完全となって元神が現れます。
すべての雑念が消失した状態を金丹と呼ぶので、金丹は煉ることでは得られないのです。
最後の段階では「すること(doing)」ではなく「あること(being)」が求められます。
「丹を煉ることは、何かをすることではない。
何もしないことを煉丹と言うのである。
人間は、何もしなければ、心が清まって無我の境地に入れるのに、
どうして丹を煉る必要があるだろうか。
丹というものは、煉る必要のないものが、煉るのによい丹である」
やり手がいるうちはマインドが静かになりません。
やり手がいなくなったときはじめてタオが姿を現します。
元神が現れるのは無為の境地(ノーマインド)であって有為の境地はマインドの次元なのです。元神は観照する真我といっていいでしょう。
最後の段階は呼吸法や大周天などの修練の必要が無くなります。
到達しようとする行為自体が自我意識を強めてしまうからです。
還虚とは虚に帰ることです。
虚は二元性を超えたタオと言ってもいいでしょう。
自分は無であり、かつすべてであると気づきます。
どこにもいないと同時にあらゆるところにいると自覚します。
道教では不死を求めますが、不死とは肉体が永遠に存続する事ではありません。
人間の身体に住んでいる神々と関係を結び、タオ(道)との合一を果たす事でした。
仙人とは不老不死を得た人の事で、内丹のプロセスとは永遠の自己に帰ることです。
このことを道教では練虚合道といって究極の最高段階とされています。
それはあるがままの無為自然のことでした。
修行形態や扱う言語シンボル象徴は異なりますがヨガも道教も仏教も究極の到達点は共通しているのです。
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