桃印

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000290731 【松尾芭蕉の『奥の細道』に冥界(不幸)の使いとして出てくる鳥の種類が知りたい。】 より

回答

①『奥の細道』に出てくる鳥が含まれた句は7つ見つかったが、いずれも「冥界、死、不幸」を象徴するような場面や句ではなかった。

②鳥について調べたところ、ホトトギスが「冥界からの使者と信じられていた」という記述や、「古代中国では蜀の王 杜宇の魂が化したものと言われる」という記述があった。

③『奥の細道』の句ではないが、「郭公(ほととぎす)声横たふや水の上」という芭蕉の句は、ホトトギスを亡くなった桃印の魂に見立てた句のようだ。

回答プロセス

(Answering process)

①『おくのほそ道』松尾芭蕉/著 角川書店/編 角川書店 2001年

鳥らしいものが出てくるのは下記の句だが、質問にあるような「冥界(死)」や「不幸」を象徴するような場面や句は見当たらなかった。

p16  行く春や 鳥啼き 魚の眼は涙

p43  木啄(きつつき)も 庵はやぶらず 夏木立

p46  野を横に 馬牽むけよ ほととぎす

p104 松島や 鶴に身を借れ ほととぎす(曾良)

p158 汐越(しおこし)や 鶴はぎぬれて 海涼し

p159 波越えぬ 契りありてや 雎鳩(みさご)の巣(曾良)

p211 帰山では初雁の声を聞き~

② 『新日本大歳時記-カラー版-』飯田龍太/監修 稲畑汀子/監修 金子兜太/監修 沢木欣一/監修 講談社/編集 講談社 2008年

p441「ホトトギスの声と日本の民話」のコラムには、ホトトギスについて、

・冥途からの使者と信じられていた。

・死出の田長との異名がある。 という記述がある。

『日本大百科全書 21』 小学館 1988年

p596「ホトトギス」の項あり。ホトトギスは古代中国では蜀の王、杜宇の魂が化したものと言われていた、とある。

③「郭公(ほととぎす)声横たふや水の上」

  芭蕉が杜宇の逸話を元にホトトギスを亡くなった門人、桃印の魂に見立てて読んだとされる。句の解釈は下記の資料に掲載されている。

 『芭蕉全句 下巻』加藤楸邨/著 筑摩書房 1975年  p329~

 『諸注評釈新芭蕉俳句大成』堀切実/編 田中善信/編 佐藤勝明/編 明治書院 2014年  p947~


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/tohin.htm 【桃印】 より

とういん(生年不詳~元禄6年3月)

 芭蕉の甥であるということだけが伝えられているが、誰の子供なのか判然としない。芭蕉の姉の子供 というのが有力で、その姉が婚家から離縁されたか、夫と死別したかして松尾家に出戻ったときに同道してきたのが桃印であるとする説がある。桃印5、6歳の頃で、芭蕉は22、3歳。何故か若い芭蕉が彼を養育することになったようである。これは、兄の半左衛門家が貧しく、桃印を扶養する経済力が無かったためかもしれない。その後、芭蕉が江戸に出て、生活のめどがつくのを待って 延宝4年ごろに江戸に呼び寄せたらしい。ただし、延宝8年頃の深川隠棲以後桃印が何処に住み、何を生業にしていたかは全く不明で謎である。

 芭蕉の桃印に対する愛情は並々ではなく、33歳という若さでの桃印の死に落胆した芭蕉は自らの生への執着をも喪失した風がある。許六宛書簡にその時の心情が吐露されている。また、桃印重態のため借金をせざるを得なくなった芭蕉は膳所の門人曲水に宛ててた書簡で1両2分工面してくれるよう依頼している 。

 「桃印」が俳号か本名なのかは分からないが、「桃」の一字は芭蕉が門弟などに俳号を与えるときに多用しているだけに、甥へのペンネームとしてこの名を与えたと考えるのは自然であろう。だが、古今の俳書のどこにも桃印の名は見えない。

 ということは、①余程、俳諧文芸に関する能力が無かったか、②興味が持てなかったか、③名前を公表できない事情があったか、ということが考えられる。それだけに、 「猶子桃印」については古来さまざまな憶測をよんできた。

 なお、謎の女性寿貞尼と桃印の関係について、彼らが夫婦であり、よって二郎兵衛やおまさ、おふうら三人は桃印の子供であるという説がある。これについては「寿貞」を参照。


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/letter/kyoroku1.htm 【許六宛書簡】より

(元禄5年12月8日 芭蕉49歳)

長逗留御草臥之気し(き)もなく、御厚志不レ浅辱奉レ存候*。先々御俳諧筋目よろしく候而深切之義(儀)令レ存候*。絵沢山に御書被レ成被レ下珍鋪慰に覚申候*。愚筆御ほめ被レ成候に力ヲ得申候*。何とぞ四色五色程覚置申度候*。

此方御出被レ成候はゞ、十四日・十五日・十六日・十一・二は御除可レ被レ成候*。他出之義(儀)知不レ申候*。十八日・十三日は慥に在宿可レ仕候*。為レ持被レ遣候物共相達し、忝*、嵐子方へ三つ物相届可レ申候*。委細期二貴面一*。 以上

且又四吟之俳諧もよほどおもしろく候。前夕、嵐蘭・珍夕吟じ見申候*。

   八日

尚々九日・十日も在庵しれ不申候*。

 深川芭蕉庵から入門したばかりの許六に宛てた現存する最も古い書簡。『柴門ノ辞』に通ずる芭蕉・許六の関係が分かる書簡。許六とは余程肝胆相照らす関係であったようで、この時期実に頻繁に往来があったようである。

 なお、本文中から、芭蕉にとっても歳末は多忙であったことがよく分かって面白い。

長逗留御草臥之気し(き)もなく、御厚志不レ浅辱奉レ存候:<ながとうりゅうおんくたびれのけしきもなく、ごこうしあさからずかたじけなくぞんじたてまつりそうろう>と読む。長時間お邪魔したにもかかわらずくたびれたご様子も無く、ご厚志を頂き有り難く思います、の意。

先々御俳諧筋目よろしく候而深切之義(儀)令レ存候:<まずまずおんはいかいすじめよろしくそうろうてしんせつのぎにぞんぜしめそうろう>と読む。貴方は俳諧の才能も豊かで、(俳諧をやる上で)大切な事でございます、の意。

絵沢山に御書被レ成被レ下珍鋪慰に覚申候:<えたくさんにおかきなされくだされめずらしきなぐさみにおぼえもうしそうろう>と読む。許六は、ディレッタントながら絵の大家の域に達していた。

愚筆御ほめ被レ成候に力ヲ得申候:私の絵の才能をほめてくださったのに勇気が沸いてまいりました、の意。

何とぞ四色五色程覚置申度候:<なにとぞよいろいついろほどおぼえおきもうしたくそうろう>と読む。どうか4種類か5種類の絵を学んでおきたいと思います、の意。

此方御出被レ成候はゞ、十四日・十五日・十六日・十一・二は御除可レ被レ成候:<このほうおいでなされそうらはば、・・・はおのぞきなさるべくそうろう>と読む。芭蕉庵にお出での節は、次の日は除いて下さい、の意。

他出之義(儀)知不レ申候:<たしゅつのぎしれもうさずそうろう>と読む。これらの日は、外出するかもしれませんので、の意。

十八日・十三日は慥に在宿可レ仕候:<・・はたしかにざいしゅくつかまつるべくそうろう>と読む。18日と13日は間違い無く芭蕉庵に居ります。

為レ持被レ遣候物共相達し、忝:<もたせつかわされそうろうものどもあいたっし、かたじけなく>と読む。お送り下さったものは確かに拝受いたしましたが忝く・・。

嵐子方へ三つ物相届可レ申候:<らんしかたへみつものあいとどけもうすべくそうろう>と読む。嵐子方へ三つ物が出来たらお届けしましょう、の意。嵐子は不明。

委細期二貴面一:<いさいきめんをごす>と読む。詳細は又お会いしてから、の意。

前夕、嵐蘭・珍夕吟じ見申候:<ぜんせき、らんらん・ちんせきぎんじみもうしそうろう>と読む。以前の夜、貴方と嵐蘭・珍夕と開いた四吟歌仙を見ました、の意。

尚々九日・十日も在庵しれ不申候:9日・10日も庵に居るどうか分かりません、の意。


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/jutei.htm 【寿貞尼】より

(じゅていに)

(生年不詳~元禄7年6月2日)

 判明している中では芭蕉が愛した唯一の女性。 出自は不祥だが、芭蕉と同じ伊賀の出身で、伊賀在住時において「二人は好い仲」だった。江戸に出た芭蕉を追って彼女も江戸に出てきて、その後同棲していたとする説がある。ともあれ、事実として、寿貞は、一男( 二郎兵衛)二女(まさ・ふう)をもつが彼らは芭蕉の種ではないらしい。 「尼」をつけて呼ばれるが、いつ脱俗したのかなども不明。芭蕉との関係は若いときからだという説、妾であったとする説などがあるが詳細は不明。ただ、芭蕉が彼女を愛していたことは、『松村猪兵衛宛真蹟書簡』や、「数ならぬ身となおもひそ玉祭」などの句に激しく表出されていることから読み取ることができる 。ただし、それらを異性への愛とばかり断定できない。

 寿貞は、芭蕉が二郎兵衛を伴って最後に上方に上っていた元禄7年6月2日、深川芭蕉庵にて死去。享年不詳。芭蕉は、6月8日京都嵯峨の去来の別邸落柿舎にてこれを知る。

 なお、伊賀上野の念仏時の過去帳には、元禄7年6月2日の條に中尾源左衛門が施主になって「松誉寿貞」という人の葬儀がとり行われたという記述があるという。言うまでもなく、この人こそ寿貞尼であるが、 「6月2日」は出来過ぎである。後世に捏造したものであろう。

 寿貞尼の芭蕉妾説は、風律稿『こばなし』のなかで他ならぬ門人の野坡が語った話として、「寿貞は翁の若き時の妾にてとく尼になりしなり 。その子二郎兵衛もつかい申されし由。浅談。」(風律著『小ばなし』)が残っていることによる。 これによれば、二郎兵衛は芭蕉の種ではなく、寿貞が連れ子で母親と一緒に身辺の世話をさせたということと、寿貞には他に夫または男がいたことになる。ただし、野坡は門弟中最も若い人なので、芭蕉の若い時を知る由も無い。だから、これが事実とすれば、野坡は誰か先輩門弟から聞いたということになる。

浅談:浅尾庵野坡のこと。

風律著『小ばなし』:風律は多賀庵風律という広島の俳人。ただし、本書は現存しない。

芭蕉の種:寿貞の子供達は猶子」桃印(芭蕉甥)を父親とするという説もある。この説は、芭蕉妾説と同根である。すなわち、芭蕉の婚外の妻として同居していた寿貞と桃印が不倫をして駆け落ちをした。そうして彼ら二人の間に出来たのが二郎兵衛ら三人の子供だというのである。出奔した二人は、よほど後になって尾羽打ちはらして芭蕉の下に戻ってきた。そのときには桃印は結核の病を得ていたという。

寿貞と桃印を愛しながら藤堂藩を去った芭蕉。残された二人が愛し合うことになった。江戸の芭蕉が桃印を呼び寄せたとき桃印は寿貞とともに駆け落ちしてきた。実家のお咎めを憂慮した芭蕉が 江戸の大火を口実に 桃印を死亡したことにしてしまい、二人を江戸に残して自分は深川へ移り住むことになったと考えるのですが。この葛藤が禅の門を叩くことになったのではないでしょうか??

 なお、この説では、芭蕉の深川隠棲のもとになったのも彼ら二人の駆け落ち事件が絡んでいたともいう。すなわち、駆け落ちをして行方不明になった桃印は、藤堂藩の人別帳のチェックが出来なくなったので、芭蕉は困り果てて、桃印を死亡したことにしてしまった。そこで、一家は日本橋に住むことは不都合となって、芭蕉は仕方なく深川へ転居したのだというのである。

 

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