宮崎荊口宛書簡

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/letter/keiko.htm 【宮崎荊口宛書簡】より(元禄6年4月29日)

 たびたび貴翰御細書かたじけなく、これよりも*をりをり御案内と存じ候へども、閑窓とは人の言はせざるに紛れて*、心外に移り行き、日かず三年、一別を隔て候*。いよいよ御堅固に御座なされ候よし、珍重に存じ奉り候。御内室様・文鳥子*、つつがなく御入りなされ候*はんと存じ候。このはう*御両息、御無事に首尾よく御勤めなされ候。をりをり御目にかかり、おうはさども申すことに御座候。

 御発句など、たまたま仰せ聞けられ候。ことのほか感吟仕り候。此筋子*へ申し、少々書きとめ置き申すべくと申すことに御座候。如行、火事*以後も相変らず風雅相勤められ候旨、厚志の逸物、殊勝の至りに存じ候。拙者、当春、楢子桃印*と申す者、三十あまりまで苦労に致し候て病死致し、この病中神魂を悩ませ、死後断腸の思ひやみがたく候て、精情くたびれ、花のさかり、春の行くへも夢のやうにて暮し、句も申し出でず候。頃日はほととぎす盛りに鳴きわたりて人々吟詠、草扉におとづれはべりしも、蜀君の何某も旅にて無常をとげたるとこそ申し伝へたれば、なほ亡人が旅懐*、草庵にしてうせたることも、ひとしほ悲しみのたよりとなれば、ほととぎすの句も考案すまじき覚悟に候ところ、愁情なぐさめばやと、杉風*・曾良*、「水辺のほととぎす」とて更にすすむるにまかせて、ふと存じ寄り候句*、

ほととぎす声や横たふ水の上(ほととぎす こえやよことう みずのうえ)

と申し候に、また同じ心にて、一声の江に横たふやほととぎす(ひとこえの えによことうや ほととぎす)

「水光天に接し、白露江に横たはる」*の字、「横」句眼なるべしや*。二つの作いづれにやと推敲定めがたきところ、水間氏沾徳*というふ者とぶらひ来たれるに、かれ物定めの博士となれと*、両句評を乞ふ。沾いはく、「「江に横たふ」の句、文に対してこれを考ふる時は句量もつともいみじかるべければ、「江」の字抜きて「水の上」とくつろげたる句の、にほひよろしきかたに思ひ付くべき」の条*、申し出で候。とかくするうち、山口素堂*・原安適*など、詩歌のすき物ども入り来たりて、「水の上」のきはめよろしきに定まりて事なみぬ。させること無き句ながら*、「白露江に横たはる」という奇文を味はひ合せて御覧下さるべく候。これまた、御なつかしさのあまり、書き付け申すことに候。             以上

    卯月二十九日

荊口雅老人

 なほなほ、当年は江戸につながれ候。再会ゆるゆると願ひ申し候。

 岐阜の長老宮崎荊口宛に、江戸芭蕉庵から出した書簡。甥の桃印死去後の寂しさを綴っているが、門人や知己達がつぎつぎと元気付けに訪れている様子もうかがえる。ホトギスが啼くに任せて句も作らずに居た悶々の時に、杉風や曾良が励まして「水辺のほととぎす」という題を提出して挑発しているところなど、師弟間の思いやりを彷彿とさせる。

 題詠の二つの句について、芭蕉自身は論評をせず荊口に任せているのも興味深い。

ほととぎす声や横たふ水の上

 『藤の実』では、ほととぎす声横たふや水の上 となっている。

岐阜県養老郡養老町橋爪象鼻山麓および・・・

滋賀県近江八幡市小船木町願成就寺境内の句碑。いずれも牛久市森田武さん撮影

これよりも:私からも、の意。

閑窓とは人の言はせざるに紛れて:訪れる人が多くて、どうも閑静な生活とは言えない状況である。

日かず三年、一別を隔て候:あれから既に3年の年月が経ちました、の意。荊口と最近に会ったのは、元禄4年秋のこと、『奥の細道』から『幻住庵の記』・『嵯峨日記』を書いて後、江戸東上の折のことであった。

つつがなく御入りなされ候:奥様及び三男坊の文鳥さまは、お元気で生活しておられることでありましょう、の意。

このはう:ここ江戸では、の意。荊口の長男と次男である此筋と千川はこの時期、江戸詰めであった。二人は、文面からして芭蕉をよく訪ねていたようである。

火事:如行の家は元禄5年9月4日に火災に遭って全焼した。

楢子桃印:この春3月下旬に桃印は死んだ。

亡人が旅懐:亡き桃印の旅愁。

ふと存じ寄り候句:ふと思い浮かんだ俳句。

「水光天に接し、白露江に横たはる」:蘇東坡の詩「暫くして月東山の上に出て、斗牛の間に徘徊す。白露江に横たわり、水天光に接す・・・」とあるによる。

「横」句眼なるべしや:蘇東坡の詩の中の「横」なる語こそ、この詩の眼目ではないか、というのである。

水間氏沾徳:露沾のこと。

物定めの博士となれと:二つの句のうちのどちらがよいか判定せよと、の意。

・・・条:露沾は、「江に横たふ」よりも「水の上」の方がよい、前者は蘇東坡の詩と合せた時、句が重苦しくなってしまうのに対して、後者は句の柔らかさが匂い立つようで良いのだ、というのである。

させること無き句ながら:どうという句でもないが、の意。謙遜して言っているだけ。後続の一行では「江に横たはる」の句のよさを弁護していることからも伺える。

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