無心

https://ameblo.jp/chiffon1013/entry-12391198942.html  【無心になるってどういうこと?!】より

「無心になれ」ってよくいうけど、どうしたら無心になれるの?どういう状態が無心なの?

「愚痴無心とは、一切愚痴の心なきを言う」この言葉のように禅の世界からきているのです。

愚痴を言わずに全てを受け入れることはできますか?

・こんなことをして何の意味があるの・もっと楽しいことをやりたいのに

・これは好きじゃないから他のものが食べたい・こんなの馬鹿くさくてやってられない

通常はこんな感情を抱きがちです。

意味を考えず、ただ、その事柄にあたる

このように、「意味がない」とか、「イヤだ」「面倒だ」「やってられない」といった気持ちが、一切心に浮かんでこないような状態が、「無心になる」ということなのだそうです。

無心になることができたら、新しい自分に出逢えるかもしれませんね。


http://rinnou.net/cont_04/zengo/zengo_2004.html 【花無心招蝶】 より

はなはむしんにしてちょうをまねく

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』(細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より

 「花無心招蝶 蝶無心尋花」はなはむしんにしてちょうをまねき ちょうはむしんにしてはなをたずぬ(道徳経)

 爛漫と咲き乱れる万朶の桜でなくてもよい、草かげに人知れず咲く、一輪の草花で十分です。そこに色彩豊かな立派な蝶でなくとも、薄汚れた、ちっぽけな蝶でこれまた十分です。一輪の花に二、三匹の蝶が戯れる、どこでも見られる風景ですが、私たちは何気なく見落とします。良寛さんは、ここをとらえて無心の出合いの真実を詠いあげます。

 花は蝶を招きたいとも思わないし、また、蝶も別に花を訪ねたいとも思わない。しかし自然に出合う、即ちめぐりあうわけです。

 私たちの人生もめぐりあいの連続です。親にめぐりあい、兄弟姉妹にめぐりあい、友人にめぐりあい、夫にめぐりあい、妻にめぐりあい、子供にめぐりあい、また、苦しい事、楽しい事、悲しい事、いろいろな事にめぐりあいます。

 これはみな偶然でしょうか。偶然と言ってしまっては物足りません。宿命でしょうか。宿命と言ってしまっては救われません。では、一体何でしょうか。すべて因縁の法によって成って行くのです。最初、原因があり、そこに縁が働いて結果が出てきます。結果がそのまま、結果で終わるのではなくて、また原因となって、ある縁が加わって結果が出ます。因縁と果が循環するのです。これを仏教では因縁の法則といいます。

 例えば一箇の豆の種子があります。これが因です。畑を耕し、種子をまき、水をやり、肥料を施す、これが縁です。芽が出て実がつく、これが果です。縁の働き具合で果も大きく違ってきます。悪い因でも良縁が加わればいい果が得られ、良い因でも悪縁が加われば悪果となるのです。これが仏教の因果律です。決して宿命論的なものではありません。縁のままに花は咲き、蝶もまた、縁のままに舞う、因縁の出合いです。

 私たちのめぐりあいも、因縁の法に従っての結果です。その底に秘められているめぐりあいの糸のつながりは、私たちには見えないだけです。法則に従って生きる、否、生かされている事を謙虚に自覚して、めぐりあいを生かす生き方をしたいものです。

  子を抱いていると ゆく末のことが案じられる  よい人にめぐりあってくれと

  おのずから涙がにじんでくる (仏教詩人 坂村真民「めぐりあい」より)


https://note.com/kazmas/n/ne7d92c712e35 【一日一禅:無心(むしん)】より

西行という、鎌倉時代の僧がいる。歌人として有名。エリート武士であったが、若くして突然に出家したという、その若いころの作と言われる歌:

そらになる心は春のかすみにて よにあらじとも思ひ立つかな(西行「山家集」中・雑)

 ここで歌われる「そらになる心」というのは、心ここにあらず、うわのそらの状態を指すものだとされている。「よにあらじ」は、この世にはもういられない、すなわち、出家の決意。

 いかにも若者らしいみずみずしさにあふれているとともに、出家のための強い決心を表しているが、誰もこのような上の句から、このような下の句が導きだされるとは、思ってもみなかったに違いない。それが少しも不自然ではなく、春霞のような心が、そのまま強固な覚悟に移って行くところに、西行の特徴が見いだせると思う。

(白洲正子「西行」空になる心)

 これは平易な有心の歌であって、同時代の歌人はこの下句は、気はずかしい感じで詠めなかったものだ。西行はそんな言葉を平気で使い、しかも歌人たちにはとてもできない、湧きあがる気分を云いあらわし得ている。それだけではない。「よにあらじ」という出家の感覚を、暗い無常の情念から、何やら漠然とした明るい決心のようなものに変えている。

(吉本隆明「西行」Ⅲ 歌人論)

 禅の言う「無心」とは、うわのそらの気持ちとはぜんぜん違う、修行の末にたどりつける境地であって、「心の働きがいつか大自然の働きと同じようになり、あたかも赤ん坊のように、文字通りに無邪気で天真爛漫になること」(芳賀幸四郎「禅語の茶掛 続々 一行物」)なのだという。

 晩年の西行は、じぶんの歌について、「虚空の如くなる心の上において、種々の風情をいろどると雖(いえど)も更に蹤跡(しょうせき)なし」、どんなものについて歌っても何の痕跡も残さない、これがほんとうの如来の姿だ、などと語っていたという。晩年に語ったというこの「虚空の如くなる心」というのは、禅語としての「無心」と同じものなのだろう。

 でも…、と、僕は思う。

 「そらになる心」、まだ若く、何者でもなく、何者でもないからこそのうわのそらの、その様子、そのありようというのは、修行の末にたどりついた境地としての「無心」と、とても良く似たところに居るのじゃないだろうか。ぐるっと回ってスタート地点、みたいな。

 あるいは、西行のうたう「そらになる心」というのを、文字通り、自己の意識の主格である心が春霞の空へとメタモルフォーゼしていく様、と、詩的に受け取ってもよいのかもしれない。

 霞たなびく春の空というのは、よい。眺めているとなんだか、一大決心してしまいたくなる。



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