葆光

http://www.atacknet.co.jp/revibn31.html  【葆光】 より

深みを与えてくれる啓示

 俳句のことを“世界で最も短く、最も美しい詩の形である”と評したのは確かジョン・レノンだが、五七五のたった17文字であらわされる俳句には、一切の虚飾を排除する潔さが必要であるといえる。クドクドとした説明や言い訳が許される余地はないのである。彼のつくった歌(詩)とくに“イマジン”の中には、俳句の美しさに影響された要素が強く感じられるらしい。

 さて、今回は一冊の句集を紹介させていただく。同じ職場に身をおく哲学の教授の手になるもので、内輪の人間が著したものを取り上げるのは元来反則かとも思うが、何とぞお許し願いたい。スポーツ・競技という行為の場に深みを与えてくれる啓示がたくさん含まれているように感じるのである。

本当の姿を

 題名「葆光」は「ほうこう」と読む。「暗く柔らかな光」という意味なのだそうだ。「『荘子』斉物論篇にある言葉」とのことだが、詳細について紙面の関係上省くことにする(本当は私の無教養が理由。言い訳です)。

 ただ、想像するに「暗く柔らかな光」の下では“見よう”として見ないことにはあらゆるものが見えないという世界のことか。あるいは、見え難くなっているのは、暗さに“包まれている”せいであると考えてもよいのかもしれない。だからこそ、より丁寧に心をこめて対象を見つめ、本当の姿を見極めようとする意図がこの題名に込められているのではないだろうか。加えてこの題名には、穏やかで柔らかくはあるけれど、毅然とした姿勢を貫いている作者の人柄をもうまく反映しているように思うのである。

 作者が俳句をつくるきっかけとなったのは「二十一世紀を担う100俳人(『俳句α増刊号』2000)」の一人、五島高資という才人の存在が大きいとのことである。時々、時間を忘れて二人で俳句談義をしている姿を見かけるのだが、私にとっては知の巨人同士の会話を間近に見てミーハー心が満たされる瞬間だ。

俳句とは“命”を詠むもの

 横で聞き耳を立てていても難しくて実はよくわからないところのほうが多いが、多少なりとも理解できたこと、考察したことをまとめてみると次のようになる。

 まず、俳句とは“命”を詠むものである。では命とは何か。ここでいう命とは“場”を共有すること、意思の疎通をはかろうとする気持ちのことであると考える。したがって俳句の世界では、人や動植物だけでなく、物質や自然現象あるいは遠い過去や未来に至るまで、森羅万象に命を吹き込むことができることになる。逆に、たとえ生きていても孤立無援の、他者と“場”を共有しようとしない者には命があるとは言えない、とも考えることができる。俳句を詠むということは、だから“命を見つめる”ということになるのだと思う。

 等々と考えていたところ、ふと、この感触はスポーツや運動競技の場の味わいと似ていることに気がついた。競技の場とは、命と命の交感(交歓か)の場であると言えないだろうか。真剣勝負の場であればなおのこと(たとえ身体の接触はなくとも)命のやりとりがなされていると感じる人は多いのではないかと思うがどうだろう。

 本書は、九つの章立てで約360の句からなる。分際をわきまえず各章から一句ずつ選んでみた。

群青を一息に塗り込める秋

雪止みて天目に月刺さりけり

墓洗うおまえは誰と問われけり

逃げ水の逃げるあたりに生まれけり

初紅葉ひそかに見つけられるまで

存在の柔らかき重き春歩む

野に集(すだ)く虫に並べる枕かな

舞いながら舞を脱けゆく秋の蝶

齧られし柱に消えるうさぎかな

(本文では「齧」に「口偏」が付く)

 たった17文字の裏側に秘められた何かに感動するのと同じように、一瞬のパフォーマンスに込められた命を大切に共有したいと思うのである。

(板井美浩・自治医科大学医学部保健体育研究室准教授) 

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