現代俳句の世界「金子兜太・高柳重信」集

https://kanekotota.blogspot.com/2017/02/blog-post_99.html 【現代俳句の世界「金子兜太・高柳重信」集】 より

現代俳句の世界「金子兜太・高柳重信」集 朝日新聞社

桶谷秀昭氏の序文より抜粋でアップさせていただきました。

句集「少年~猪羊集までを網羅」した朝日新聞社・全16巻の14巻目です。前半は金子兜太、後半は高柳重信の構成となっています。1984年刊行ですから約30年前の普及版句集でアマゾンでは 中古が買えますがもう絶版です。この句集の作家たちはみな鬼籍に入り活躍中は金子先生だけです。先生のますますの長寿を祈りつつアップしました。

序 金子兜太の含羞  桶谷 秀昭 <Wikipediaへリンク>

金子兜太には過剰なまでの含羞があり、それを処理するのにときにつけらかんとした単純さや粗奔の偽態をとるのではないかと思はせるところがある。

みづから云ひ、人も云ふ、その俳句における精神に対立する肉体の強調と、感受性の氾濫を断ち切る意志との逆説的な結びつきは、そのことを暗に語つてゐるといふ気がする。

 敗戦のとき。配属されてゐたトラック島から帰還する船中の二句がある。

水脈の果炎天の墓碑を置きて去る

北へ帰る船窓雲伏し雲行くなど    (強調、引用者)

 これらの句のモチイフに強くはたらいてゐるのは、戦場の死者にたいする生き残った者の負ひ目の感情であらうが、それを「置きて去る」といひ、海原の果へ流れて行く雲や、うなだれ悲しみ伏すやうな雲のかたちを、・・・・など云ひ切って、感情移入を断ち切るのである。

 もしもだれかがトラック島の体験をたづねたなら、土方をやってたのよ、土人といふのはみな扁平足だな、海辺で糞をすると蟹が見てたな、などと云って、聞き手の不満さうな、あるひは唖然とした表情からやや視線をそらして、うん、うんと二度ほど合点する。

   流れ星蚊帳を剌すかに流れけり

といふやうな心情体験は呑み込んでしまふだらう。

  句集『少年』は昭和三十年の発行当時、読者の眼に戦後体験の活力にあふれた第二部と第三部を中心とする印象は動かなかったであらう。  

  夏草より煙突生え抜け権力絶つ 

  墓地は焼跡嬋肉片のごと樹樹に 

  霧の車窓を広島走せ過ぐ女声を挙げ

  奴隷の自由という語寒卵皿に澄み

 かういふ句はまさに「戦後」そのものである。これらは、一つに俳句第二芸術論といった批判にたいしての、伝統的短詩型文学の変革の意志において、二つに戦前の自己の感性、思考の否定において屹立してゐる。しかし戦後四十年が過ぎた今日、『少年』をあらためて読み返してみると、第一部の戦前の句が以前よりはるかに不易の姿でその意味を問ひかけてくる感を否定できない。

あとがき  金子兜太

 私は二十歳のときに俳句をつくりはじめたのだが、以来ほぼ十五年間の句が、『少年』と『生長』に網羅されている。いま、両句集から句を抄出していると次次に当時のことがおもいだされてきて、抄出句数が増えてしまうことを抑えることができない。学生時代のこと、それから戦地のミクロネシアはトラック島にゆき、そこで終戦をむかえたこと。

帰国してサラリーマン生活にはいり、組合運動に参加したこと。そして、福島、神戸、長崎と勤め先の支店を歩いたこと。句がその住んでいた土地の名で、順を追ってまとめてあることも、私のおもい出を刺戟してやまない。

 私の句作は十五年戦争下の学生生活のなかではじまっている。父・伊昔紅が水原秋櫻子主宰「馬酔木」で熱心に句作りしていて、「新興」俳句の雰囲気が少青年期の私に影響していたことや、いまもその人を俳句の師としている加藤楸邨と、中村草田男、全国学生俳誌「成層圏」を編集していた竹下龍骨の母・しづの女――この三先達の作品が私に魅力であり、俳句の可能性までも感じさせたこと、さては旧制高校の一年先輩に出澤三太(俳名珊太郎)という奇才がいたことだなどが、私を俳句に結び付けた理由になるのだが、同時に私か〈感性の化物〉のごとく、ただぶらぶらとと毎日を流していたことも理由のなかにはいる。

 私は戦争便乗あるいは謳歌の教説には体質的にといってよいくらいに反撥感を覚えていたのだが、そのくせどこかで民族防衛のためには止むなしとおもい、戦闘には参加してみたいなどとおもっていたのである。その曖昧さ自体がすでにあまりに感性的だったのだ。

 作句第一号が「成長」の「白梅や老子無心の旅に住む」で、これを句会におそるおそるだしたところ、妙に褒められたことが深入りのきっかけになるのだが、〈感性の化物〉に「漂泊」へのおもいが住みついていたものらしい。

その時期、尾崎放哉について小文を書き、小林一茶や種田山頭火に関心をもっていた。

 トラック島での体験が、戦後の私の生き方からこの化物を追いだす方向に向わせるのだが、俳句と社会性の問題に私か積極的に関わっていったのもの現われだった。「俳句の造型について」を書き、方法論を固めつつ、私は現在唯今の自己表現をこの詩形にもろに投入しようとしていた。

 そのため欧詩の詩法をも吸収して修辞を工夫した。やがて「前衛俳句」という呼び方がジャーナリズムからおこなわれるようになり、私もその一群のなかにいて、『金子兜太句集』から『早春展墓』あたりまでがその営みの殊に直接的な時期と見てよい。

「銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく」などとつくり、長崎では、「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」とか、「華麗な墓原女陰あらわに村眠り」の句もある。東京に戻ってからも、「霧の村石を投らば父母散らん」「果樹園がシャツ一枚の俺の孤島」「暗黒や関東平野に火事一つ」「犬一猫二われら三人被爆せず」「骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ」などなど懐しい句がずいぶんある。また「赤い犀」一連は実験作として忘れがたいものの一つ。

 その間、「朝はじまる海へ突込む顯の死」とか、「人生冴えて幼稚園より深夜の曲」などで明確におもいだすのが、〈俳句専念〉を決めたときの自分の心意だが、東京に戻って、

俳句同人誌「海程」を創刊したのが昭和三十七年(一九六二)たった。

 そして、その時期ぐらいから、小林一茶を通じて古典の世界を覗くようになり、一茶や山頭火を見つめながら、ふたたび「漂泊」を考えるようにもなった。古典からは「俳諧」というわが国短詩形の貴重な伝承資産を学び、私なりにこれを〈情(ふたりごころ)を伝える工夫のさまざまな態〉と解し季題をもこのなかに含めている。古典がこころというとき「心」と「情」を書き分けているのを知って、私は「心」を<ひとりごころ>、情」を<ふたりごころ>と受け取っているのである。五七調最短詩形と「俳諧」を十分に活かしながら唯今の自己表現をおこなう方向――

私のこの指向が成熟してゆくのは、勤め先を定年で辞める前後からで、句集『旅次抄録』以降の句にその営みが目立つ。金子は前衛ではない、などといわれはじめるのも、その頃あたりからだった。「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」などに俳諧ありと自負す。

 また、「漂泊」を感性としてのみ受け取るのでなく、〈この世(俗)に生きるものの心底〉において捉えるようになるのは、「俳諧」自覚よりすこし早い。そして〈定住漂泊〉を

思念L、定住にかかわりつつ、〈土〉をおもい、〈ふるさと〉を思想し、〈風土とは肉体なり〉とまで考えるようにになる。

〈土〉と〈体 からだ〉は私にとっては貴重な思考原点であって、それは五七調定型を支え、「俳諧」を肥やしてきたものも通うとおもう。

 偶然といおうか、定住漂泊を思念する頃から、旅の機会が増えている。

そして、そのはじめの時期の、津軽十三や竜飛、下北半島などの東北地方への旅の句(『蜿蜿』所収)がいまでもいちばん懐しい。十三での「人体冷えて東北白い花盛り」などは愛誦

自句の一つ。

 また、ふるさとである山国秩父(埼玉県)の句も増えている。「霧深の秩父山中繭こぼれ」とか「山国の橡の木大なり人影だよ」「猪がきて空気を食べる春の峠」などとつくりつつ、また、「あきらかに鴨の群あり山峡漂泊」とか、「日の夕べ天空を去る一狐かな」ともつくる。

 抄出句集最後の題名『猪羊集』は、私が羊年の生れで、しかも猪どもの走り廻る山国育ちというところからきている。そういえば、最初期に、「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」があった。秩父の人から色紙を書けといわれると、いまでもこの句を書くことが

多いのである。

                  金子兜太

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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