https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/91c3061af3387c066cfa3ad2efba135a 【金子兜太の一句鑑賞(一) 高橋透水】 より
白梅や老子無心の旅に住む 兜太
句集『少年』に収録された十八歳の時の作品であるが、俳句を始めての第一作目のものという。兜太は埼玉県の秩父で育ち旧制熊谷中学、旧制水戸高等学校文科乙類を経て、一九四三年に東京帝国大学経済学部を卒業した。句作の切っ掛けは高校在学中に一級上の出澤三太に誘われて同校教授宅の句会に参加したことである。実は母親から俳句をやることは固く禁じられていたのだが、三太の巧みな言葉に乗せられてしまったのだ。
母親が反対したのは、父親の金子伊昔紅が秋桜子系の俳人で、自宅で開かれる句会の様子を見てのことだった。句会の後酒を飲みながらの争いはいつものことで、兜太にはそういう真似はさせたくなかったのだ。しかし兜太は高校時代に約束を破って句会に出た。
鑑賞句の〈白梅や〉はその時の句だ。下地には北原白秋の『老子』という詩に、「青の馬に白の車を挽かせて、/老子は幽かに坐つてゐた。/はてしもない旅ではある、/無心にして無為、……」というフレーズがあり、それが基になっている。
初めての句会に出た翌年には全国学生俳誌「成層圏」に参加し、竹下しづの女、加藤楸邨、中村草田男らの知遇を得たことは、兜太の人生を大きく変えたと言ってよい。東京大学入学後は、楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事した。草田男からは俳句、楸邨からは人間性の影響を受けたという。
さて「白梅」であるが、水戸の偕楽園などがある常磐公園の梅を念頭においてのことらしい。ただ「しらうめ」と読むか「はくばい」と読むかだが、「孔子無心の旅」の語感から察して「はくばい」と読むべきだろうか。最初の句会でなかなかの好評を得たことが兜太の俳句人生を決定したと言ってよいくらいだが、いずれにせよ「無心の旅」という措辞に既に兜太の「定住漂白」への思いが芽生えていたようだ。当時の戦争社会に対するレジスタン的な気分と、一方では山頭火などに惹かれ老荘の思想に憧れる心があったのだ。
https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/e5a5a90e2437909be03b5a39053b03c7 【金子兜太の一句鑑賞(二) 高橋透水】より
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子 兜太
一九五五年(昭和三十年)の『少年』に収録されているが、初出は昭和一七年十二月号の「寒雷」という。
「自選自解」を参照すると、秩父に帰郷したときの句という。「これは郷里秩父の子どもたちに対する親しみから思わず、それこそ湧くように出来た句。これも休暇をとって秩父に帰ったとき、腹を丸出しにした子どもたちが曼珠沙華のいっぱいに咲く畑径を走ってゆくのに出会った、そのときのもので」と述べている。昭和一六年に東京帝国大学経済学部に入学しているので、休暇とは夏休みに帰郷したときのことらしい。
こうした子供の光景は、戦前と限らず戦後も多く見られ、それも山国の秩父だけでなく田舎ならどこであっただろう。ただ暑い盛りでなく、朝晩の気温の下がる山国の秋分のころであるが、遊びに夢中な子らは着物が肌蹴て臍をだしても平気なほど元気だった。
〈学童のざわめき過ぎて麦萌えぬ〉〈日毎なる静寂に麦の萌え出づる〉(「成層圏」に発表)は一九歳の作品。〈葡萄の実みな灯を持つてゐる快談〉(「土上」に掲載)は島田青峰主宰に「胸のすくやうな爽快な感じがあふれてゐる」と評された句である。
加藤楸邨は「この句(曼珠沙華の句)は、秩父の風土をしっかり把握した作である。兜太は都会に学んではゐるが、この句では秩父の子に深い愛情の眼をむけてゐる」と「寒雷」で評価している。
兜太の故郷志向、郷土愛はこうした若いときから強く、同じころに〈蛾のまなこ赤光なれば海を恋う〉〈山脈のひと隅あかし蚕のねむり〉があるが、これは兜太が「郷里想望風なリリカルな心情表出だった」と語っているが、「秩父の子」の句にも通底する想いが通っていたのだろう。
秩父の曼珠沙華は畑の畝や畦道に多くみられるが、大振りで純朴である一面どこか怪しげで、しかも負けん気の強いように見えるのは兜太のことが頭にあるからか。
俳誌『鴎座』2016年・9月号より転載
https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/c5416f81b6eff245eb43b37185ac9624 【金子兜太の一句鑑賞(三) 高橋透水】 より
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 兜太
兜太は昭和十九年に海軍主計中尉としてトラック島に赴任した。米軍の攻撃で壊滅的な状況になり、日本の艦隊は基地をパラオに移した後であった。物資が一切入らず、食料も底をつき、既に戦場としての意義を失いかけていた。戦争というより、飢えとの戦いだった。兜太は「主計は辛いんです。何人死んでくれたら、あとこの芋で何人生きられるかという、そんな計算もしてしまう。個人で感じなくてもいい罪の意識と、自分に対する嫌悪感がつのってきて、理屈ではなく、『戦争というものは絶対にいかん』と思うようになりました」と、その時の心情を語っている。
兜太の「自選自解99句」によると、〈椰子の丘朝焼しるき日々なりき〉という句がある。「敗戦の日、甘藷作りをしていた島の警備隊の司令部に集められて、敗戦の伝達を受けた。その帰路、いつもの椰子の丘が見え、朝日が当たっていた。『これからどうなる、いや、どうする』などと歩きながら思っていて、思わずできたのがこの句だった」という。
敗戦後すぐに帰還とはならず、兜太は米軍の捕虜として春島の米航空基地建設に従事した。鑑賞句は昭和二十一年の作で、ようやく捕虜から解放され、帰還船から島の死者に向かっての後悔と鎮魂の思いから出た句である。
「死者に報いたい」と兜太は繰り返し語っている。「島での死者はほとんど餓死。隣にいた人が爆撃で死に、元気だった人が飢え死にしていく…。終戦後、一年三カ月の捕虜生活の後、島からの最後の復員船で島を離れるとき、死んだ人たちのことを思い、この人たちの死に報いなかったら生きている意味がない、と思いました。そのときに生まれたのが『水脈の果て…』の句です」と状況を述べる。
墓碑は棒などで作る簡単なものもあったが、この場合の墓碑は大きな石を想定してのことで、帰還船からは実際は見えなかったが、映像として残ったのだ。いずれにせよ、トラック島での体験は兜太にとって戦後の歩みの原点であり、人生の転機になったはずである。 俳誌『鴎座』2016年10月号より転載
https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/f2f1f10f97d4c02f9780e3d8d294722f 【金子兜太の一句鑑賞(四) 高橋透水】より
朝日けぶる手中の蚕妻に示す 兜太
昭和二十二年、兜太は日本銀行に復職し、四月に塩谷みな子(俳号は皆子)と結婚した。また「寒雷」に復帰し、沢木欣一の「風」に参加している。
新婚といっても住宅難のため週末に会うだけの生活だったが、なんとか浦和に住めるようになったという。掲句はおそらく秩父で二人で過ごした時のことだろう。「新婚旅行など望めない時期なので、毎日、二人で秩父の晩春の畑径を歩いて、新婚気分を味わっていた。その途中、農家の蚕屋に立ち寄ったときの句」(「自作ノート」より)と回想している。
「手中の蚕妻に示す」は若々しい愛情表現である。互いに秩父に育ち、養蚕の盛んな地だから、蚕には親しんでいただろう。好きな子に木の実を示すように若妻に蚕を示す行為は微笑ましい。若い二人はそれだけで愛情を確認しあい、幸せな将来を夢見たのだろう。
兜太の恋愛観、結婚観がある。「俺の場合はねえ、恋愛ってことがないんです。はっきり言って」「私の場合は一種の略奪結婚型で、自分で恋愛ってことがないんです。女性を愛して獲得してという、残忍なところが。つまり女性を略奪して自分のものにする、という興味がうんとあるんです。」(『金子兜太×池田澄子・兜太百句を読む』ふらんす堂)とあるが、その続きに、「貴女(澄子)は笑うかもしれないけど、女房にしても子供にしても、弱きものは労わるという考え方です。だから女房に対する感覚も、この弱きものは絶対守らないかんって考えてきたんです。」
この句を見る限り、とても結婚当初にそんな観念があったとは思えない。むしろ手中の蚕を示すことにより、自分はこんな環境で育ったが、一緒に頑張ろうじゃないか、という親愛表現とみたい。兜太の妻俳句に、〈妻みごもる秋森の間貨車過ぎゆく〉〈独楽廻る青葉の地上妻は産みに〉などがある。句集『少年』の後記によれば、結婚前までは不毛の青春だったが、結婚後は戦後の生活を通しての思想的自覚の過程となったと分析している。
俳誌『鴎座』 2016年11月号 より転載
https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/9db916daae88589fda531e11e56d0fc1 【金子兜太の一句鑑賞(5) 高橋透水】 より
縄とびの純潔の額を組織すべし 兜太
高知での作で、「寒雷」昭和二十五年四月号に掲載。「四国の空」と題して発表した十四句のなかの一句だが、ほかに〈銀行員に早春の馬唾充つ歯〉〈山には古畑谷には思惟なくただ澄む水〉などがある。
昭和二十四年、兜太三十歳の四月、日本銀行従業員組合事務局長(専従初代)となり、組合運動に専念している。初夏、浦和から竹沢村(現、埼玉県小川町)に転居し、家族から離れて組合活動を第一に考えたようだ。
『語る兜太』(岩波書店)を参照に当時の兜太の心境を辿ってみたい。日銀の古い体質(はっきりした身分制。学歴による差別など)を目の当たりにして、戦地から新しい国のために働こうと意気込むんでいた兜太には我慢ならなかった。こうした状態をなんとか改善したい。反戦・平和社会を実現したい、そんな考えが兜太を組合運動に向かわせたのだ。当時の組合でのスローガンは生活給の確保、身分制廃止、学閥人事の廃止などだった。
兜太によれば、「額」は「ぬか」と読むというが、それにしても「縄とびの純潔の額」とはなんと明るい情景だろう。情景として少し生意気な少年やおてんばな少女たちを想像できるが、「組織」という措辞からは世代はもっと上と考えられる。むしろ町中の公園などで無く、職場の広場などが想像できる。
戦後間もなくとはいえ、若い世代は自由で平和になった社会で、職場の休み時間だろうか男女が縄とびに興じている。兜太はそうした若い世代こそ組合を組織すべきと考えたのだろう。しかし身分上積極的に街頭演説はできないし、オルグなどもできなかったろう。
さらに兜太には何よりも家族の生活を支えねばという強い信念があったのだ。
昭和二十五年、朝鮮戦争の勃発によるレッドパージを名目に、日銀は本格的に組合の切り崩しにかかった。その後兜太は福島に転勤になり組合活動を絶たれたが、あくまでも日銀に生活の基盤を置きつつ、新たな俳句への道を切り開いてゆくことになる。 俳誌『鴎座』2016年12月号 より転載
https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/04e4bfe5295b6477c17f63b1d48ce082 【金子兜太の一句鑑賞(6) 髙橋透水】より
白い人影はるばる田をゆく消えぬために 兜太
少し抽象的であるが、詩情性豊かな句である。まさに兜太ワールドある。自解によれば「金沢市に住んでいた沢木欣一が俳誌『風』を出し、妻のみな子が賞を受けたので、二人で出掛けた。その車窓で見受けた景から発想したもの」とあり、続いて「一面の青田を、白いシャツの初老の人が歩いてゆく。ときどき田を覗くようにしながらどこまでも歩いてゆく。青田に紛れて消えてしまうように感じたとき、『消えぬために』の一と言が出てきて、得意だったのである。『いのち死なず』の思いが、この頃から芽生えていたのかもしれない。寂寥感を伴いつつ」と述べている。
初老の「白い人影」は風に吹かれ青々しくなった稲の生長具合や水回りなど観察しながら、畦道を歩いてゆく。車窓からの遠景としては単純な歩みのようにみえるが、真剣な足取りに違いない。畦から見回る人影は、延々と消えそうになるまで歩みをとめない。白い服さえ青田に同化しそうになる。それを車窓から眺めていた兜太は、「消えてほしくない」と思わず心のなかで叫んだのだろう。
汽車は無感情にどんどん進んでゆきやがて農夫は視界から消えるのだから、この「消えぬために」は「このままずっと生きていて欲しい」という兜太の願望であったのか。
兜太には「白」の付いた句が意外と多い。〈人体冷えて東北白い花盛り〉は有名だが、〈一汽関車吐き噴く白煙にくるまる冬〉〈白服にてゆるく橋越す思春期らし〉〈白餅の裸の老母手を挙げる〉〈わが紙白し遠く陽当る荷役あり〉などなど紹介しきれない。
しかし兜太の俳句は白だけでなく、「青鮫」「赤い犀」「赤錆び」「黒い桜」「赤光」さらに、「青空」「青濁」「蒼い」「緑」など多彩である。これらのなかで、〈梅咲いて庭中に青鮫が来ている〉など「青鮫」を詠った句が目をひく。それらの色彩の個々から俳句観を見いだすのは難しいが、兜太の造型論と関連させて、何等かの暗示や象徴を読者それぞれが汲み取り、感受すばよいのだろう。
俳誌『鴎座』2017年1月号より転載
https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/0d360abf16fcd2f242b359e4d31a573e 【金子兜太の一句鑑賞(7) 高橋透水】 より
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 兜太
句集『少年』より。デモか何かの標語にありそうな「原爆許すまじ」のフレーズ。それと「蟹かつかつと瓦礫あゆむ」はどう結び付ければよいのだろう。
金子兜太の「自選自解99句」によれば、「『原爆許すまじ』が広く唄われていた頃で、その記憶に残る詞句をいきなり借用して(私は自己流にこれを本歌取りという)つくった句で、賛否両論だった。讃める人は中七下五の捕らえ方に縄文期がある、などと言うが、自分では分かり切らない。しかし、この句の韻律の素樸で乾いたひびきは自分でも好きだ。とっさに出来た俳句の良さか」と自句自賛。
今ではほとんど聞く機会のない「原爆許すまじ」の歌を踏まえて兜太は語っていたのだ。ここで浅田石二作詞・木下航二作曲の『原爆を許すまじ』の一番の歌詞をみると「ふるさとの街やかれ/身よりの骨うめし焼土(やけつち)に/今は白い花咲く/ああ許すまじ原爆を/三度(みたび)許すまじ原爆を/われらの街に」である。二番以下をみても、蟹は出てこない。強いて言えば、「焼土(やけつち)」から瓦礫を、「ふるさとの海荒れて」から蟹を連想されるが、「中七下五の捕らえ方に縄文期がある」とはとても感じられない。そこに現代的な風景、特に音を感じなければ、この句は生きてこないと思う。
スローガン的な措辞からか、読者と原爆に対する怒りを共有でき、「かつかつ」と「あゆむ」から蟹でない何かをイメージさせる効果がある。一つは蟹を平和の象徴とみるか、デモ隊の整然とした歩みとみるかだ。その基底部に、俳句作者の態度の問題、また造型という手段が施されているのである。ひょっとしたら「蟹」は兜太自身のことか。
句集『少年』の後記に、「文学における方法は作家の生き方の深化(認識及び思想の深化)によって確定されるものと考える」とし、「何よりも、自分の俳句が、平和のために、より良き明日のためにあることを願う」とある。兜太の今に通じる思想と生き方である。
俳誌『鴎座』2017年2月号 より転載
https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/1108c3bba35bd1ee9e9ff480a6db924c 【金子兜太の一句鑑賞(8) 高橋透水】 より
朝はじまる海へ突込む鷗の死 兜太
日本銀行の転勤生活も神戸に移って三年経ち、俳句専念をこれからの人生と決めたころの句という。背景は神戸港の埠頭である。
「朝はじまる」と「突込む」と動詞が二か所あり解釈を複雑にしているが、「朝はじまる」で切れるとしても、夜が明けてこれから何かが始まるということだろう。とは言え、一体「鷗の死」は何を象徴しているのだろうか。しかも「海へ突っ込む」である。
死と生の倫理を暗示しているのか。感受性が強く、しかも実験的な作を好む作者だ。安易な解釈は禁物である。兜太の「自選自解99句」によれば、「鷗は魚をとるため海へ突っ込む。その景を見ていて、トラック島で、零戦が撃墜されて海に突っ込む景を直ちに想起した」とあるが、戦争の悲惨な記憶はいつまでも作者の脳裡に飛来し、繰り返される。
初出は「俳句」昭和三十一年七月号。「港湾」という題で二十五句発表して冒頭に置かれた句。同時に、〈山上の妻白泡の貨物船〉〈強し青年干潟に玉葱腐る日も〉などの作品がある。後に兜太は『わが戦後俳句史』のなかで、この句の背景と動機について、「神戸港の空にも防波堤にもたくさんの鷗がいて、ときどき海に突込んでは魚をくわえてきました。私はそれを見ながら、トラック島の珊瑚の海に突込んで散華した零戦搭乗員の姿をおもい浮かべて、〈死んで生きる〉とつぶやいていたものでした」と述べている。
さらに、兜太は回想的に「この映像の根はトラック島でときどきぶつかった零戦が撃墜されて海に突込むときのことなんで、鷗と零戦が重なっているんです。死んで生きる、ということです。」(「兜太百句を読む」ふらんす堂)と時代を経ても様々なところで、種明かし的に句の解説を重ねている。
当時の兜太は単なる写生句を批判しつつ、見たものを頭のなかで創り直すという「造型俳句」理論を発表する頃で、実作への試みを示したとも考えられるが、これらは果たして作者の思い通りの作品になったかどうか。
俳誌『鴎座』2017年3月号より転載
https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/c13d6a361c3cdda7cab34f070dfc90e8 【金子兜太の一句鑑賞(9) 高橋透水】 より
銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとく 兜太
『金子兜太句集』、昭和三十六年の収録だが、初出は「俳句」三十一年七月号である。作句の背景は休日明けのこと。いつも勤務している職場なのに、兜太はある不思議な光景に気づいた。そこで目にしたのはすこし薄暗い部屋で光の当たったところだけ青白く光る朝の風景であった。昨日見た烏賊の発光体を彷彿させる勤労者が、職場で再現されたのだ。
いうまでもなく、蛍光灯または蛍光管は、放電で発生する紫外線を蛍光体に当てて可視光線に変換する光源である。しかしおそらく当時の蛍光灯の光はまだまだ自然光からは遠く、青白い光で古くなるとジージーという音がしたようなものだったろう。
金子兜太の「自選自解99句」によれば、「勤め先の神戸支店の朝の景。その前日、家族で尾道の水族館にゆき、ホタルイカを見てきた。その景に似た支店の朝のはじまりだった。当時は、蛍光灯が一人一人の机にあって、出勤すると自分の席の灯を点す。店内は暗い。そこに灯る灯は、水族館のホタルイカそっくりだったのだ。この景を銀行員への皮肉、批評と受け取る人が多く、社会性俳句の見本として読まれて評判になった次第」とある。
烏賊の発する発光と蛍光灯の光を浴びた被写体である人間の反射光では自ずと違いがあり、不気味さの点では反射光を浴びた人間が強いだろう。いずれにせよ、この句は発表されるや、造型俳句の意欲的な作品として高く評価され、また社会性俳句としても取沙汰された。確かに造型俳句にしようという意欲は感じられるし「蛍光す」から「さあこれから仕事にとりかかるぞ」という職場の雰囲気は伝わるが、これをもって「社会性俳句の見本」として読むのはいかがなものか。そして「ごとく」も造型を標榜する表現にしては、すこし安易ではなかろうか。
したがって、この句をもって造型俳句の最初の典型とみるには論議の分かれるところだろうが、兜太が社会性俳句の旗手として頭角を現した時期の句であることは確かだろう。
俳誌『鴎座』2017年4月号より転載
https://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/e/2e90dc0060b9c2bf7e8e304603c27ca4 【金子兜太の一句鑑賞(10) 高橋透水】より
どれも口美し晩夏のジヤズ一団 兜太
初出は昭和三十七年四月『海程』創刊号である。発表時は〈だれも口美し晩夏のジャズ一団〉であり、「どれも」が「だれも」だった。同時期の作に〈魚群のごと虚栄の家族ひらめき合う〉〈遠い一つの窓黒い背が日暮れ耐える〉などがある。
ジャズを聴いたのは早春の三月という(後に兜太は、作句時は晩夏だったとしている)。もちろんジャズを聴くのは春でも秋でもよいわけだが、春に聴くジャズは明るい開放感で心が高揚してくるが、「晩夏」となると少し気だるい夕の煩雑な時間で、ジャズの酸っぱさが身に沁みる。また「だれも」より「どれも」が無機質だがジャズの奏者以外の楽器や観客まで美を放ってくるようで、こちらの方がむしろ「口美し」のエロっぽさが効果的だ。
金子兜太・自選自解99句のなかで、「これはそのままの情景。日比谷公園に行ったとき。ジャズをやっている一団の人たちがいて、晩夏の光の中で口が美しかった。歌をうたう人ばかりでなく、楽器を奏でている人の熱中している口もきれいだ。ああ、戦後だなあという感じを妙に持ったのを覚えている」としているが、解説者の口も滑らかで美しい。
ここで『海程』の『創刊のことば』の要点を拾ってみると、「われわれは俳句という名の日本語の最短定型詩形を愛している。何故愛しているのか、と訊ねられれば、それは好きだからだ、と答えるしかない。ともかく、愛することから出発し、愛する証しとしても、現在ただいまのわれわれの感情や思想を自由に、しかも一人一人の個性を百パーセント発揮するかたちで、この愛人に投入してみたい。愛人の過去に拘泥するよりも、現在のわれわれの詩藻の鮮度によって、この愛人を充たしてやりたい。これが、本当の愛というものではないか」。とし、それに続いて、約束(季語・季題)というものに拘泥したくない、自然とともに、社会の言葉でも装ってやりたい、と高らかに宣言しているが、そうした『海程』精神がいまでも生かされていると信じたい。
俳誌『鴎座』2017年五月号より転載
0コメント