https://weekly-haiku.blogspot.com/search?q=%E9%87%91%E5%AD%90%E5%85%9C%E5%A4%AA 【前衛俳句」のありどころ(下)金子兜太と林田紀音夫~「伝統」対「反伝統」の空無化】堀本 吟 より
『びーぐる 詩の海へ』第4号(2009年7月)より転載
承前≫前衛俳句のありどころ(上)金子兜太という位置
◆金子兜太顕彰の意味
前回、私が特筆したことは、昨年2008年12月の第四回国際俳句フェスティバル・正岡子規国際俳句賞にて、いままで反伝統の中心とされ「前衛俳句」の旗手であった金子兜太と、やはり反俳壇俳句の方向で、高踏性を貫いてきた超マイナー俳人の河原枇杷男が、現今ではもっともグローバルなこういうトロフィーを得たことである。イブ・ボヌフォアやゲーリー・シュナイダーと列ぶ俳句大賞を得た金子兜太は、日本人では初めて。その活動も正岡子規の俳句に直結する俳人である。
また面白いことには、兜太と枇杷男は、戦後俳句史の中では、異端として見られてきた広い意味での「前衛」俳句の作家である。この「前衛俳句」については、かなり曖昧な概念であるのに、俳句史上の存在感がおおきい。その俳句の革新的な傾向、姿勢と方法論がひろく、世界に向けて今見直されたのである。
時間がたてば、状況の中の個人の内面も変わってくる。兜太は「前衛」を掲げた俳句結社「海程」を作り上げ、現在ではそれはあだ名であると言いあまつさえ「国民文芸」と言っているのだから、戦後の大衆化の流れに沿って、そのときの立脚点が変化しているわけである。従って、私は兜太のその場その場の安直な概念規定を信じていないし、どんな場合でも賞というのは現状追認だとおもうが、彼の変容の全体が伝統俳句なる領域を守る位置から評価されているところが、多少今までの顕彰行事とはちがっているように思われる。モダニズムの俳句革新の帰結、あり得べきコースとして、金子兜太は戦後俳句のフロンティア、水先案内人でもあった、ということを「伝統俳句」から評価されたのである。
その時代にジャーナリズムがそのあだ名をつけてしまったものであることは事実だが、しかし、言われた俳人たちもあえてそれを拒もうとはせず、大げさなレッテルを貼られることについて積極的な是正の論を張ることもしていなかったのだから自負はあったはずなのに、いまさら自分は前衛という名前は嫌いだったと言っても仕方がない。
まあ、それはともかくとして、我が国のトップクラスの俳人たちは、「前衛俳句」を「伝統俳句」に寄与したと言う理由で選んでいる。
けっきょく金子兜太を読み直す視点、読者の立っている切り込み位置が変わってきていて、俳句時評はそこに触れるものでなかればならない。大衆化状況の蔓延しているなかで定着している「前衛俳句」の認識が、もちろん、昔のままで再認識されることはたぶんもう無いわけだが、「前衛」「伝統」現代」の俳句の実質がとわれないまま、しかしそのエスプリへの共鳴や関心はかなりつよいものがある。 ただし、「前衛俳句」の固有の時代、その昂揚の意味については、今、若い世代の中に多少見直しの機運ができてきているときに、反省と再見しておきたいものである。
◆伝統俳句活性化への功績?
前回、私(堀本)は、金子兜太の受賞理由の次の箇所を太字にしている。
例えば、前衛俳句は伝統俳句に対立する運動と理解されているが、むしろ氏の活動によって伝統俳句が活気づけられた点を見逃せない。前衛俳句運動によって、伝統俳句の意識が明瞭となり、新しい伝統俳句運動も誕生した。(平成20年「正岡子規国際俳句賞」受賞理由)※太字は堀本による
実際良くできている文面である。だが、俳人の立ち位置に考えが及んだときに、「前衛」俳句があだ花のように言われすでに不在でありながら、今でも仮想敵にされているその奇妙さがせり上がってくる。少なくとも、「伝統俳句が活気づけられた」とか、「前衛俳句運動によって、伝統俳句の意識が明瞭となり、新しい伝統俳句運動も誕生した」という言い方ではあまり議論を聞いたことがない(例外に仁平勝の指摘がある。後述)。
◆兜太の方法の提案「造型俳句六章」
で、一体金子兜太とは、具体的にはどういうことをした俳人であるか、といえば、戦中派の戦争体験を俳句にして出発したのは鈴木六林男とおなじである。兜太のほうはとくに大衆運動の組織に優れた力があり、神戸に単身赴任したときには、関西の実感精神旺盛な俳人と興隆し「新俳句懇話会」というサロンを作った(昭和二九年)。それがいわば母胎になって、のちに「前衛俳句」といわれる俳句革新の波、反伝統の動きを作りあげるプールとなった。この談話会の雰囲気の中で一九六一(昭和三十六)年「俳句」一〜六月号に、《造型俳句六章》が書かれた。
「造型俳句」とは、俳句の構造の中に、主体という視点を持ち込んで概念を再構成した新しい俳句造型の方法の提案、ということで、金子兜太を「客観写生」を超克できる現代俳句の理論家として俳句史の表面に押し上げた言説である。業績の評価と言えば、山頭火や小林一茶への傾倒よりも、このことがもっともメインであるべきだ。
その後も、一九六三(昭三十八)年『短詩型文学論』(岡井隆との共著)一九六五(昭四〇)年『今日の俳句』(光文社)。一九七〇(昭四五)『定型の詩法』海程社)。一九八五(昭和四十)年『わが戦後俳句史』(岩波書店・新書版)。とあらわす。
これを見てもわかるのだが、と言うより改めて自覚しなおしたのだが、戦後の俳句と戦後の短歌は、それぞれ前衛俳句前衛短歌として、既成の価値観へのオルタナティブの発言や作品化を追究した。その新し味の探求は、ぎゃくに、兜太の関心にあった故郷土着のテーマの発見につながってゆく。小林一茶や種田山頭火への関心を集約した大著がある。
有季定型、客観写生、や、表現への抵抗克服への評価がその中心ではなく、「むしろ氏の活動によって伝統俳句が活気づけられた点」とあることも、まあ頷けるのだが、よるべき理論的な根拠を喪失しているといういいかたもできるのだ。
後年、その金子兜太の《造型俳句六章》を読んだときに、最後の章で、人間の存在状態を象徴的傾向と主体的傾向にわけて、作品を作る主体の観念を持ちだし、「社会的存在が存在状態を規定するほど拡大した段階を人間の内面と呼び、それ以前の状態を個我とよんできました」(金子兜太掲出書)のところで、大衆の「現実意識」と自身の思索の関わりを追究した同時代の詩人吉本隆明の「自立思想」の提唱などに思いを馳せたものだ。
◆吉本隆明の《蕪村詩のイデオロギイ》
吉本は、与謝蕪村の〈紅梅の落花燃ゆらむ馬の糞〉〈地車のとどろとひびく牡丹かな〉などをあげて、「こういう背景には、地獄絵のような現実社会が横たわっているというふうに、蕪村を理解しようとしたものはいない。」という説き起こしから、十八世紀半ばの江戸、明和の農民一揆や台頭する町人階級の経済力が、武家社会のヒエラルキーのバランスを崩していった社会の軋みとかさねてゆく。(『抒情の論理』1963年・未来社:初出は「三田文学」1955年10月号)。
このように現代詩が批評を内包した主体の意識の表現として述べられ、それと同じ次元で俳諧文学を捉える視点は、この時代だからこそ、はじめて示された。同時代人金子兜太の「造型俳句」論理の展開のありかたも、どこかこの吉本の姿勢とつながるものがある。
優れた詩人の詩意識は、かならずその詩人の現実意識を象徴せずにはおさまらない、というのは詩の持っているもっとも基本的な宿命的な性格であって…(「蕪村詩のイデオロギイ」)
金子兜太が種田山頭火や小林一茶、秩父困民党へ注ぐ眼差しは、この時代が要求する現実意識のあらわれであった、と私は考えている。
◆『林田紀音夫全句集』刊行
関西はじつは、「前衛俳句」の発祥地である。なかで、林田紀音夫(昭和一〜平成十一)は「十七音詩」という同人誌により、無季俳句と口語文体を最後まですすめてきた俳句作家である。所属は、金子兜太の「海程」と鈴木六林男の「花曜」。しかし、死後に愛弟子によって編まれた『林田紀音夫全句集』(福田基編・平成十八年・富士見書房)では、二冊の既刊句集に付して、ほぼ一万句の草稿が刊行された。同人誌発表されているものを含めて、句集にならなかった未刊行句には晩年になるほど有季定型の句が殖えてくる、と言う事態であるので、林田があえて句集にしなかった理由はわからない。
舌いちまいを大切に群衆のひとり 林田紀音夫
鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ 同
林田は、このような斬新なレトリックで戦後社会の中の都市の生活句の中から発想する絶唱ともいえる俳句をのこした。俳句性よりも詩性を過剰に感じさせるゆえに彼の俳句がわれわれを魅了したのだが、これらには明らかに複雑な内部意識を喩化してゆこうとする戦後詩の思考のスタイルの影響が入っている。
既刊二句集『風蝕』『幻燈』の無季句に比べて亡くなるまで(大正十三〜平成一〇年)、また阪神大震災のとき復活したかに見える無季句は、下手とは言えないが初期の句に及ばず、有季句にも迫力がない。俳句を作品としてのみ読もうとすれば、文体としてははじめの仕事で完成されていると言う批評がでてくるのもある意味では頷ける類のものだ。
だが、林田がしだいに無季俳句オンリーの姿勢を貫けなくなったこの抵抗の足跡は、「前衛俳句は滅びた」と言われる由縁でもあるとしても。一万句もある佳句や駄句を取りまぜて読むことでひとりの俳人の全生涯を見渡したときに、かえって俳句という小さな詩の大きさが、みえてくる場合がある。そして金子兜太はオルタナティブ半世紀の戦いと変容をとおして、自らに潜む大衆の無思想の場所を言語化したのである。ある意味では前衛性を訊ねつつ報われなかった林田紀音夫のかわりに慰謝として、「伝統俳句に寄与した」金子の名声があるようにも思われてならない。
車窓より拳あらわる旱魃田 金子兜太
霧の村石を放らば父母散らん 金子兜太
行人に影を奪はれ仕事なし 林田紀音夫
◆『現代俳句ハンドブック』の解説
十数年前の『現代俳句ハンドブック』(平成七・雄山閣)(坪内稔典、齋藤愼爾、復本一郎、夏石番矢編集)にその項目が出ている。要旨のみあげる。
前衛俳句
昭和三〇年代に時代意識に関わる内面意識や心理、深層意識などを自覚的に掘り起こし、新たな表現様式の確立に向け果敢な詩的実験を試みた俳句運動を言う。(としてふたつの潮流をあげる)。一つは「二〇年代の社会性俳句の推薦者金子兜太が三二年に提唱した「造型俳句論」に立脚して、創作過程の意識や無意識の世界に注目した流れ。(堀本註。兜太を中心に「海程」へ結集した八木三日女、堀葦男、林田紀音夫等)。*他の一つは、自己の内部現実を詩的内部構造の次元から追及してきた冨澤赤黄男、高柳重信を中心とする「薔薇」から「俳句評論」の流れ。(堀本註。赤尾兜子、加藤郁乎、永田耕衣、河原枇杷男、安井浩司等)。運動は、書く行為の意識化の普及や表現様式の変革に一定の効果をあげる一方、隠喩のコード化や俳句性の逸脱等の問題が派生した。(この項川名大執筆)。
伝統俳句
「新傾向俳句、新興俳句、社会性俳句、前衛俳句に対して有季定型をあくまでも守るという立場から発言された言葉であろう。(中略)。「俳句の困難さとは、この形式に手を染めたが最後、伝統を背負わざるを得ない。」(同書。この項玉川満執筆)。
この事典がいまどれほど読まれているかはわからないが、「伝統俳句」というこの称名は昭和の初め頃から使われ、とりわけ「前衛俳句」という言葉にたいしてうまれたものらしい。とすれば、最初に掲げた金子兜太の存在理由が、新しい「伝統俳句」の運動を起こしていった、というところにおかれた遠い理由もわかる。「伝統俳句」と言う言葉ともに、「あたらしい伝統俳句が昭和の初めに生まれた」と仁平勝が言っている。
これら、用語に関することの参考文献としては、仁平勝によって《新興、伝統、現代》。(『現代俳句の世界』(平成十五年・富士見書房)。《石田波郷『鶴の眼』—伝統俳句の変貌》(『俳句のモダン』(平成十四年・五柳書院)にポイントを押さえた解説がある。
過去からの累積のエッセンスである「伝統」は、現在時の表現に入り込んでのみそこで光を発するものである。俳句は、正岡子規によって連歌俳諧の発句から切り離され一句立てとなった瞬間から、その意味では近代詩としても独特の性格を備えて今日まできている。
概念化されたときからもともと多大な自己矛盾を抱えた詩型、詩意識なのだ。
それは、ぎゃくに有季定型派も「伝統」自体の仮象性をそれと気づかずに露呈していると言うことだ。この賞がしめす客観的な事実は、ひとりひとりのなかにある「伝統」対「反伝統」の対立意識が、空無となっていることだ。無理に「前衛」を名乗る必要はないが内実に関わる自己規定を拒否している。この態度決定の曖昧さ、あるいはこれこそが俳句詩型が創作主体に要求する自己放棄の道なのかもしれないのである。
この数年間、刊行物として目立つのは、物故した戦後俳人の全句集である。『鈴木六林男全句集』『桂信子全句集』『林田紀音夫全句集』「高柳重信読本」(角川学芸出版・二〇〇九)。そして「伝統」俳句系では「高濱虛子の世界」(角川学芸出版・二〇〇九)が刊行された。平成の二十代、三十代の俳人はそれらを、資料として咀嚼しながら、その圏外(つまり現在時)に飛び出しさかんに創作を開始している。さらに言うならば。その新しい世代の俳句の自己規定はまだ確立していないのである。
(了)
※転載に際し、初出の記事タイトルを変えさせていただきました。
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ラベル: 前衛俳句, 堀本吟
2011-04-03
【俳句関連書を読む】金子兜太×池田澄子『兜太百句を読む』 西原天気
【俳句関連書を読む】
よろしき距離
金子兜太×池田澄子『兜太百句を読む』 ……西原天気
池田澄子が金子兜太100句を選び、一句ずつについて作者と選者・評者のふたりで語り合うという趣向の『金子兜太×池田澄子 兜太百句を読む』 (ふらんす堂・百句他解シリーズ 2011年3月)。すでに刊行されている「百句自解シリーズ」の向こうを張った、とも言えます。
この本、とてもおもしろい。
ほぼ時間軸に沿って句が並んでいるので、伝記的な意味での「兜太入門」にもなります。
他選なので作者本人にとって予想外の句もあり、また、これまで注目度の高くなかった句も紛れ込み、むしろその点もおもしろく読める。有名句を集めたアンソロジーでは味わえないことです。
逆に、通り一遍のアンソロジーには当然入っていそうな句が洩れたりもします。例えば「原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ」は洩れ、池田が選んだのは「原爆の街停電の林檎つかむ」。この2句について、兜太と池田のやりとりのなかで、池田が次のように言います。
(…)反対のしようがないんです、「原爆許すまじ」って。「そうでしょうか」とか言えないんです。
絶対に正しいところが、生意気ですが私は物足らないのです。
洩れたといっても、洩らした理由について語られるのですから、結果的には洩れていないのですが。
この本のおもしろさは、池田澄子というキャスティングの成功がもたらしたものでしょう。金子兜太という大俳人、兜太句という偉大な産物との距離感がいい。池田のそれらへの愛情は、深いけれども、盲目的ではなく、適度な距離があるのです。
よろしき距離が生み出す対話のおもしろさ、俳句を語ることのおもしろさが、この本の随所にあります。
もし、例えば、編集部が、金子兜太「先生」にインタビューするというかたちでは、こんな本になりません。あるいは、兜太に心酔する人とでは、このような対話にはなりません。
金子兜太への信仰表明・帰依宣言のような文章は、比較的よく目にします。
去年2010年9月に創刊され、このところ更新のないサイト「俳句樹」に連載されていた「海程ディープ/兜太インパクト」は少なからぬ人に驚きと失望を与えました(私もそのひとり)。
ファンクラブの会報と見紛うような、信仰表明・帰依宣言は、書き手本人には意義のあることでしょうし「海程」という組織にとっても意味があるかもれませんが、多くの読者にとっては、「なに、これ?」であり、むしろ「金子兜太」を遠ざける負の効果を生みます。
それではもったいない。兜太句は、読者すべての共有財産ですから。
百句他解シリーズは、これからどんな作者と読者(選者・評者)の組み合わせが実現していくのでしょうか。楽しみです。
池田澄子が作者の役にまわることも当然考えられますが、そのとき誰が選者・評者の役をこなすのか、それも楽しみです。「信仰表明・帰依宣言」ではなく、よろしき距離をもって池田澄子俳句を愛し、語れる人をもってくるのは、簡単ではないでしょうが、このシリーズの成否はそこにかかっているはずです。ふらんす堂編集部に期待、です。
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ラベル: 西原天気, 俳句関連書を読む
2009-10-04
『俳句界』2009年10月号を読む(下) 山口優夢
〔俳誌を読む〕
『俳句界』2009年10月号を読む(下)
山口優夢
≫承前:『俳句界』2009年10月号を読む(上)
●兜太ばかりがなぜもてる? p129-
つい先頃最新句集『日常』が刊行され、『俳句』編集部からは『金子兜太の世界』も出版されるなど注目を集めている金子兜太がらみの企画。松澤昭、八木健が主に金子兜太の人物について語り、池田澄子が金子兜太宛ての手紙を書き、兜太のインタビューがあり、山崎十生、神野紗希、佐藤文香の『日常』論、という流れだ。
中では、池田澄子氏が兜太宛ての手紙と言う形で書いた兜太論に、殊に心動かされるところが大きかった。手紙形式で雑誌に載せる文章を書く、ということは、完全に手紙と同じようにその人一人だけに宛てて書いても、その人しか面白くないのではダメだし、かといって雑誌の読者ばかりを意識して書くのであれば手紙形式の意味がない。つまり、本人への親しみを込めつつ、誰が読んでも面白い発見のある文章にしなくてはならない、という特殊性と普遍性の高度なバランス感覚を要求する原稿なのである。
澄子氏の文章は、兜太自身の持つ人間的魅力と、俳句作品の魅力をうまく結びつけ、時には作品に対するルビの振り方に(親しみをこめて)注文をつけており、兜太へのリスペクトを感じると同時に、兜太論としても楽しく読めて、さすがだと感じ入った。詳しい内容は、買って読んでいただければ、と思うが、特に僕が心惹かれたのは、文章の最初の方に、
昨夕、句集『日常』にサインをいただき、握手で先生のエネルギーを盗んだ私は、帰宅して嗽をし入浴して冷たいものを飲んで、テーブルの前に坐ったところです。この稿の締め切りはまだまだ先ですのに、気持が後を引いていて書きたくなってしまったのです。
と書かれてあったところだ。この原稿は仕事で書いているのであろうに、澄子氏の兜太に対する仕事を離れた個人的な敬意が垣間見えて、そのような気持ちをもって書かれた文章なのだと思うだけで、兜太自身でない僕までもとても楽しい気持ちになってしまうのだった。
兜太インタビューの副題は「俺が五七五そのものなんだ。」。この豪放な言い方、やはり魅力的。これは、兜太節を生のまま楽しむことのできる原稿として読むべきであって、たとえば「有季定型っていうけれど、定型は大事だけど、有季は別に拘ることじゃないです。」という彼の発言の根拠がこのインタビューからではいまいち分からない、というところにいちいちケチをつけて読むような性質のものではないのだろう。昔の、中村草田男と山本健吉との論争の様子を語っている部分など、興味深い話も多い。
『日常』論では、神野紗希氏の
穴子寿司食べてる鬼房が死んだ
を皮切りに、丁寧に兜太俳句を読み解いてゆく論も心地よく思ったが、
合歓の花君と別れてうろつくよ
に「涙が出た」と言う佐藤文香氏の文章の、一句一句熱のこもった句の読みにも感銘を受けた。
長寿の母うんこのようにわれを産みぬ
ほうぼうで話題になる句だが、この句に「あたたかく母から生まれた」という文言をつけてみせるのは、さすがであろう。
●坂口昌弘:俳句界時評 俗から造化へ~俳諧精神の自由 句集『夏至』と『日常』 p76-
この時評でも、故意か偶然か特集同様に金子兜太の句集を話頭に挙げている。気になったのは、正木ゆう子の『夏至』、金子兜太の『日常』それぞれから
太陽のうんこのやうに春の島 ゆう子
長寿の母うんこのようにわれを産みぬ 兜太
の二句を挙げ、「優秀な二人の共通点と特徴を表していて、これらの句を引用しない二人の句集論はあり得ない。」としているところ。兜太の句が佐藤氏の言うように「あたたかく母から生まれた」自己の肉体、というものを想起させ、しかもグロテスクではなく、「長寿」の母に捧げる感謝の念や母の毎日の排泄という人間としての営みへ寄り添ってゆく深い思いを感じさせるのに対し、さて、正木ゆう子の「うんこ」の句はこれと同一に議論できるものであろうか。「うんこのやうに」という言葉自体は同じでも、それが「われを産みぬ」にかかって自意識を表現するのか、「春の島」にかかって天地創造を幻想するのか、によってこれらの言葉の持つ意味合いは全然違っているのではないだろうか。
この二句を挙げて議論を展開するのであれば、少なくともそのような相違点を確認したうえで各々の作者の個別性に筆を進めてゆく必要があるように僕には感じられるが、どうもこの論においては「うんこ」や「糞尿」を詠むということが「荘子の思想」やら虚子の「俳諧スボタ経」やらに通うところがある、と一緒くたにくくられ、一つの思想パターンに組み込まれてしまって、話を終わらせてしまっている点は少々残念に思えた。「これらの句を引用しない二人の句集論はあり得ない」という大見栄切った言い方に見合うほど、僕自身がこの論に説得されなかったのである。
坂口氏の句評は、たとえば正木ゆう子氏については「個性的なコスモロジーを表現する、今日稀な俳人である」としていたり(個性的なコスモロジー、ってなんでしょう)、さきほどの「うんこ」で荘子を持ちだしてきたり、というように、それぞれの俳人の句をもっと一般的な概念や思想の中に組み込むことで論を進めるということが多く、それはたとえば自分が句評を書く際には、あまりない発想だったので、なるほど、そういう書き方もあるのか、と興じながら読み進めた。
●隔月連載 絆~親子対談:森澄雄+森潮 p183-
今月から始まった隔月連載で、親子や夫婦で俳句をたしなむ方を毎回一組まねき、聞き手に坂口昌弘氏を配して対談してもらおうという企画。坂口氏は、この第一回を見る限りでは聞き手というよりも司会者といった印象を受けたが。
この親子対談、はっきり言って何をしたいのか、意図がまるで見えない。「聞き手」の坂口氏は、冒頭で「親子で俳句や結社を継承してゆくことが非難されている」現状を指摘したものの、つづいて「ただ、私は、親から子へ俳句理念が引き継がれてゆくのは、何か必然のようなものがあると感じているんです。」と、問題提起した先から自分で解決してしまい、ではこの対談では彼が感じているという「必然のようなもの」が見えてくるのかと言うと、そうでもないようである。
対談の内容は、主に森澄雄氏の語る俳句理念を受けて、坂口氏と息子の潮氏がさらに言葉をつけ足しながらその理念の素晴らしさを語り合う、というようなもの。坂口氏は、森澄雄氏の俳句について「大きな老荘思想が息づいている」としており、時評のときと同様にここでもある俳人の句業を一つの思想の中にカテゴライズしている。
ところどころで、森澄雄氏の奥さまの句が出てきたり、潮氏が俳句の世界に足を踏み入れるきっかけが語られたりするものの、親子の間での俳句観の相違や共通点がどこにあるのか、親子で俳句をやっているということの意味はなんなのか、ということがあまり伝わってこない。そもそも、この対談中では森澄雄氏の俳句ばかり話題に上がって、森潮氏の俳句が一句も登場してこない。寡聞にして森潮氏の名前をこの企画で初めて知った私のような読者からしてみれば、彼がどのような俳句を詠むのか、ということすら分からないのである。
親から子へ伝わっているものは?老荘思想?残念ながら、第一回の対談は、読んでいて納得のいくものとはとても言い難かった。
●魅惑の俳人たち 高屋窓秋 奇跡の俳人、そのロマンと叙情性 p95-
以前から興味を抱いていた俳人であったものの、自らの怠惰のせいでなかなかまとまって句を読む機会がなかったところ、編集部の抄出による句セレクションで初期から後期までの句を見ることができたのは大変面白かった。
特に
降る雪が川の中にもふり昏れぬ
一つづつ万の夕日が山に消ゆ
核の詩や人肉ふたり愛し死す
などの句をこの特集で知り、新たに感銘を受けた。
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