山頭火の日記 ⑮

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1945882787&owner_id=7184021&org_id=1945911448 【山頭火の日記(昭和7年5月2日~)】 より

五月二日 

五月は物を思ふなかれ、せんねんに働け、といふやうなお天気である、かたじけないお日和である、香春岳がいつもより香春岳らしく峙つてゐる。早く起きる、冷酒をよばれてから別れる、そつけない別れだが、そこに千万無量のあたたかさが籠つてゐる。四里ばかり歩いて、ここまで来て早泊りした、小倉の宿はうるさいし、痔もよくないし、四年前、長い旅から緑平居へいそいだときの思出もあるので。此宿は宿としてはよい方ではないけれど、山家らしくて、しつとりと落ちついてゐられるのが好きである。今日の道はよかつた、いや、うつくしかつた、げんげ、たんぽぽ、きんぽうげ、赤いの白いの黄ろいの、百花咲きみだれて、花園を逍遙するやうな気分だつた、山もよく水もよかつた、めつたにない好日だつた(それもこれもみんな緑平老のおかげだ)、朝靄がはれてゆくといつしよに歯のいたみもとれてきた。麦の穂、苗代つくり、藤の花、鮮人の白衣。

 雀よ雀よ御主人のおかへりだ(緑平老に)

 香春をまともに別れていそぐ

 別れてきた荷物の重いこと

 別れてきて橋を渡るのである

 靄がふかい別れであつた

 ひとりとなつてトンネルをぬける

 なつかしい頭が禿げてゐた(緑平老に)

 塵いつぱいの塵をこぼしつつゆく

 石をきざみ草萠ゆる

 若葉清水に柄杓そへてある

 住みなれて筧あふれる

 あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ

 衣がへ、虱もいつしよに捨てる

 山寺ふけてゆつくり尿する(改作・福泉寺)

此宿の田舎らしいところはほんたうにうれしかつた、水もうまかつた、山の水としてもうまかつた、何度飲んだか分らない、何杯も何杯も飲んだ、腹いつぱい飲んだ、こんなにうまい水はめつたに飲めない。同宿二人、一人は研屋さん、腕のある人らしい、よく働いてよく儲けて、そしてよく費ふ――費ひすぎる方らしい、飲まなければ飲まないですむが、飲みだしたら徹底的に飲む、いつかも有金すつかり飲んでしまつて、着てゐる衣服はもとより煙草入まで飲んでしまいましたよ、などとニコニコ話してくれた、愉快な男たることを失はない、他の一人は蹴込んでマツチを売つてあるく男、かなり世間を渡つてゐるのに本来の善良性を揚棄しえないほど善良な人間であつた。今夜といふ一夜は幸福だつた、地は呼野、家は城井屋、木賃三十銭、中印をつけて置くが上印に値する、私のやうなものには。

【あるけばきんぽうげ】

この日の日記に、「あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ」の句があります。山頭火の句集『草木塔』に、次のようにあります。

「 あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ

  あるけば草の実すわれば草の実

この二句は同型同曲である。どちらも行乞途上に於ける私の真実をうたつた作であるが、現在の私としては前句を捨てて後句を残すことにする。」

五月五日 雨、破合羽を着て一路、白船居へ――。

埴生――厚狭――舟木――厚東――嘉川――八里に近い悪路をひたむきに急いだ、降る吹くは問題ぢやない、ここまで来ると、がむしやらに逢ひたくなる、逢はなくてはおちつけない、逢はずにはおかない、といふのが私の性分だから仕方がない、嘉川から汽車に乗る、逢つた、逢つた、奥様が、どうぞお風呂へといはれるのをさえぎつて話しつづける、何しろ四年振りである。――今日ほど途中いろいろの事を考へたことはない、二十数年前が映画のやうにおもひだされた、中学時代に修学旅行で歩いた道ではないか、伯母が妹が友が住んでゐる道ではないか、少年青年壮年を過ごした道ではないか(別に書く)。峠を四つ越えた、厚東から嘉川への山路はよかつた、僧都の響、国界石の色、山の池、松並木などは忘れられない。雨がふつても風がふいても、けふも好日だつた。端午、さうだ、端午のおもひでが私を一層感傷的にした。

 鉄鉢へ霰(改作)

余談として一、二。――関門風景はよい、そこに鮮人ルンペンを配さなければなるまい。道程を訊ねて、適切を答を与へる人はめつたにない、爺さんはたいがい正確である、彼は昔、歩いてゐるから。

 雨の朝から夫婦喧嘩だ(安宿)

 あざみあざやかにあさのあめあがり

 誰にも逢はない水音のおちてくる

 うつむいて石ころばかり

 いそいで踏みつぶすまいぞ蛙の子

 ぬかるみで、先生お早うございます

 右は上方道とある藤の花

 ふつたりやんだり歩く外ない

 降り吹く国界の石

 ほどよう苔むした石の国界

 どしやぶりのお地蔵さん

 穂麦、おもひでのうごきやう

話しても話しても話しつきない、千鳥がなく、千鳥だよ、千鳥だね、といつてはまた話しつづける。長州特有のちしやもみ(苣膾)はおいしかつた、生れた土地そのものに触れたやうな気がした、ありがたい、清子さんにあつく御礼を申上げる。

【鉄鉢へ霰】

この日の日記に、「鉄鉢へ霰」の有名な句があります。改作される前の句は、「鉄鉢の中へも霰」です。五七五を標準とする俳句のなかにあって、五三のみという極小の句です。しかも、霰が音をたててはねるさまが目にみえるようです。

【うつむいて石ころばかり】

また、「うつむいて石ころばかり」の句もあります。山頭火は、よくもこんな道ばかり歩いてきたものだと思っています。そして、よくここまで生きてきたものだとも思っています。この道が、今までの山頭火の生涯そのもののような気がします。

五月六日 曇、后晴、ふつてもふいてもよろしい白船居。

悠々として一日一夜を楽しんだ、洗濯、歓談、読書、静思、そして夜は俳句会へ。糞ツ南無阿弥陀仏の話はよかつた、その『糞ツ』は全心全身の声だ、合掌して頂戴した。句を拾ふ――こんな気持にさへなつた、街から海へ、海から森へ、森から家へ。――棕櫚竹を伐つて貰ふ、それは記念の錫杖となる。

 石があつて松があつて、そして密柑があつて(白船居)

 どうやら霽れさうな松のみどり

 沖から白帆の霽れてくる

 埋立地のそこここ咲いてゐる

 頬かむりして夏めく風に

 そよいでる棕櫚竹の一本を伐る

 西瓜とパパイヤとさて何を添へようか(白船居)

 春蘭そうして新聞

 むつまじく白髪となつてゐられる

 星も見えない旅をつづけてゐる

 岩へふんどし干してをいて

 若葉のしづくで笠のしづくで

よく話した、よく飲んだ、よく飲んだ、よく話した、そしてぐつすり寝た。

【岩へふんどし干してをいて】

この日の日記に、「岩へふんどし干してをいて」の句があります。また山頭火の句に、「干せば乾けばふんどししめてまたゆく」があります。山頭火らしい、赤裸々な、なりふりかまわぬ句です。正直すぎるくらい正直で、飾らない山頭火の一面を表していて、読んでいて楽しくなる句です。

五月九日 曇、歩いて三里、汽車で五里、樹明居(小郡)

文字通りの一文なし、といふ訳で、富田、戸田、富海行乞、駅前の土産物店で米を買うていただいて小郡までの汽車賃をこしらへて樹明居へ、因縁があつて逢へた、逢ふてうれしかつた、逢ふだけの人間だから。街の家で飲んで話した、呂竹、冬坊、俊の三君にも逢つた、呂竹居に泊る、樹明君もいつしよに。

 街は祭の、世間師泣かせの雨がふる(福川)

 霽れるより船いつぱいの帆を張つた

 やつとお天気になり金魚、金魚

 晴れて鋭い故郷の山を見直す(防府)

 育ててくれた野は山は若葉

 車窓(まど)から、妹の家は若葉してゐる

戸田ではS君に逢ひたくてたまらなかつた、君は没落して大連にゐるのに。椿峠で二人連れのルンペンに逢つた、ルンペンらしいルンペンだつた。今日の行乞相は九十点以上。防府を過ぎる時はほんたうに感慨無量だつた。樹明居は好きになつた、樹明君が好きになつたやうに。

 柿若葉その家をたづねあてた(樹明居)

 逢へたゆふべの椿ちりをへてゐる

 地肌あらはなたそがれの道で

 こんやはここで寝る鉄瓶の鳴る(呂竹居)

 壁に影する藺の活けられて

 ふるさとの夜がふかいふるさとの夢

 すずめがおぢいさんがもうおきた

 けさの風を入れる

 赤いのは楓です(即興追加)

 水音のクローバーをしく

 身にせまり啼くは鴉

 また鴉がなく旅人われに

【晴れて鋭い故郷の山を見直す】

この日の日記に、「晴れて鋭い故郷の山を見直す」の句があります。防府市松崎町の防府天満宮の梅園に、この句碑があります。

五月廿四日 晴、行程わづかに一里、川棚温泉、桜屋(四〇・中)

すつかり夏になつた、睡眠不足でも身心は十分だ、小串町行乞、泊つて食べて、そしてちよつぽり飲むだけはいただいた。川棚温泉――土地はよろしいが温泉はよろしくない(嬉野に比較して)、人間もよろしくないらしい、銭湯の三銭は正当だけれど、剃髪料の三十五銭はダンゼン高い。妙青寺(曹洞宗)拝登、荒廃々々、三恵寺拝登(真言宗)、子供が三人遊んでゐた、房守さんの声も聞える、山寺としてはいいところだが。――歩いて、日本は松の国であると思ふ。新緑郷――鉄道省の宣伝ビラの文句だがいい言葉だ――だ、密柑の里だ、あの甘酸つぱい匂ひは少年の夢そのものだ。松原の、松のないところは月草がいちめんに咲いてゐた、月草は何と日本的のやさしさだらう。

 ふるさとはみかんのはなのにほふとき

 若葉かげよい顔のお地蔵さま

 初夏の坊主頭で歩く

 歩くところ花の匂ふところ

 コドモが泣いてハナが咲いてゐた

【ふるさとはみかんのはなのにほふとき】

この日の日記に、「ふるさとはみかんのはなのにほふとき」の句があります。防府市西浦の松田農園内に、この句とほか36基の句碑があります。

【川棚温泉】

昭和7年、佐賀・長崎・島原・佐世保など九州西北部を歩き、川棚温泉に着いたのが5月24日でした。剃髪の代金が高いくらいでひどい言いようですが、山頭火の日記では毒舌は別に珍しいことではありません。山頭火は随筆「『鉢の子』から『其中庵』まで」に、次のように記しています。

「福岡へ、唐津へ、長崎へ、それから島原へ、佐賀へ、神湊へ、八幡へ、戸幡へ、小倉へ、門司へ、そしておもいでふかい海峡を渡った。徳山、小郡、――この小郡に庵居するようになろうとは、私も樹明兄も共に予期していなかった。因縁所生、物は在るところのものに成る。」

五月廿五日 廿六日 雨、風、晴、発熱休養、宿は同前(川棚温泉)。

とても動けないので、しようことなしに休養する、年はとりたくないものだ、としみじみ思ふ。終日深夜、寝そべって、並べてある修養全集を片端から読みつづける、それはあまりに講談社的だけれど。―― 病んで三日間動けなかつたといふことが、私をして此地に安住の決心を固めさせた、世の中の事は、人生の事は何がどうなるか解るものぢやない、これもいはゆる因縁時節か。嬉野と川棚とを比べて、前者は温泉に於て優り、後者は地形に於て申し分がない、嬉野は視野が広すぎる、川棚は山裾に丘陵をめぐらしいて、私の最も好きな風景である。とにかく、私は死場所をここにこしらへよう。

【川棚温泉に庵居計画】

山頭火は川棚温泉に着いたのですが、旅の疲れか発熱で3日間寝込んでいます。どういう理由か分かりませんが、山頭火は「私は死場所をここにこしらへよう」と川棚温泉に庵を結ぼうと決心し、5月29日糸田の木村緑平宅へ出向き相談しています。それから3か月にわたってこの地で庵を結ぶために奔走します。しかし、保証人の問題、資金の問題など思うままにならず、ついに計画は頓挫します。

五月廿九日 晴、電車と汽車で緑平居へ、葉ざくらの宿。

朝から四有三居を襲うて饗応を強要した。緑平老はあまりに温かい、そつけないだけそれだけしんせつだ、友の中の友である。

 水を渡つて女買いに行く

夕方、連れ立つて散歩する、ボタ山のむここそこから煙が出てゐる、湯が流れてくる、まるで火山の感じである、荒涼落漠の気にうたれる。

 ボタ山へ月見草咲きつづける

【木村緑平宅】

山頭火は川棚温泉に庵を結ぼうと決心し、5月29日糸田の木村緑平宅へ出向き相談しています。

五月三十日 晴、行程五里、高津尾という村、祝出屋(三十、中)

早く起きて別れる、そして川棚へ急ぐ、疲れて途中で泊る、この宿はほんたうにしづかだ、山の宿の空気を満喫する。例の後援会の成績はあまり良くないけれど、それでも草庵だけは結べさうなので、いよいよ川棚温泉に落ちつくことになつた、緑平老の諒解を得たから、一日も早く土地を借りてバラツクを建てなければならない、フレイ、フレイ、サントウカ、バンザアイ! 近来とかく身心不調、酒も苦くなつた、――覚醒せずにはゐられない今が来たのである。しつかり生きなければならない、嘘の多い、悔の断えない生き方にはもう堪へられなくなつた。酒をつつしまなければならない、酒を飲むことから酒を味ふ方へ向はなければならない、ほんたうにうまい酒ありがたい酒をいただかなければならないのである。伊東君に手紙をだして、私の衷情を吐露しつつ、お互に真実をつかまうと誓約した。少し飲んでよく寝た。

 山の家のラヂオこんがらがつたまま

 ここにも畑があつて葱坊主 (再録)

【木村緑平老に相談】

山頭火は木村緑平老に相談した結果、川棚温泉に戻り、庵を結ぶ準備にかかりました。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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