https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0936105100/0936105100100020/ht000310
【下野国府と平将門の乱】より
各地で武士が力を持つ世の中になってくると,その力を示すような重要なできごとが,関東地方で起こりました。935年に起こった平将門の乱です。平将門は桓武天皇の流れをくむ平氏の一族で,関東地方で力をつけ,おじの良兼・国香などとの争いをきっかけに,乱を起こしました。常陸・下野などの国府を降伏させ,関東地方を従えて,自らは新皇と名乗り,関東地方で政治を行おうとしました。朝廷は藤原秀郷・平貞盛らの地方武士の力を借りて乱を鎮めました。このように平安時代には,すでに関東地方に将門や秀郷のような有力な武士団が形成されていて,朝廷もその力を認めました。将門の乱後も関東地方の武士団は,源平の合戦,鎌倉幕府による奥州征討,南北朝の動乱やその後の争いなどにまきこまれ,ある時は敵に,ある時は味方となり互いに争ったりしながら,勢力を伸ばしたり滅びたりしていきました。
https://ameblo.jp/36fd-5sg-j9-3945-aubk/entry-11384826901.html 【関東の地理イメージ~鈴木哲雄『平将門と東国武士団』】 より
関東地方って言ったら、やっぱり関東平野や北関東の山なみを連想してしまいます。しかし、中世以前、最初に関東での王権樹立を目指した平将門は、鬼怒川、利根川、霞が浦などが形成した「香取内海」を関東制覇の出発点とし、その志を実現した鎌倉幕府は相模川から相模湾地域にその首都を置いた、などと読むと、自分自身が形作ってきた固定観念を崩すのが、いかに難しいかを痛感します。
と、いうわけで、鈴木哲雄『平将門と東国武士団』(2012年/吉川弘文館)は、「動乱の東国史シリーズ」の第1巻(以下続刊)です。第1巻の本書は、「板東」の歴史的風景(自然環境や交通など)から、平将門の乱から前九年、後三年の役を経て、保元・平治の乱への東国武士団の関わりまでを描きます。ハードカバーだし、吉川弘文館だし、また読み切れないまま終わるかなーと思いましたが、意外や意外、電車の中でもスラスラ読めました。
読みやすい文体で、人文系専門書にありがちな「こんなこととーぜん知ってるでしょ?だから細かく説明なんかしてやんねーよ」的なごーまんさが一切ないからでしょうか。解説も懇切丁寧。
前九年の役は、源頼義率いる東国武士団と、安部貞任率いる蝦夷の流れを組む兵力との戦いと言うのが教科書的イメージで、その実、源氏を援助した清原氏の兵力が決め手だったくらいは知ってましたが、<実際の戦場において、多くの板東あるいは東国武士が活躍した様子は実は確認できないの である…黄海の合戦で、将軍頼義が動員できた兵力は一八〇〇余り、貞任軍は精兵四〇〇〇人余りであったが、…大敗し、将軍頼義の元に残った兵士は…六騎に過ぎない>。そしてその六人の分析等を通して、畿内近国の郎従が中心であった頼義と“東国武士”の主従関係は、実 は京都において成立したものであることが明らかにされています。
通説を覆す新説を知るのは、楽しいものです。他にも、畿内武士団の東国への展開や、関東武士団が積極的に京都に赴任していたことなどを読むと、昔の人(ってのも抽象的ですが)は、自分の生まれ育った土地から出ることなく一生を終えたんだろうな~と漠然と思っていましたが、案外日本中所狭しと動き回っていた人たちもいたようで、変な話、移動距離は私より長かったんじゃないかな、と思ったりもします。そのほか、本編の他にコラムもあって、こちらも面白いです。
<都の人々は、希少な「鳥の羽」で織ったという狭布による蝦夷の衣服と、綿木を立てるという 蝦夷の求愛の作法の両方をエキゾチックなものとして固定的にとらえ、一方的な関心と甘心をもちつづけたのであった。こうした蝦夷の衣服や風俗に対するステレオタイプが、鶴女房(鶴の恩返し)民話の成立にかかることもまた確かであろう>
という指摘はロマンチックでさえあります。
ただ、関西地方在住の歴史に特段興味がない人が面白く読めるか?というとそれは保証の限りではありませんが。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1528.html 【「平将門と東国武士団」/動乱の東国史】 より
いままで、断片的に中世の歴史を学んできたが、やはりこの辺で東国に関する中世全体の歴史をおさらいしようと、本を探して全7巻からなる「動乱の東国史」を読み進めることにした。その第一巻がこの本である。
目次:
将門と東国-プロローグ
Ⅰ 坂東の歴史風景-古代から中世へ
1 坂東の風景
2 交通と自然環境
3 将門以前
コラム 御食都国=安房国の神々
Ⅱ 平将門の乱
1 『将門記』と緒戦-鬼怒川=香取内海地域での戦い
2 平氏一族の内紛-将門と良兼
3 調停者将門による坂東支配
コラム 子飼の渡と堀越の渡-毛野川と子飼川
コラム 『将門記』の兵と中世武士-武士とは何か
Ⅲ 新皇将門の敗北
1 新皇将門の国家構想-内海の都と坂東国家
2 東西の兵乱のなかで
3 藤原秀郷と将門の敗北
4 『将門記』の語り
コラム 将門伝説の関連史跡-石井営所の周辺
Ⅳ 勝者たちの歴史-将門以後
1 秀郷流藤原氏の東国蟠踞
2 貞盛流平氏の活動
3 清和源氏と良文流平氏
4 良文流平氏と平忠常の乱
コラム 三浦氏一族の本拠地-衣笠城
Ⅴ 奥羽の地域社会と前九年・後三年合戦
1 奥羽の地域社会
2 前九年・後三年の合戦
3 清原氏の援軍と東国武士
4 延久の蝦夷合戦から後三年の合戦へ
コラム 蝦夷の衣服-狭布の細布胸合わじ
コラム 中世都市平泉と中尊寺
コラム 多気宗基の経筒-茨城県土浦市東城寺の経塚
Ⅵ 東国武士団と保元・平治の乱
1 荘園公領制の成立
2 荘園・公領をめぐる相克
3 源義朝と東国武士の抗争
4 保元・平治の乱と東国武士
コラム 御厨の風景-『彦火々出見尊絵巻』の一場面から
コラム 女堀の開削-秀郷流藤原氏の上野・下野への族生
日本列島のなかの東国社会-エピローグ
この目次で、どの範囲の歴史を取り上げているかは分かっていただけたと思うので、初歩的で恥ずかしいのだが、認識を新たにしたこと、整理がついたことを数点挙げておきます。
将門については、吉川英治の本で読んで将門のイメージは残っている。
今回は、常陸、下総が主な舞台ということもあって、あまり気が入らなかったので、将門については省略する。
将門の乱が起こった平安時代中期の、坂東八ケ国と周辺の国の国府の位置。そして主な川の位置。
香取の内海の広大さ、利根川(古利根川)が入間川と合流して東京湾に注いでいる。
平安時代の主要道路
平将門追討に功のあった「藤原秀郷(田原藤太)」からの系図。
それぞれの名家が生まれていることがわかる。
歌で名高い西行(佐藤義清)が、藤原秀郷からの嫡流であることに吃驚した。
源経基は当時武蔵介であり、武蔵権守興世王と共に武蔵武芝と足立郡内の不動倉の稲穀をめぐって争い、将門が調停に乗り出すが調停は失敗、源経基は都に逃げ帰って、将門が謀反と訴えた程度の人物である。
しかし、この源経基が清和源氏の祖なのである。
この系統を見ると、頼朝、義仲に繋がっていく源氏の頭領たる流れ、足利、新田、佐竹、武田に流れていく、中世武者の本流の流れだ。
源頼朝と木曽義仲の覇権争いの前段階として、二人の父親義朝と義賢との嫡流争いがあった。
義賢が討たれた「大蔵館」というのは、私の住んでいるところからわりと近いところにある。
なので、義朝と義賢について整理出来たのが、私には大きい。
これを少し転載しておこう。
源為義は摂関家に接近し、摂関家の権威と家産機構に依拠しっつ武士団編成を発展させていった。そうしたなかで、摂関家の氏長者藤原頼長と為義の次男義賢との著名な男色関係もあった。
これに対して、政治的な立場を異にしたのが長男義朝である。義朝の母は白河院の近親藤原忠清の娘であったが、父為義が仕える氏長者頼長の父忠実は白河院に関白を解任され蟄居に追い込まれた経緯があり、実権を取り戻した忠実が、白河院近臣の外孫にあたる義朝を忌避した可能性が高いとされている。
そのため義朝は廃嫡されて、永治元年(1141)までには坂東に下向し、相模国の三浦氏に迎えられ、源頼義以来の相伝の「鎌倉楯(館)」に入ったものと推定される。永治元年には、三浦義明の娘との間に長男義平が生まれている。前にふれた下総国相馬御厨や相模国大庭御厨への介入は、その後のことであり、三浦氏を外祖父とする義平が坂東南部の基盤を継承したのであった。ちなみに坂東で、義朝を迎え入れた上総氏(義朝は「上総御曹司」と呼ばれた)、最初に女婿とした三浦氏、次男朝長の母を出した波多野氏は、坂東の摂関家領の荘官でもあった。上総氏は上総国菅生荘(木更津市)、三浦氏は相模国三崎荘(三崎市)、波多野氏は相模国波多野荘(秦野市付近)の在地領主であった。廃嫡された義朝の坂東下向は、摂関家による荘園再編と関係していたとも考えられる。そうだとすると、義朝の坂東での活動は父為義による坂東経営の枠内にあったことになる。父為義と長男義朝の確執は、河内源氏の一族内の問題にすぎなかったのではなかろうか。
【大蔵合戦】
その後、義朝は都の武者としての道をえらび、一度京都に帰ったのであるが、まもなく下野守に補任される。それに対抗するように、上野国に下向したのが弟義賢であった。廃嫡された義朝にかわって嫡男となった義賢であったが、保延六年(1140)、京都での殺人事件の共犯者として東宮帯刀先生(たてわきせんじょう)の地位を失ってしまう。藤原頼長との男色関係のみでは河内源氏の嫡男はつとまらず、義賢もまた廃嫡されて坂東に下ったのである。
その後、坂東では、義朝の子義平が外戚三浦氏を背景に南部で勢力を拡大すると、西北部では上野国に下った義賢が利根川を越えて武蔵国へと勢力を伸ばそうとしていた。また、義朝は保元元年(1156)には、日光二荒山神社造営の功によって下野守を重任し、藤姓足利氏を支配下におくとともに上野国の新田義重との同盟関係を強化して、義重の娘を義平の妻とした。こうしたなかで、武蔵国西北部の秩父周辺は義朝=義平の勢力と義賢の勢力とがせめぎ合う場所となりつつあった。
この頃、秩父平氏(平忠常の兄弟将恒系)は武蔵国最大の武士団を形成しており、当主の秩父重隆は武蔵国の
留守所総検校職という国衡在庁の役職にあり、利根川を挟んで藤姓足利氏や新田氏と対峠していた。また、秩父氏一族内では、武蔵国留守所総検校職をめぐって、当主重隆と甥の畠山重能が対立しており、畠山重能は源義平を頼んでいたのである。
義朝=義平の勢力に包囲された状況の秩父重隆は、当然、源義賢と結ぶことになった。義賢は垂隆の娘を妻として「養君」となり、入間川上流の武蔵国比企郡の大蔵館に入って、上野と武蔵の武士団を糾合しようとした。大蔵館は上野国と武蔵国を結ぶ武蔵道の脇道(のちの鎌倉街道)と入間川水系の都幾川が交差する水陸交通の要衝に位置していた。
そこに拠点を構えた義賢=垂隆勢力に対して、弱冠15歳の義平が率いる軍勢が、突如襲いかかったのは久寿二年(1155)八月十六日のことであった。義賢と重隆はともに討たれ、武名をあげた義平は「鎌倉悪源太」と呼ばれることになる。この大蔵合戦によって、秩父氏の家督権は畠山重能が掌握し、坂東において義朝=義平に対
抗する勢力はほぼ一掃された形であった。
ちなみに、大蔵合戦で敗れた義賢の二歳の次男駒王丸は、畠山重能らの計らいで信濃国の木曾に逃れ、のちに木曾義仲となる。また、畠山重能と三浦義明の娘(あるいは孫娘)の間に生まれる子が畠山重忠である。
大変面白く読み進めることができた。
これで全体像がはっきりして、何かあるときには特定の武将についても調べることができる。
良い本だと思った。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/masasoku.html 【平将門の即位式】より
関東武士団の八幡信仰の例を、「将門記」に見ることにしよう。義江彰夫の「神仏習合」(1996年7月、岩波書店)からの抜粋である。
『 関東諸国府を軍事制圧した将門は、939年12月、上野(こうずけ)国府に進駐して新皇即位の儀式を行なうにいたった。「将門記」はそのありさまを次のように伝える。
将門は、府を領して庁に入り、四門の陣を固め、かつ諸国の除目(じもく)を放つ。時に、一晶伎(かんなぎ)ありて、云えらく、八幡大菩薩の使いと口走る。朕(ちん)が位を蔭子(おんし)平将門に授け奉る。その位記(いき)は、左大臣正二位菅原朝臣(あそん)の霊魂表すらく、右八幡大菩薩、八万の軍を起こして、朕が位を授け奉らん。今すべからく三十二相の音楽をもて、はやくこれを迎え奉るべしといえり。ここに将門、頂きに捧げて再拝す。いわんや四の陣を挙りて立ちて歓び、数千しかしながら伏し拝す。・・・・・ここに自ら製して諡号(いみな)を奉す。将門を名づけて新皇という。
この「将門記」に記された儀式のありさまは、神仏習合の世界を知る上で、実に、興味深い内容に満ちている。「新皇」即位という破天荒な儀式が巫女によって演出されたというだけでなく、即位を正当化するものとして、八幡大菩薩と菅原道真が登場しているからだ。
八幡大菩薩はもと北九州宇佐地方の土着信仰神。奈良時代に武力で国家を外敵から護る神に高められ、平安時代初期の九世紀半ばには王城鎮護の神として石清水(いわしみず)宮に勧請され、十世紀初めまでには応神天皇以下三神と認識されるようになった神である。だが、ここで注意しなければならないのはその称号である。菩薩とはもともと悟りをひらくまえの釈迦のことをいい、のちに大乗仏教で悟りを求めて修行する人を称していう。すなわち、八幡大菩薩とは、菩薩のかたちをした八幡神という神なのだ。仏になろうとする神。ここに神仏習合の典型例があらわれている。 』・・・・と。
(註:八幡神が平安時代への権力闘争と微妙に絡んでいることは八幡神の性格というか秦氏の性格を考える上で大事なことかもしれないが、ここではそのことを指摘するだけにとどめる。)
なお、中沢新一によれば、関東武士団の縄文時代から受け継いだ特質として、「野生の思考」があるという。河合隼雄と中沢新一の対談集「仏教が好き!」(2003年8月30日、朝日新聞社)から、関係部分を引用しておきたい。
『 東日本、岐阜あたりから東のほうは、もともと縄文文化圏ですから狩猟地帯なんです。また、アイヌの人たちを見てもわかるように、入れ墨をする。ですから入れ墨をしたり、狩猟したりしている人たちの文化伝統の地域が、東日本に広がっていた。ところが都を中心にして発達した神道は流血を嫌いますし、女性の血なんかも不浄だと恐れる。神道は清浄をもとめて、仏教は殺生禁断です。いずれにしても、東国の人たちの生き方、縄文的生き方にはそぐわないところがある。
ところが東日本では諏訪神社が「動物を殺してもいい」という御札を配っていたんです。狩人たちはそれを持って、狩りに出かけていった。関西では、春日大社なんかを見てもわかりますように、鹿をいっぱい飼いますでしょう。そして殺さない。ところが諏訪大社の場合は、鹿はいっぱいいるんですが、これは大量に殺してサクリファイズします。供犠をする儀式をする。神社毎年数十頭もの鹿の首をはねて、それを」神前に並べる儀式を、明治になるまでずうっとつづけていました。 』
明治以前、御頭祭の神饌は、いまよりずっとワイルドだった。
75頭の鹿の頭、猪の頭、兎の串刺し・・・・。
天明四年の祭りを見学した菅江真澄のスケッチをもとに
復元された神饌の数々が、神長官守史料館に展示されている。
これは現在の御頭祭の神饌である。
『 関東武士は関西武士と、背景となる世界がまったく違っていました。そういう人たちが西の文化とぶつかったとき、彼等の生き方は否定されてしまう。神道からも仏教からも否定された。関東武士のなかに発生した仏教の大きな変化が、ついには親鸞のああいう新しい佛教に繋がっていったのではないかしら。
仏教は生き物を殺さないということを重要な主題にするにもかかわらず、この仏教のもう一つの鏡の対極のような狩猟の世界があるということが、何か仏教というものが持っている非常に複雑な性格をつくっているような気がします。だって、キリスト教だってイスラム教だって、動物を殺すなとは言わないでしょう。
ところが仏教だけが「動物を殺してはいけない」と言う。しかし、その思想は深いところで「野生の思考」に連続している。つまり、狩猟の世界とも深いところで繋がっている思想としての「殺生禁断」なんです。日本仏教は、鎌倉時代にそういう問題とぶつかって、むしろ仏教を乗り越えるかたちで、これを解決しようとした。そのとき、縄文文化的なものと仏教とが、ふたたび出会うことになっています。ところが、キリスト教やイスラム教のほうでは、こんな複雑なことはおこっていません。切れているんですね。 』
そうだ。中沢新一の言う通りだ。「野生の思考」だ。何故八幡大菩薩が関東武士団の心を掴んだか。それは東国には、「東北」がもっとも濃厚だが、当時はまだ東国にも「野生の思考」が残っていたからである。
「野生の思考」については、レヴィ=ストロースをはじめとして、いろいろと先学の著書がある。中沢新一の「東北」すなわち「環太平洋の環」という考え方はすばらしいし、これにもとづく神話の研究、そしてそれらにもとづく「光と蔭の哲学」はすばらしい。きっとこれからの新しい地平を切り開いていくことだろう。中沢新一の「東北」すなわち「環太平洋の環」を具体的に知るには、「環太平洋インナーネット紀行・・・モンゴロイド系先住民の叡智」(星川淳、1997年9月、NTT出版)「一万年の旅路」(ポーラ・アンダーウッド著、星川淳屋久、1998年5月、翔泳社)、「小さな国の大いなる知恵」(ポーラ・アンダプッドと星川淳の共著、翔泳社)を是非読んで欲しい。「環太平洋インナーネット紀行・・・モンゴロイド系先住民の叡智」(星川淳、1997年9月、NTT出版)にはこういうことが書いてある。
『 各地の先住民文化を見渡してみると、世界を根源的な苦として否定的にとらえる例にはなかなか出会わず、ましてそこからの脱出を至上命題にする民族など皆無に近い。専門の研究者ではないので見落としがあるかも知れないが、私がこれまで触れたネイティヴな世界観では、生をこのうえない恵みと受け止め、死はその鏡像で、季節や水がめぐるように人間の魂も(あらゆる生き物の魂も)生と死を循環すると考えるのがふつうだ。そして人々は、そこからの脱出を求めるどころか、生死の循環をありったけの愛で抱きしめる。コロラド高原のタオス・ブエブロに住むティワ族の古老は語る。
わたしたちのすべての母は大地だ。父は太陽だ。祖父は、彼の心でもってわたしたちを洗い
すべてのものに命を与えた創造主だ。わたしたちの兄弟は、獣(けもの)や樹木。
姉妹は、あの羽根のある生き物。わたしたちは大地の子、だからそれを傷つけない。
朝の挨拶を忘れて太陽を怒らすことをすまいぞ。
わたしたちは、祖父が創ったすべてのものを心から讃めたたえる
わたしたちは、みんな一緒に同じ空気を吸っている・・・
獣(けもの)も、樹木も、鳥も、人も。 ・・・・・・・・・・・・・』・・・・と。
みなさん!どうです? 生の肯定、生を謳歌することだ。そして、豊穣を・・・・。「東北」は、宮沢賢治や草野心平と同じではないか。森のタマ、川のタマ・・・・これが「東北」の心であり、徳一は、山においてこれを実感、「いわき」や会津や筑波でこれを実感したのではなかろうか。私は、こういう「東北」の心を、「野生の思考」を、徳一は空海に伝えたのではなかろかと考えている。空海ほどの人である。一を聞いて・・・ピイーンときたのではなかろうか。
徳一の新しい信仰、それは生の肯定、生の謳歌である。
以上のように、問題を解く鍵は「野生の思考」だ。何故八幡大菩薩が関東武士団の心を掴んだか。それは・・・・東国には、当時はまだ「野生の思考」が残っていたからである。かくして関東武士団によって八幡神は全国に広がっていく。ところで、この・・・・全国的にもっとも数の多い八幡神社は、先に述べたように本来は秦(はた)氏の氏神であった神が昇格したものである。そのほか、実は・・・、秦(はた)氏がお祭りした神が全国に普及したものに稲荷神社がある。稲荷神社は、もともとわが国の古代信仰として信仰されていた「田の神」が昇格したものである。それをそうなさしめたのは秦(はた)氏である。京都の稲荷神社は、今でこそ全国の稲荷神社の総元締になっているが、もとは秦(はた)氏の創建になる。けだし、秦(はた)氏という氏族はものすごい氏族である。
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