https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0936105100/0936105100100020/ht000230 【1 誕生と生い立ち】より
円仁は都が平安京に定められた794(延暦13)年,下野国都賀郡(しもつけのくにつがのこおり)に壬生氏の子として生まれました。
平安時代に書かれた慈覚大師の伝記によると,円仁が生まれたとき,その家の上に良いことの印である紫色の雲がたなびいたといいます。
壬生寺に残る「産湯の井戸」
円仁が生まれた所は都賀郡というだけで,はっきりした場所は分かりませんが,壬生町の紫雲山壬生寺(しうんざんみぶじ)が誕生の地であるという言い伝えがあります。
江戸時代初期の記録によると,現在の壬生寺周辺は「お里」と呼ばれており,円仁の生まれた所と言い伝えられてきました。壬生町には,国・県指定の古墳も数多くあり,国府跡・国分寺・国分尼寺跡も近く,円仁が生まれた当時も文化的に恵まれ,開かれた地域であったと想像できます。現在,壬生寺には円仁が生まれた時に産湯として使ったという「産湯の井戸」が残っています。
円仁は生まれつきおだやかで,頭のよい少年だったといわれています。幼いころから兄についてお経の本などを学び,9歳になったとき,大慈寺(だいじじ)(栃木市岩舟町小野寺)の高僧広智(こうち)のもとで,仏教を学び始めました。
大慈寺・大師堂
広智は鑑真和上の弟子である下野薬師寺の道忠(どうちゅう)の弟子でした。円仁はお経の本が納めてある蔵に入り,たくさんの本を読みあさったといいます。少年時代の円仁は,大慈寺だけでなく,広智と道忠との関係から,下野薬師寺でも多くのことを学んだのではないかと想像できます。
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0936105100/0936105100100020/ht000240 【2 比叡山や唐での修業】 より
15歳のとき,円仁は広智(こうち)の勧めで比叡山にのぼり最澄の教えを受けることになりました。円仁は広智の期待通り修行に励み,最澄の教えをよく身につけました。21歳の時に正式な僧になり,30歳になってからの6年間は,山にこもって厳しい修行を続けました。
その後は,最澄の教えを広めるために山を下り,法隆寺や四天王寺で僧侶に仏教の講義をしました。また,病気が流行し多くの死者がでた東北地方をまわって,人々を助けたという言い伝えもあります。
しかし,40歳の時,長年の修行の疲れのためか円仁は病に倒れました。視力もおとろえ死も覚悟したようですが,修行として教典を写すなどしていると奇跡的に回復しました。42歳の時,遣唐使とともに短期の留学僧(るがくそう)(請益僧(しょうやくそう)という)として唐に渡りました。
日本は630年から9世紀半ばまでの間に,10数回にわたって唐の都長安へ使節を送りました。これを遣唐使といいます。
遣唐使の一行は,大勢の留学生や留学僧をともなっていたため,数百人の規模になりました。ふつう4隻の船が使われることから,「よつのふね」とよばれ,難波(大阪府)を出発して瀬戸内海を通り,大津浦(博多,福岡市)から大陸に向けて出発しました。当時は造船や航海の技術が未熟なために,難破したり漂流したりして,4隻無事に往復できることはまれでした。
しかし,人々は危険な航海を乗り越え,政治のしくみや仏教などの,大陸の進んだ文化を伝え大きな成果をあげました。円仁は最後の遣唐使の一行に,留学僧の一人として加わり,唐に渡ったのです。
留学僧として唐に渡った円仁
海をわたる「よつのふね」
円仁の乗った船も2回は逆風で日本にもどされ,3回目には船が大きくこわれたものの,唐の揚州に着くことができました。神仏に祈り,まさに命がけの航海でした。838(承和5)年7月2日,日本を出発してから約1か月ほど後のことです。
円仁の唐への道すじ
円仁の目的は,最澄が唐でわずかしか学ぶことができなかった天台密教という学問を学ぶことでした。そのため,天台山※で学ぶことを希望していましたが,許可されませんでした。
そこで,円仁は839(承和6)年,帰国する遣唐使一行に唐で求めたお経の本や資料を日本に届けてもらえるよう頼み,自分はひそかに唐に残りました。これは現代風にいえば不法滞在ですから,見つかればどんなふうに罰せられるか分かりません。円仁の仏教を学ぶことへの強い決意がうかがえます。
唐に残った円仁は,天台山よりも近い五台山※にすぐれた僧がおり天台の教えに通じていると聞き,五台山行きの公験(パスポート)を申請しました。
やっとのことで公験を手に入れた円仁は,五台山で志遠和上(しおんわじょう)をはじめ,多くの人の教えに接することができました。
※ 天台山・五台山… 中国天台宗の聖地
コラム 円仁と「巡礼行記」
円仁は仏教関係の本はもちろんのこと,数多くの本を書きましたが,一般に最も知られているのは,アジアの三大旅行記の一つとされている「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」でしょう。これは,平安時代版の旅の記録であると同時に,歴史書でもあります。遣唐使がどのようにして海を渡ったか,泊めてもらった宿の様子,食べ物の値段,船や馬の交通費,名所や旧跡の様子,お祭りなどの行事,人々の暮らしの様子,風景などが細かく記録されています。それらに加え,「会昌(かいしょう)の廃仏」という歴史的大事件についても冷静かつ正確に記録されています。これらのことから,当時の唐の様子を知る上でも,一級の資料とされています。
ひそかに唐に残り,役人にとらえられた円仁は,「病気で」などと言い訳をします。また,親切な人ばかりではなく,泊めてくれるように頼んでも追い返されたり,途中で強盗におそわれたりもします。旅の終わり近くには,苦労をともにした弟子を病気で失くしてしまいます。このほかにも,「巡礼行記」の中には,ただ立派な人というだけでなく,たくさんの苦労に出会いながらも,温かい人間味にあふれた円仁を感じることのできるところが,たくさんあります。「入唐求法巡礼行記」の現代語訳を文庫本で簡単に手に入れることができます。ぜひ,読んでみてください。
また,ここで37巻のお経を写しました。コピーなどない時代で,筆で一文字一文字写していくのですから大変な作業です。これらのお経の本は,帰国の時日本に持ち帰られています。そのほか,民謡や浄瑠璃のもととなった仏教音楽の声明も持ちかえりました。
五台山を去った円仁は長安に向かいました。約1か月半の旅のあと長安に着いた円仁は,ここでも多くの立派なお坊さんの教えを受け,たくさんのお経の本や曼陀羅を写しました。また,仏像や名僧の伝記・仏の世界を図式化して仏像を配置するための壇の様式から道具類まで,たくさんの仏教に関係するものを集めました。インド僧から古代インドの言葉「悉曇(しったん)」も学びました。
円仁が長安で学んでいたころ「会昌の廃仏」という,武宗(ぶそう)皇帝による仏教弾圧が始まりました。845年には円仁たち留学僧にも僧をやめて,国に帰るように命令が下りました。
五台山や長安で手に入れた本や貴重な物も,取り上げられる危険が出てきました。しかし,円仁の仕事に理解をもつ,周りの人の友情に守られ,円仁は普通の人の服装を身につけ,貴重な本や仏教の道具などを持ち,日本に向かうことができました。
円仁が日本に帰ったのは,847(承和14)年9月のことでした。請益僧として唐にわたって約10年,長く苦しい,しかし,実りの多い10年間でした。
コラム 声明と曼陀羅
慈覚大師は多くのものを唐から持ち帰っていますが,声明と曼陀羅について説明してみましょう。
声明は,仏教儀式のときに,経典の一部を一定のふしをつけてうたうものです。声楽を中心に行うので,声明といいます。声明は,中世以降,平曲(へいきょく),謡曲(ようきょく・能),浄瑠璃(じょうるり)へと発展しました。
曼陀羅は仏様の世界を特別な書き方で理論的に図に示したものです。曼陀羅 man-daraも,サンスクリット語です。密教特有のものです。密教の中心大日如来を中心に,たくさんの仏様が位や役割により配置されています。
・バイリンガル円仁
みなさんもお寺やお墓で左図のような不思議な文字を見たことがありませんか。これが古代インド語(悉曇)=サンスクリット語です。円仁により広く日本に紹介されました。そして,円仁の研究家によると,円仁は悉曇語の読み方を19世紀以前に理解していたただ一人の日本人だそうです。
また初めの頃は,文字を書いて会話をしていた円仁も中国語が話せるようになったと思われます。円仁は,現代風にいうと立派なバイリンガル(二つの言葉を自由に使うことのできる人)なのです。
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0936105100/0936105100100020/ht000270 【3 天台座主】より
円仁が比叡山に帰ったのは,帰国した翌年848(承和15)年3月26日のことでした。比叡山の人々は,大喜びで円仁を迎えました。二代目の座主(ざす)がなくなっても,円仁の帰りを待ち誰も座主にならなかったのです。854(仁寿2)年,円仁は天皇の命令で天台座主となりました。
円仁は,唐から持ち帰ったお経の本,天台宗のきまりをはじめ学んできたことを多くの本に著し,世の中に広めました。
最澄が開いた天台宗は,長い間日本の政治や文化・宗教に大きな影響を与えていきましたが,その基礎を固め,大きく発展させていくのに果たした円仁の働きはとても大きなものでした。
864(貞観6)年1月14日,円仁は亡くなりました。71歳でした。866(貞観8)年7月14日,天皇は円仁の働きの大きさを認め「慈覚大師」という称号を贈りました。日本で最初の「大師」という称号です。大師とは天皇の師となり,国の繁栄に役立つすばらしい力のある僧のことです。この時,最澄にも「伝教大師」と称号が贈られています。
現在では,「お大師様」といえば空海の「弘法大師」が有名ですが,空海がその称号を贈られたのは,円仁の55年後のことです。このことからも当時,円仁の業績や人柄が朝廷からも高く評価されていたことがわかります。
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0936105100/0936105100100020/ht000280 【4 東北地方と円仁】より
関東・東北地方には,慈覚大師によって開かれたり,再興されたと伝えられるお寺がたくさんあります。東北地方では93寺,関東地方で209寺あるという研究もあります。
芭蕉の「閑さや岩にしみ入蝉の声」で有名な山寺(立石寺),松島の瑞巌寺,金色堂で有名な中尊寺,恐山の地蔵堂などもそうです。
それが事実かどうかは,有力な手がかりが得られないため,はっきりとはしていません。
慈覚大師の業績や人柄に対する人々の深い尊敬と憧れの気持ちの現れ,とみるのがよいのかも知れません。
いずれにしても,日本の天台宗の基礎を固めたというだけでなく,「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」によって世界史の上にも大きな足跡を残した慈覚大師が郷土の出身であるということは,私たちにとっても大きなほこりといえるでしょう。次のページに慈覚大師にゆかりのあるおもなお寺を集めてみました。もちろんこれだけではありませんので時間があったら調べてみましょう。また,旅行に行ったときなど,ちょっと慈覚大師のことを思い出してみて下さい。
立石寺(山形県) 山寺ともいわれる立石寺は慈覚大師円仁が最初に開いたと言い伝えられています。また,円仁の頭部を形どったといわれる木造の頭部の彫刻が伝わっています。
<慈覚大師にゆかりのお寺MAP>
お大師様が開いたという言い伝えがあり、ゆかりのあるお寺で有名なものを集めてみました。
① 比叡山
② 浅草寺(東京都台東区)
③ 大慈寺(だいじじ)(栃木県栃木市岩舟町)
大師修行の寺
④ 壬生寺(みぶじ)(栃木県壬生町)
大師が生まれた時に使ったという「産湯の井戸」が残る。
⑤ 圓宗寺(えんじゅうじ)(栃木県壬生町)
大師が唐から持ち帰ったという法華曼荼羅が残る。
⑥ 輪王寺(栃木県日光市)
大師により寺が整備された。三仏堂の阿弥陀仏,千手観音,馬頭観音(ばとうかんのん)は大師の作。
⑦ 瑞巌寺(宮城県松島)
⑧ 立石寺<山寺>(山形県山形市)
大師がこの地の風景を好み弟子の心能,実玄の両名を留めて道場としたのがおこり。
大師のお墓と伝えられるがんくつがある。
また大師は壬生から麻の種をこの地に移したという。
そのために、干布村の地名がある。
⑨ 毛越寺(岩手県平泉町)
この方角は、都にとってよくないので,大師が薬師如来の像をつくり,国家を守るために安置した。
⑩ 中尊寺(岩手県平泉町)
大師の草創,利生院には,大師をたたえる歌が残っている。
⑪ 恐山の地蔵堂(青森県下北郡名部町)
大師の開山。大師山の地蔵尊を安置している。
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