https://www.sankei.com/life/news/140620/lif1406200016-n1.html 【みちのくの「稲魂」 一粒の米の中には七人の神様がいる】 より
現在確認できる最古の稲作は約8000年前、中国の長江流域に遡(さかのぼ)るという。では稲作の起源がこの地方に帰するかというと、そう単純ではなく、まだ遺跡の発掘が進んでいないインド北東部のアッサム地方はその候補の一つとされる。
その稲作がいつ、だれによって、どんなルートで日本にもたらされたかについても、いくつかの有力な説がある。ただ、一つ言えることは、日本人にとって稲作、そしてその結果として得られる米は、稲魂(稲の穀霊)という言葉に代表される、高い精神性をもっていたことだ。
『日本書紀』の神代巻によると、天照大神(あまてらすおおみかみ)は粟(あわ)・稗(ひえ)・麦・豆を畑作の穀物、米を水田作の穀物とし、天上に水田をつくらせた。このため、米は専ら神様の食物だったが、後に天孫によって伝えられ、地上でも栽培されるようになった。
「古代米」として、また健康食として注目されている赤米や紫黒米(有色素米)。『赤米の博物誌』(大学教育出版)によると、江戸時代、インディカ型長粒種の赤米は「大唐米(たいとうまい)」と呼ばれ、下級米として食されたほか、餅や麺、菓子類、漢方薬の材料となった。一方、「大唐米とは反対に、ジャポニカ型の赤米の一部が神聖視され、神社の神田などで連綿と栽培されてきた」。
こうした歴史と「神性」をともすれば忘れがちな現代人に伝えるのが国民的スポーツ漫画『ドカベン』である。作者の水島新司氏が米どころ・新潟の出身ゆえであろう、その第1巻で、主人公の山田太郎は訴える。
「ぼくのおじいさんが言ってんのさ。一粒の米の中には七人の神様がいるって。だから一粒でものこしたらバチがあたる」
https://www.sankei.com/life/news/140620/lif1406200024-n1.html 【みちのくの「稲魂」 「農」支えた国土守る誇り 過酷な戦いと進化の連続】より
田植えが終わってまもない晩春から初夏の水田の夕景は、稲穂の波が光り輝く収穫のころと同様、自然と人が織りなす絶勝である。が、美しいだけではない。「米粒は一つの小宇宙。その精が人間である」と江戸中期の東北が生んだ土の思想家、安藤昌益(しょうえき)は説き、日本民俗学の父、柳田国男は「稲はすなわち神様だった」と述べた。みちのくは厳しい環境にあっても、日本を象徴する稲作と米を太古から守り、また進化させ続けてきた。ここには、「稲魂(いなだま)」がおわします。(関厚夫)
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「文化」を意味する英語のculture(カルチャー)の語源は「耕作」である。
つまり、農耕は人類に文化、ひいては文明を導くものであった。東大名誉教授だった桜井由躬雄(ゆみお)さんは約20年前、ある公開講座で「米作は日本の誇る文化である」としたうえでこう語っている。
「日本の農業はお百姓さんの文化ボランティアでもっているようなものだと思っている。(中略)私は、今の3倍とか5倍とかの価格を払ってもいいから、おいしい、安心できるコメをお百姓さんに作ってもらいたいと思っている」
その稲作や米という文化を守ることができるのか。環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)交渉は山場を迎えつつある。
岩手県北上市で、のべ800ヘクタールの田畑を耕作する西部開発農産の照井耕一会長(69)の持論もまた「米は日本の文化の象徴」である。その照井さんは、TPPには「基本的には反対」としながらも、こう続ける。
「でも、各種の世論調査では『賛成』が『反対』を上回ったり、『賛成』が半数を超えたりしている。もはやTPP交渉の妥結は避けて通れないのではないか。ならばどう手を打つか-を考えるべきだ。鉢巻きして旗振って反対を唱えるばかりが能ではないよ」
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西部開発農産では、約3年前から着手しているベトナムでの米作りを本格化させる。今の計画では25ヘクタールの耕作地を確保し、日本の近代的な農業を導入する一方、現地と日本の両方でベトナム人農家の育成も行う。栽培する品種は主に、高温に強いコシヒカリだ。
「ベトナムでできた米は日本に持ち込まず、シンガポールやタイ、中国に売る。海外進出-これがTPP対策の一つの柱となる」
もう一つ、ある。
農地集積を推進し、現在、海外産に比べて原価でほぼ倍となる米の値段を2~3割高に抑えることだ。
「この価格差ならば、外食産業は別として、日本の消費者は国内産の米を買いますよ。いまより安くていい米をいち早く作ってアピールし、消費者を取り込む。これがTPPが始まる前の仕事。またそれこそが『TPP後もいかに日本の米を守ってゆくか』という問いの答えにもなるはずだ」
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毎年、趣向を凝らした図柄の田んぼアートで観光客の目を楽しませてくれる青森県田舎館(いなかだて)村。今月中旬でもなお冠雪を残す岩木山と奥羽本線を走る列車をバックに田園が広がる風景は、一幅の絵画である。
青森県は冷涼な気候ゆえに平安~昭和初期に至るまで「水稲10アール当たり収量(単収)は、全国の最下位群に属していた」(『昭和農業技術発達史』)。だが、戦後まもなく、品種や土地の改良を重ねることによって収量は飛躍的に改善され、田舎館村を中心とする津軽平野は、いまや全国有数を誇る県の単収を支えている。
昭和50年代後半、その田舎館村の垂柳(たれやなぎ)遺跡の発掘調査で弥生時代中期の水田跡が確認されたとき、日本の考古学界に衝撃が走った。
東北の稲作開始は本州では最も遅れており、弥生期の稲作については疑問視されていたからだ。そしてまもなく、田舎館村に隣接する弘前市北部の砂沢(すなざわ)遺跡で、東日本最古となる弥生時代前期の水田跡が発見されるにいたる。
一帯は当時から米どころだった。人びとは、本来、高温多湿が求められる農耕である稲作を維持するために過酷な気候と闘い続け、勝利を収めてきたのだ。
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その田舎館村から南へ約350キロ。福島県田村市の都路地区でもいま、水田が広がっている。
風で水面にさざ波が立つ様子を眺めながら歩いていると、ウグイスの声が聞こえてきた。ここでは6月に入っても、その美声を聞かせてくれるのだという。
都路大橋近くのあぜで出会った菊地秀夫さん(80)に不躾(ぶしつけ)を承知で「われわれにとって米とは?」と尋ねてみた。「日本人のいのち、でしょうか」という答えが返ってきた。
東日本大震災後、都路地区では一時、全域に避難指示が出ていた。専業農家の吉田修一さん(59)が耕作を再開したのは2年前。今年4月には、目と鼻の先にある旧警戒区域の避難指示が解除され、そこでも水田耕作が始まっている。
吉田さんは一時、風評被害のために「だれも食べてくれない。もうやめっか」とも思ったという。が、「今は違う」と断言する。
「農業はお金もうけではできない仕事です。つらいことも多い。しかし、われわれには自然環境を守り、日本人の生命を維持することによって国土を守る一翼を担っているという誇りがあります。その気持ちは、震災を経て一層強くなったと感じています」
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