中尊寺

https://japan-web-magazine.com/japanese/japan-iwate-hiraizumi-chuson-ji-temple1-japanese.html   【中尊寺】 より

奥州平泉「奥州藤原氏の栄華を伝える地」

国道4号線は、東京都中央区の日本橋を起点に青森県青森市までを結ぶ日本一長い国道だ。今日では東北自動車道や東北新幹線などともほぼ並走し、埼玉県春日部市、茨城県古河市、栃木県小山市、宇都宮市、那須塩原市、福島県白河市、郡山市、福島市、宮城県白石市、仙台市、岩手県一関市、奥州市、北上市、花巻市、盛岡市、青森県三戸郡三戸町、十和田市、七戸町、青森市と、関東~東北の各都市を結ぶいわば東北地方の大動脈。列車や車のなかった明治以前には、日光街道、奥州街道(陸羽街道)、仙台道、松前道として、お江戸日本橋から宇都宮、白河を経て陸奥、そして海を隔てた松前までを結び、東北各藩と江戸の人馬物流の要として、往来のあった重要な街道であった。

その国道4号線を仙台から北上する事およそ100キロほど、豊かな田園地帯が広がり、名刹・古刹が点在するエリアが奥州平泉だ。今では美しい自然と田畑の続く日本的情緒溢れる比較的長閑な場所だが、この地はかつて、東北地方にきらびやかな文化の足跡を残し歴史にその名の刻まれる奥州藤原氏の一大拠点となったところだ。奥州藤原氏は、武士が台頭してきた平安末期、奥州17万騎とも謳われた強大な武力と、豊富に産出した金などの交易で固められた財力、優れた政治力で100年ほどに渡り、奥六郡と呼ばれた奥州一帯を支配した。

中尊寺

毛越寺 一山 白王院覚城坊 所蔵「藤原氏三代画像」

上から時計回りに藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡。

そして、その奥州藤原氏の栄華を今に伝えるのが、この平泉にある中尊寺だ。同じく奥州文化を色濃く伝える毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山と共に「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として、2011年6月、日本では12番目となる世界文化遺産に登録された。

奥州の名刹「中尊寺」

中尊寺は850年(嘉祥3年)、「山寺」立石寺や毛越寺と同じく慈覚大師円仁によって開山されたと伝えられる奥州平泉の名刹だ。その後、奥州藤原氏の初代・藤原清衡によって中興されている。1105年(長治2年)のことだ。清衡は、源頼義の介入した戦い「前九年の役」で父を失い(清衡7歳の時)、続く内紛の「後三年の役」で妻子を失い(同32歳の時)世の無常を身にしみて感じていたのだろう。世の中の平安を願い、戦で失われた命(敵味方はおろか昆虫草木の別なく)を弔うために七堂伽藍を整備、建立していった。

有名な金色堂もその一つ。当時の奥州地方の金の産出量の多さを物語るこの金色堂は内外部総金箔貼りという豪華絢爛なお堂で、マルコポーロが伝え聞いた金の国「ジパング」の話はこの金色堂のことだとも言われている。マルコポーロが「元」に仕えていた13世紀頃、奥州地方の豪族安東氏は十三湖畔にあった十三湊経由で独自に中国と交易を行っていたといい、そこからこの「金色堂」の話が伝わったといわれている。   

二代目基衡、三代目秀衡によってさらに整備が進められた境内は、往時には「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」(吾妻鏡)という規模であったという。源頼朝に滅ぼされるまでのおよそ100年間、優雅な平安王朝を奥州に華開かせた藤原氏の勢力と信心深さを窺い知ることが出来よう。現在も創建当時のまま残る金色堂をはじめ、数々の伽藍堂塔は、平和な世界を願った清衡の思いを今に伝えるものとして、また奥州藤原氏を滅ぼした後に鎌倉幕府を作り上げた源氏もその後三代で滅んでしまうという栄枯盛衰、盛者必衰の理を示す歴史の巻物の一場面を伝えるものとして、東北の地に佇み今日も歴史の移り変わりを見ているのだ。

藤原氏の栄華が偲ばれる金色堂と、それとは対照的な質素な数々のお堂の対比は、美しい中にも儚さをはらんでいる桜の花のように、見るものの心に感動と一抹の物悲しさを与える。桜の花は散るからこそ美しい。散ってしまうことは悲しくとも、それもまたこの世の常なのだろう。800年前の奥州の武将が見ていた夢は、形を変えて私達に何かを教えてくれる。世は儚くとも、中尊寺は今日も平泉に華麗に咲き続け、訪れる者の心に、その者の人生のひと時に、何かを残していくのである。

中尊寺の見所

「中尊寺」とは一つの建物を指す名称ではなく、「中尊寺」本坊内本堂の他、17の塔頭及び小院(大徳院、地蔵院、瑠璃光院、願成就院、金剛院、積善院、薬樹王院、真珠院、法泉院、大長寿院、金色院、釈尊院、観音院、常住院、利生院、円教院、円乗院)と諸堂からなる山全体を指す総称。天台宗の東北大本山でもある。山内には金色堂を始め、不動堂、旧覆堂など由緒と趣のある諸堂が点在する。

月見坂

中尊寺の表参道、月見坂。坂下の駐車場から左に回りこむようにして、関山中尊寺と書かれた石碑を過ぎるとすぐ始まる坂道。樹齢300年~400年と言われる立派な佇まいの杉の木立が続く森厳な雰囲気に包まれる参道。

東物見台

月見坂を進むと間もなく右手に木立が途切れ、景観の良い場所がある。東物見台だ。木々越しに北上川、藤原氏の遠縁に当たり、秀衡の頃に平泉を訪れたという西行が歌に詠んだ束稲山などを望むことが出来る。

中尊寺表門 中尊寺山門

一関藩主「伊達兵部宗勝」の居城であった一関城から1659年(万治2年)に移築された、中尊寺の山門になる表門。通常の寺院の門の造りとは異なる、前面のひさしが深く、脇門のある薬医門であることからも、その出自を窺い知る事が出来る。

中尊寺本堂

1909年(明治42年)の再建。ご本尊は阿弥陀如来。ご本尊の両脇には、天台宗総本山比叡山延暦寺から分けられた「不滅の法燈」といわれる、最澄が灯して以来消えたことのないと伝わる法燈があり今も護られている。

金色堂旧覆堂

覆堂とは鞘堂とも呼ばれ、内部の仏像やお堂などを守る為にそれを覆うようにして造られた建築物。例えば奈良の東大寺の大仏殿も大仏を守る覆堂だ。この金色堂旧覆堂は、室町時代中頃より500年以上に渡って金色堂を風雨から守ってきた。建立当初、金色堂には覆いがなく、直接風雨に晒されていたが、痛みが激しかったため、やがて覆堂が建築された。松尾芭蕉が1689年にここ中尊寺を訪れた際、金色堂を覆っていたのは、この旧覆堂。光堂とも呼ばれていた金色堂は、一説には芭蕉が訪れた際には開帳されていなかった為、金色堂内部を芭蕉は実際に目にはしていないともいわれているが、さりとて、この覆堂は目にした事だろう。

「五月雨の 降り残してや 光堂」。

芭蕉が平泉を訪れたのは旧暦の5月13日(現在の暦で6月29日)だ。

三代の栄耀一睡の中にして 大門の跡は一里こなたにあり

 秀衡が跡は田野に成りて 金鶏山のみ形を残す

 先ず高館にのぼれば 北上川南部より流るゝ大河なり

 衣川は和泉が城をめぐりて 高館の下にて大河に落入る

 泰衡等が旧跡は 衣が関を隔てて

 南部口をさし堅め 夷をふせぐと見えたり

 偖(さて)も義臣すぐつて此の城にこもり 功名一時の叢となる

 「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」と

 笠打敷きて 時のうつるまで泪を落し侍りぬ

「夏草や 兵どもが 夢の跡」

兼て耳驚かしたる二堂開帳す

 経堂は三将の像をのこし

 光堂は三代の棺を納め 三尊の仏を安置す

 七宝散りうせて 珠の扉風に破れ

 金の柱霜雪に朽ちて 既に頽廃空虚の叢となるべきを

 四面新に囲みて 甍を覆ひて雨風を凌ぐ

 暫時千歳の記念とはなれり

「五月雨の 降りのこしてや 光堂」 

(奥の細道)

千変万化、生々流転。天地万物は遍く移ろいゆく。

中尊寺金色堂

1124年(天治元年)建立。中尊寺の他の諸堂が焼失した中、建立当時の姿を今に伝える中尊寺創建当初の唯一の遺構。阿弥陀堂。中尊寺を代表する建築物にして、奥州藤原氏の描いた平泉「浄土思想」の中心的建造物だ。豪華絢爛たる金箔張りで、柱や壁面に施された金・銀・蒔絵、螺鈿細工等、平安末期の工芸技術の粋を集めて造られている。三間(一間は約1.8m)四方の堂内部には、本尊阿弥陀如来坐像を中心に、ハスの花を持った観音菩薩立像、勢至菩薩立像、左右に三対ずつ地蔵菩薩立像、そして持国天、増長天と配されている。さらに中央の須弥壇に初代清衡、左右に基衡、秀衡と奥州藤原氏最期の主、泰衡の首級が安置されている。

旧覆堂にかわり、1962年の金色堂修復の際に新たに建築されたのが、現在の金色堂覆堂。24時間温度と湿度を管理して、金色堂と安置された諸仏を守る。                      

経堂

鎌倉時代末期の建築。国宝で通称「中尊寺経」と呼ばれる一切経の、1行おきに金字と銀字で書写した経「紺紙金銀交写経」と、金字で書かれた「紺紙金字経」が納められている。

中尊寺弁慶堂

16歳から22歳まで、奥州藤原氏の元で過ごした源義経が兄頼朝の挙兵に呼応して鎌倉に馳せ参じたのが1180年(治承4年)のこと。しかし、断りもなく官位を受けた事で兄の怒りを買った義経は、吉野に身を隠した後、伊勢、美濃を経由し、最終的に奥州藤原秀衡を頼り、平泉まで逃げてくる。1187年(文治3年)2月のことだ。しかし、秀衡が10月に病没、後を継いだ泰衡は結局頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)4月、衣川館にいた義経を急襲、義経は妻子共に命を落とす。時に義経31歳であった。本能寺の変と並ぶこの歴史的にも有名な最期の場面でも義経の供をしていたのが、五条大橋の出会い以来常に義経の傍で使えた武蔵坊弁慶。歌舞伎の勧進帳の平泉に逃げる際に安宅の関で関守に疑われ、とっさに主人である義経を棒で打つ場面などは歌舞伎好きなら誰もが知る名場面。その弁慶も、義経と共に衣川で最期を迎えた。体に矢を幾本も受けながらも最後の最後まで主人を守ろうとした弁慶の立ち往生として有名だ。その弁慶の名が冠せられた弁慶堂。1826年(文政9年)の再建。火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り、傍らに義経と弁慶の木像が安置されている。

                  

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