奥の細道 (松島・元禄2年5月9日・10日)

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno18.htm 【奥の細道(松島・元禄2年5月9日・10日)】 より

 抑ことふりにたれど*、松島は扶桑第一の好風にして*、凡洞庭・西湖を恥ず*。東南より海を入て、江の中三里、 浙江の潮をたゝふ*。島々の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐*。あるは二重にかさなり 、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし*。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲 をのづからためたるがごとし。其気色窅 然*として、美人の顔*を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみ*のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。

 雄島が磯*は地つヾきて海に出たる島也。雲居禅師*の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人 も稀々見え侍りて*、落穂*・松笠など打けふりたる草の菴閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅 寐するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ 。

松島や鶴に身をかれほとゝぎす   曾良*(まつしまや つるにみをかれ ほととぎす)

予は口をとぢて*眠らんとしていねられず*。旧庵をわかるゝ時、素堂*、松島の詩あり。原安適*、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解て、こよひの友とす。且、杉風・濁子*が発句あり。

 十一日、瑞岩寺*に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎*出家して入唐*、帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化*に依て、七堂甍*改りて、金壁荘厳光を輝*、 仏土成就の大伽藍*とはなれりける。彼見仏聖*の寺はいづくにやとしたはる。

 5月9日。快晴。朝、塩釜から船に乗って、昼に松島海岸に到着した。まず瑞巌寺に詣で、じっくりとこの寺を拝観した。雄島に渡り雲居上人の修業跡を見てから八幡神社・五大堂を見物した。ここも仙台の加衛門の紹介による宿「久之助」宅に投宿した。

松島雄島の入り口 (写真提供:牛久市森田武さん)

抑ことふりにたれど、:<そもそも・・>。「さてさて、古くから言われていることなので今更言うまでもないが」。

扶桑第一の好風にして:扶桑<ふそう>は日本のこと。古代中国では日本は桑の木が多い国として言い伝えられていたために生じた名前。松島は日本一に景色のよいところだ、の意。

凡洞庭・西湖を恥ず: <およそどうてい・せいこをはじず>と読む。あの中国の洞庭湖・西湖に勝るとも劣らない、の意。洞庭湖は唐の湖南省に、西湖は浙江省にあった。

浙江の潮をたたふ:<せっこうのうしおを・・>と読む。浙江は中国浙江省の銭塘江を指す。海水が逆流することで奇観が生ずるといわれている。

欹つものは天を指、ふすものは波に匍匐:<そばだつものはてんをゆびさし、ふすものはなみにはらばう>と読む 。

児孫愛すがごとし:<じそんあいすが・・>と読む。杜甫の詩「諸峰羅立シテ似二タリ児孫一」から取った表現。松の屈曲の姿が児孫を愛撫しているように見えるというのである。

窅 然:<ようぜん>と読む。憂愁の色を深くたたえたさま。(広辞苑)

美人の顔:<びじんのかんばせ>と読む。

ちはやぶる、大山づみ:「ちはやぶる」は、神にかかる枕詞=常套表現。「大山祇」<おおやまづみ>と読み、山をつかさどる神。

雄島が磯:<おじまがいそ>と読む。松島 瑞巌寺の近く、海に突き出した小島。古来真言密教の修業の場であった。

雲居禅師:<うんごぜんじ>と読む。土佐の人。寛永13年、伊達忠宗の代に瑞巌寺中興の祖として招かれた臨済宗妙心寺派の禅僧。瑞巌寺の七堂を整備した。万治2年(1659年)8月8日、78歳で没。

将、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて:<はた、まつのこかげによをいとうひともまれまれみえはべりて>と読む。隠者の庵があって、当時は穴居生活をしていた。

落穂:ここに「落穂」があるとは思えないので、「落葉」のミスプリントではないか??

「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」:『猿蓑 巻のニ』では、「松嶋一見の時、千鳥もかるや鶴の毛衣<けごろも>とよめりければ」としてこの句が掲載されている。松島の海上を鳴きながら渡って行くホトトギスよ、せめてこの男性的な景観に伍していこうというのであれば、せめてお前の姿を鶴に借りて飛んでくれ。

予は口を閉ぢて:芭蕉は句を詠まなかったというのだが、「島々や千々に砕きて夏の海」という句がある。また、存疑の句として「松島や夏を衣裳に月と水」がある。

寝ねられず:<いねられず>と読む。

素堂:山口素堂が与えた「松島の詩」は未詳。素堂についてはWhoswho参照。

原安適:江戸の大衆和歌の第一人者。安適は曾良と 特に親しかったらしい。ここに「松がうらしま」とは松島の別称とも、また七ヶ浜町一帯のこととも。

濁子・杉風:杉風は江戸蕉門の弟子。濁子は大垣藩士中川甚五兵衛。

瑞岩寺:<ずいがんじ=瑞巌寺>天長5年(828年)慈覚大師を開基として創建された天台宗寺院。鎌倉時代に入って法身(心)により臨済宗寺院として再建された。また、伊達正宗によって伊達家菩提寺として庇護を受け、青龍山瑞巌円福禅寺となった。

真壁の平四郎:開山の法身<ほっしん>和尚の俗名。それまでは天台宗の寺院であった瑞巌寺を臨済宗の寺として改宗して再興した。

入唐:<にっとう>と読む。中国の唐に留学すること だが、法身が中国に学んだ時代は宋代なので、厳密に言えば入宋(にっそう)が正しい。

徳化:<とくげ>と読む。宗教的感化、の意。

七堂:七堂とは山門・仏殿・法堂・僧堂・庫裏・浴室・東司を言う。

金壁荘厳光を輝:<こんぺきしょうごんひかりをかがやかし>と読む。寺内の絢爛豪華をいう。

佛土成就の大伽藍:<ぶつどじょうじゅのだいがらん>と読む。西方浄土の仏の国を再現した大寺院の意。

見佛聖:<けんぶつひじり>と読む。平安時代末期、雄島に庵住した乞食(こつじき)僧。芭蕉はこういう類の僧侶に 強いシンパシーを持っていたようだ。

「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」の句碑 (写真提供:牛久市森田武さん)

全文翻訳

そもそも言い古されたことだが、松島は日本第一の風光にして、およそ中国の洞庭湖・西湖にも劣らない。東南の方角から海が入り込んでいて、入り江の長さは十二キロ。そこに浙江の潮を満たす。ありとあらゆる形をした島々をここに集め、そびえ立つものは天に向かって指をさし、臥すものは波にはらばう。あるものは二重に、またあるものは三重に重なって、左に分岐するもの、右に連続するもの。背に負うものがあるかと思えば、膝に抱いた姿のものがある。まるで幼子をいとおしんでいるようだ。松の葉の緑は濃く、枝は海風に吹かれてたわみ、その枝ぶりは人が整枝したようにさえ見える。その幽遠な美は、そのまま美しい女がよそおった姿に同じ。ちはやぶる神代の昔、大山神の一大事業だったのである。この天地創造の天工の業を、人間誰が筆に描き、言葉に尽くせるであろうか。雄島が磯は地続きで海に突き出た島。そこに雲居禅師の禅堂跡があり、座禅石などがある。また、松の木の下には、今も浮世を逃れて隠れ住む人などもまれに見えて、松葉や松笠などを燃やす煙が立ち上って、静かな草庵の佇まいがある。どんな人が住んでいるのだろうと、なつかしいような気持ちで近寄って見ると、月は水面に映り、昼の眺めとはまた違った風景が現出する。入り江に近いところに宿を取り、二階建ての開けた窓から見る眺めは、まさに白雲の中に旅寝するに等しいさまであり、これ以上の絶妙の気分はまたとない。

松島や鶴に身をかれほとゝぎす  曾良

 私は句作を断念して、眠ろうとするが眠られない。江戸の旧庵を出るとき、友人素堂は「松島の詩」をくれた。原安適は「松がうらしま」の和歌を贈ってくれた。これらを袋から取り出して、今夜の友とする。また、門弟の杉風や濁子の発句もあった。

 五月十一日、瑞巌寺に参詣。この寺の三十二世、真壁平四郎は出家して宋に留学し、帰国の後にこの寺を臨済宗寺院として再興した。その後、雲居禅師の教化によって、七堂伽藍も改築され、寺内は荘厳に輝き、文字通り西方浄土を具現した大伽藍となったのである。かの見仏聖の寺は何処にあったのだろうかと偲ばれる。

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