https://s-moriwaki.at.webry.info/200705/article_4.html 【「芭蕉の旅、円空の旅」立松和平~江戸時代日本を歩いた聖達】 より
行動派作家 立松和平さんの作品です。
1600年代後半(江戸時代)日本中を旅した俳聖・松尾芭蕉と作仏聖・円空、この二人の聖人の足跡を追いながら旅の本質を語っています。
旅を通して、人生を極めようとし、俳句でその思いを表現しようとした松尾芭蕉。
芭蕉の周辺には門人や俳諧を愛する人々がおり、「野ざらし紀行」や「奥の細道」など行く先々で歓待を受けている。
同行者もいるので、記録もしっかりしている。
芭蕉の俳句は、十七字という表現枠に、自己の悟りを表現しているし、芭蕉を慕った人もそれに共感したに違いない。
門人に囲まれながら、終焉の地 大坂での辞世の句、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
はまさにその境地である。
対して円空は終生、一人だ。
修行僧である彼は、旅をしながら、行く先々で他者救済を願い、生涯で12万体の円空仏を彫り、自らの生涯をささげた。廻国聖であり、作仏聖である。
この円空仏、数百年たった今でも、その地その地(北海道・東北・関東・中部・近畿など)に残り今でも祈りを集めている。
美濃の山を歩くと、時々円空縁の地に出くわします。
以前、円空に関するレポートをしましたが、この円空仏の不思議の微笑み!(円空連合HPより)
生まれは美濃の国が故、愛知・岐阜に円空仏が多く残されていますが、どれもこれも魅力的です。
円空自身の記録はない、あるのは不可思議な魅力を持った仏像とその地の言い伝えだけだ。
作者は彼らの足跡を巡り、その地の数百年後の景色を眺め、作品を見て、彼らの考えに思いを馳せるのです。
この両聖は、共通点は旅と悟りだ、世俗の為に一日さえも無駄に使うまいと決意して実行している、それが捨身行脚の修行だと道元の言葉を借りながら作者は結んでいます。
難しい話もありますが、芭蕉と円空がもっと好きになる一冊でした。
https://blog.goo.ne.jp/geibunkyou/e/043711dfd59ceccfbb3989d94bb8c9db 【春日部(カスカベ)で、円空と芭蕉が出逢っていたという話】 より
松尾芭蕉と円空が春日部で遭遇していたとしたら、春日部に住みながら,いつも放浪に出たいと思っているワタシにとって、こんな楽しい話はありません。
芭蕉=おくの細道、日光街道、第一夜の宿泊地はカスカベ(粕壁)らしい。円空=春日部にも14体の円空仏があり、小渕観音院で逗留修行していたらしい。二人とも放浪者、ワタシの気になる人です。
この間、孫守りかねて、出かけようと思って<春日部の藤うどんまつり>イベントに期待していたのですが、雨、激しい雨。あいにくです。
しかたなく、孫2人を近くの庄和児童センターに送り込み、<1時間したら来るからね>と約束して、ワタシは、階下の図書館へ。新着棚から一冊取り出し、窓際に席をとって、窓の外で濡れている桜をみていました。
*南桜井駅前に自転車置き場ができて消えていた<しだれ桜>が、ここにありました。合掌。
手にとっていた本は、<円空の旅(早坂暁)>です。まさに暇つぶし、うつらうつらしていました。NHKで円空をテレビドラマにした脚本家・早坂暁もまた、円空の放浪にひかれています。
少し長いですが、書き写します。
<松尾芭蕉が、江戸の安穏な生活を清算して、弟子一人を道連れに、北へ旅立ったのは、何を意味しているんだろう。・・・・・芭蕉が旅に出たのは、元禄2年3月のこと。46歳であった。円空はそのころ故郷の飛騨地方を中心に、念願の12万体の仏像彫りに没頭していたのだ。『月山』という信仰の名作を書かれた森敦さんは、紀行文『われもまた おくのほそ道』の中で、芭蕉と円空は出合っていると確信すると書いておられる。
少し突拍子もないかなと思うが、時代といい。旅の軌跡といい、可能性は十分にある。二人とも類まれな“旅の人”であり、その故郷も、岐阜と伊賀とで、そう離れてはいない。
さて、森さんは、二人が出会ったのは、江戸の近く春日部だと断定してみせているのだ>
「ふたりが出会ったのは、春日部だと断定・・・・・」
ソファに浅くかけ、ぼんやりしていましたが、思わず座り直したのです。*85ページ
実際、円空が春日部に滞在していたのは、いつのことだったのか、はっきりわかっていません。何せ、放浪者です。
春日部教育委員会(郷土資料館)が、開館記念特別展(平成2年7月)「粕壁と円空」の展示図録(トップ写真の左)には、<円空が関東に足を踏み入れたのは1680年代の晩年の頃といわれ、円空仏の分布状況から円空が日光中禅寺住職となった高岳法師から秘法授かるため日光を訪れた際、日光道中、日光御成道を通過していったことを伺がわせています>、<円空という一修験道者が日光を来訪していく際、江戸時代前期の粕壁宿をとおり、また中世以来、関東修験道の中心的役割をはたしていた不動院のあった春日部で造仏活動、布教による庶民救済活動を行って・・・・・>
年譜には<1689年(元禄2)58歳;6月栃木県日光明覚院旧蔵の白衣観音像を造像する>
・・・・といった内容しかありません。
手元にある円空関連本にも、これより詳しい話はありません。というより、円空本に春日部が登場することは、まずありません。
そして5年後、元禄8年(1695)7月15日、64歳で入寂しています。
一方、芭蕉が、おくの細道の旅で、深川を出発したのは、元禄2年3月27日(旧暦)(新暦では1689年5月16日)。その日、第一夜泊を、芭蕉は草加、随行者の曽良はカスカベと、各々の日記に書き残している。・・・・円空と芭蕉、日付的には、近い。出逢っていた可能性はあります。
研究者は、第一夜泊、正しくはカスカベであったろうとしています。芭蕉の日記は、作品として残す目的(?)もあってフィクションが含まれているから、としているのです。
カスカベの宿泊先は、①東陽寺、②小渕山観音院、③芭蕉の門人で庄屋の尾花三省の所、と3か所が伝わっていて、どれも伝承です。②と③は同じことの様です。尾花さんは代々、観音院の住職さん(現在は尾花繁郎さん)です。
今、東陽寺に芭蕉宿泊地の碑がありますが、ワタシは小渕の観音院に一票。小渕の観音院に一泊したとすると、そこに逗留していた円空との接点もあっただろう、・・です。
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