https://intojapanwaraku.com/culture/119802/ 【討ち取った相手の首を洗うと、まさかの命の恩人だった…斎藤実盛の悲劇の最期】 より
死してなお、各地で語り継がれる人物がいる。有名どころでいうと、源義経。平泉で没したのが通説であるが、北へ密かに逃れて、蝦夷地を渡り、大陸にたどり着いてチンギス・ハーンになったという説もある。歴史好きの間では心をくすぐられる話だ。実際に、北海道には義経ゆかりの地がいくつかある。
語り継がれる理由は何だろうか。1つ言えるのは、「圧倒的な魅力」があるから。華々しい武勇伝であり、悲劇でもある。今回ご紹介するのは、斎藤実盛(さいとうさねもり)という人物。時代は遡ること850年前、源平合戦の混乱渦巻く中に、ある1つの逸話が生まれた。それは現代でもなお、語り継がれている。
恩に報いるために。源氏と平氏に仕えた斎藤実盛
斎藤実盛は平安時代末期の武士。生年月日は不明だが、越前長畝(のうね)城付近で生まれたとされている。13歳の時に武蔵国長井庄へ移り、斎藤実直の養子となる。はじめは相模国を本拠地とする源義朝(みなもとのよしとも)に仕え、後にその弟であり上野国に進出してきた源義賢(みなもとのよしたか)に奉公した。しかし1115(久寿2)年、義朝の子・義平と義賢の両者が武蔵国をめぐって戦いを起こし、義賢は討たれてしまう(大蔵合戦)。再び、源義朝・義平の元に仕えるが、義賢へのご恩は忘れておらず。義賢の子・駒王丸を保護し、信濃国の中原兼遠の元へ届けて命を救った。この駒王丸こそ、のちの木曽義仲となる人物である。
義朝が1159(平治元)年の平治の乱で敗れて謀殺されると、実盛は武蔵国長井庄に帰る。その後、長井庄は平清盛の二男・宗盛の領地となる。これまでの功績が認められた実盛は、別当として再び長井庄の管理を任される。そして、農民の住み良い土地づくりに尽力し、開拓、治水、土地改良などを進めたため、農民からの信頼を得た。1180(治承4)年に義朝の子・頼朝が韮山で挙兵するがそれでも平家方に留まり、頼朝追討に出陣する。そこからは、源平の戦いにおいて死ぬまで平家方に忠誠を尽くすことになる。
源氏から平家へと主君を変え、最後まで戦いつづけた実盛。大蔵合戦ではご恩のある源義賢、韮山での挙兵の後はご恩のあった源義朝の子・頼朝と対峙し、この乱世の辛さを十分に感じたことだろう。この悲劇は、最後の戦いへも尾をひくこととなる。
「源平英雄鏡 齋藤別当実盛」 出典:国立国会図書館
源平合戦・篠原の戦いで討ち死に
1183年、平維盛は源氏の木曽義仲を追討すべく、北陸に向かう。義仲はかつて助けた源義賢の子・駒王丸だが、実盛は主君へ忠誠を尽くすため追討軍に参加。両軍は現在の石川県と富山県の境にある倶利伽羅(くりから)峠付近に布陣する。維盛は数の上で義仲を圧倒していたが、地の利がある義仲は奇襲に出る。退路を断たれた維盛率いる平家軍は倶利伽羅峠の断崖の下へ放り出され、壊滅状態。10万人もの兵の大半を失い、維盛は、命からがら京へと逃げ帰った。
実盛は維盛を逃がすために奮戦。今の石川県加賀市付近を退却中に行われた篠原の戦いで覚悟を決める。この時の様子は、『平家物語』の「実盛の最後」で登場し、後々に語り継がれることになる(以下、尾崎士郎著『現代語訳 平家物語(下)』より、一部抜粋)。
斎藤別当実盛は、その日、赤地の錦の直垂に萌黄縅の鎧を着け、鍬形打った兜の緒を締め、黄金作りの太刀に、切斑の矢、重藤の弓という装立ちで、連銭葦毛の馬に、金覆輪の鞍を置き、人目をひく颯爽たる姿で立ち現れた。木曽の家来、手塚太郎光盛は、実盛に目をとめて呼びかけた。「天晴れな見事なる装い、味方の落ちゆく中を唯一人、残られたは、一体誰方か、名乗らせ給え」。
(尾崎士郎著『現代語訳 平家物語(下)』より)
味方の軍勢が落ち延びていく中で、覚悟を決めた実盛は、源氏の武将・手塚太郎光盛と対峙する。光盛の郎等がまず襲いかかり、実盛はその首をとる。しかし、その瞬間に光盛は左へ回り込み、刀で実盛を二太刀刺し、弱ったところを組んで落とした。そして、郎等に実盛の首を落とさせたのである。
首を洗って恩人・実盛と判明、義仲は泣き崩れる
実盛の首実検の様子。出典:源平栄枯盛衰記(国立国会図書館所蔵)
光盛はその首を持って、義仲の元に赴いた。
おかしな男を討ち取ってございます。唯の侍かと思うと錦の直垂(※)などを着け、大将軍かと思えば後に続く侍もなく、名乗れといっても名乗りたがらず、それに声は坂東声でござったようです。
(尾崎士郎著『現代語訳 平家物語(下)』より)
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