滋籐の唸りを天に北風吹けり

http://blog.livedoor.jp/shirakinouen-ja9kikai/archives/67423011.html 【神話の時代-21 斎藤別当實盛の最期】より

實盛 白髪を染め戦場の花と散る

平維盛は越中倶利伽羅にて木曾義仲に破られ加賀の篠原に退き 人馬を休めたるに義仲長駆し攻め立てたので遂に京に退きあげた。

 この篠原の戦いに只一人敵の大将らしき武者身に萌黄縅の鎧を着け鍬形打ちの兜を脱ぎ金作(こがねづくり)の太刀をはき、滋藤(しげとう)の弓を持って愛馬を休ませている所へ、義仲の軍にさるものありと云われたる手塚太郎光盛瓦名乗りをかけたするとこの武者『子細名乗らざるも敵として不足なしいざ参れ』光盛馬上より斬り込めば、滋籐の弓で発止と受け互いに呼吸をはかりしその時、光盛の家来飛び来たりむんづと後より組み付けば子供を捻る如く難なく首を刎ねた。光盛家来の仇と馬を捨てムンズと組み付き格闘数刻遂に首搔き切った。

  光盛は義仲の前に出て、しかじかの次第を物語り、声は阪東らしく敵大将かと思わしく首実検と差し出せば、義仲思わずアッと叫び斎藤別当実盛なり、光盛不思議に思い実盛は確か70の坂を越した白髪の老人と覚ゆと訝れば義仲答えて、実盛は老境に入り戦に臨めば老人と見られ人に侮りを受けるも口惜しく, 髪を染め身も心も壮者の如く戦場に立ちたるならんとてその勇を賞揚した。19 実盛の奮戦

 以下Webから借用した、

 平家物語巻第七

斉藤別当実盛は、元は源氏でありながら、平治の乱以降は平家に従っていた。

北陸篠原の合戦で実盛は討死覚悟、 白髪を染め錦の直垂を着て戦場に赴く。

合戦も終盤、実盛は一人戦場に残り、義仲軍の追撃を防いでた。

ここで上の場面に移項する

義仲は、「斉藤別当ではないか」と口走ります。

義仲は子供の頃、父が叔父の悪源太義平に 討たれて孤児になった時、実盛に預けられて大変世話になった。

しかし黒髪なのが気になり、実盛と長年親しかった樋口次郎兼光を呼び、樋口次郎は、すぐに斉藤別当実盛とわかり、涙を流す。

実盛はかつて、樋口次郎に語っていました。

六十を過ぎて戦場に向かう時は髪を黒く染めようと思う。若武者たちと争うのも大人げないことだし、老武者といって侮られるのもつまらないことだと。

 また、実盛は昨年富士川の合戦で水鳥の羽音に驚き源氏と一矢もまじえず敗退したことを老後の恥辱と感じていた。

今回の北陸戦線では平家のために討死を覚悟しており、平宗盛の前で 「故郷には錦を着て帰れという故事があります」と言って、錦の着用を許されたいう。


https://japanese.hix05.com/Narrative/heike/heike26.sanemori.html 【実盛:平家物語巻第七】 より

倶利伽羅峠で敗走した平家は、体勢を立て直して、加賀の篠原で再び義仲軍と対戦する。しかし平家は、四万の軍を動員したにかかわらず、一方的に破れ、敗戦後鎧を着けていたものはわずか四・五騎という惨憺たる有様だった。そんな平家軍のなかに只一人、異彩を放った武将がいた。斎藤別当実盛である。実盛は七十歳を超える老人であったにもかかわらず、白髪を染めて、若い者に混じって戦った。その勇猛な戦いぶりを、平家物語は同情を込めて語っている。

~又武蔵国の住人長井斎藤別当実盛、みかたは皆落ちゆけ共、ただ一騎かへしあはせ返しあはせ防戦ふ。存ずるむねありければ、赤地の錦の直垂に、もよぎおどしの鎧きて、くはがたうッたる甲の緒をしめ、金作りの太刀をはき、切斑の矢負ひ、滋藤の弓もッて、連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。木曾殿の方より手塚の太郎光盛、よい敵と目をかけ、「あなやさし、いかなる人にて在せば、み方の御勢は皆落ち候ふに、ただ一騎のこらせ給ひたるこそ優なれ。名乗らせ給へ」と詞をかけければ、「かういふわどのは誰そ」。「信濃国の住人手塚太郎金刺光盛」とこそ名乗つたれ。「さてはたがひによい敵ぞ。但しわどのをさぐるにはあらず、存ずるむねがあれば名のるまじいぞ。よれくまう手塚」とておしならぶる所に、手塚が郎等遅れ馳せにはせ来つて、主をうたせじとなかにへだたり、斎藤別当にむずとくむ。「あッぱれ、己は日本一の剛の者にぐんでうずな、うれ」とて、とッて引きよせ、鞍のまへわにおしつけ、頸かききッて捨ててンげり。手塚太郎、郎等がうたるるをみて、弓手にまはりあひ、鎧の草摺ひきあげて二刀さし、弱る処にくんでおつ。斎藤別当心はたけく思へども、いくさにはしつかれぬ、其上老武者ではあり、手塚が下になりにけり。又手塚が郎等遅れ馳せにいできたるに頸とらせ、木曾殿の御まへに馳せ参つて、「光盛こそ奇異の曲者くんでうッて候へ。侍かとみ候へば錦の直垂をきて候。大将軍かとみ候へばつづく勢も候はず。名のれ名のれとせめ候ひつれ共、遂に名乗り候はず。声は坂東声で候ひつる」と申せば、木曾殿「あッぱれ、是は斎藤別当であるごさんめれ。それならば義仲が上野へこえたりし時、幼目に見しかば、しらがの糟尾なりしぞ。いまは定て白髪にこそなりぬらんに、びんぴげのくろいこそあやしけれ。樋口次郎は馴れあそンで見しッたるらん。樋口めせ」とてめされけり。

~樋口次郎ただ一目みて、「あなむざんや、斎藤別当で候ひけり」。木曾殿「それならば今は七十にもあまり、白髪にこそなりぬらんに、びんぴげのくろいはいかに」との給へば、樋口次郎涙をはらはらと流いて、「さ候へばそのやうを申しあげうど仕り候ふが、あまり哀で不覚の涙のこぼれ候ぞや。弓矢とりはいささかの所でも思ひでの詞をば、かねてつがゐ置くべきで候ひける物かな。斎藤別当、兼光に逢うて、つねは物語に仕候し。「六十にあまッていくさの陣へむかはん時は、びんぴげをくろう染てわかやがうどおもふなり。その故は、わか殿原にあらそひてさきをかけんもおとなげなし、又老武者とて人のあなどらんも口惜しかるべし」と申しひしが、まことに染て候ひけるぞや。洗はせて御らん候へ」と申しければ、「さもあるらん」とて、あらはせて見給へば、白髪にこそ成なりにけれ。

実盛は一介の武将にかかわらず、総大将の印である錦の直垂を着ていた。本来なら許されないことだが、戦場である加賀が実盛の出身地であるということから、故郷に錦を飾るという意味で、特別に許されたのだ、という事情が語られる。

~錦の直垂をきたりける事は、斎藤別当、最後のいとま申しに大臣殿へ参つて申しけるは、実盛が身ひとつの事では候はね共、一年東国へ向ひ候ひし時、水鳥の羽音におどろいて、矢ひとつだにもいずして、駿河の蒲原よりにげのぼッて候ひし事、老後の恥辱ただ此事候。今度北国へ向ひては、討死仕候べし。さらんにとッては、実盛もと越前国の者で候ひしか共、近年御領に付いて武蔵の長井に居住せしめ候ひき。事の喩へ候ぞかし。古郷へは錦をきて帰れといふ事の候。錦の直垂御ゆるし候へ」と申しければ、大臣殿「やさしう申したる物かな」とて、錦の直垂を御免ありけるとぞきこえし。昔の朱買臣は錦の袂を会稽山に翻し、今の斎藤別当は其名を北国の巷にあぐとかや。朽もせぬむなしき名のみ留めおきて、かばねは越路の末の塵となるこそかなしけれ。

 

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