https://ameblo.jp/genba1215/entry-12517872786.html 【鵜飼と俳句 おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな】 より
私が長良川の鵜飼を目にしてから二カ月が過ぎた。まだ夜は肌寒いころであった。今は最も賑わう頃であろう。
その鵜飼についていくつかのことを書いてきたが、まだ一つ書きたいと思っていたことがある。
1300年の歴史ある鵜飼。歌謡曲に歌われ、小説の舞台ともなっている。そして俳句にも詠まれている。その俳句についてである。
鵜飼を読んだ俳句で最も知られているのは、松尾芭蕉が詠んだ句であろう。
芭蕉は1688年(貞享5年・元禄元年)に岐阜を訪れ、長良川の鵜飼を見物している。
「奥の細道」の旅に出たのはその翌年である。
「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟哉」長良川の鵜飼を見て詠んだのがこの句。
この句の句碑が長良川に架かる長良橋のたもと、鵜飼観覧船の乗り場の近くにある。
句碑が作られてから相当年月が経っているのであろうか、刻まれた文字はほとんどわからないくらいである。
さてこの芭蕉の句。「悲しき」とはどういうことだろうと思った。
鵜飼を見て感じたことは、鵜飼が行われている間は、幻想的な光景であり、また賑やかでもある。
しかし、鵜飼が終わると辺りはうって変わりひっそりと夜の闇に包まれ、寂しさすら感じた。
寂しさはあるが、悲しいとは・・・
どうやら芭蕉は、鵜飼で人間が鵜を操り、鮎を生け捕りにする、その光景を観て悲しい思いになったのかもしれない。
この後芭蕉は魚を一切口にしなかったという解説もある。
仏教の戒律である殺生を戒めることもあったからであろうかとも思ったりする。
先日テレビで長良川の鵜飼が紹介されていて、この鵜飼に使われる鵜舟を造る船大工が後継者難で少なくなり危機にあるということであった。これもある意味「悲しい」現実でもあるとその時思った。
さて、鵜飼と俳句についてまだ続きがある。私の父は趣味で俳句を作っていた。
金子兜太が主宰する「海程」の同人であった。いわゆる現代俳句、前衛俳句、社会派といわれる俳句である。生前父とは俳句について語ったことはない。
かつてある雑誌に俳句について書かれたものがあった。
「俳句と私」と題されたその文は、父の俳句遍歴が書かれている。
父も最初は花鳥諷詠、自然や風景を感じたままに詠む俳句からスタートしている。
その後それに疑問を感じ、方向転換する。父曰く「完全に季題趣味と、人間不在から脱けていった。」と。
その頃の心境をある出来事と重ねている。それは、父が冬の鵜飼吟行に出かけた時のこと。
その時の心境をこう述べている。
「私は、かつて俳人十数人に混って、冬の鵜飼吟行に出かけたことがあります。その時、ばったり出会った鵜匠が、同級生でした。持っていた句帳のやり場に困るほど、私の気持ちは複雑でした。きびしい自然の中の、それは無色ともいうべき、漁業生活のひとこまを、マスコミルートに乗じた観光気分だけで眺める俳人たち。私はその中にあって、すっかり考えこんでしまいました。あの後継者なき零細生業の、実態に立ち入っての思い入れこそ、生活の息づかいある俳句、いうなれば社会にスライドする俳句たり得るのではないだろうか。防風林へ消えて行く友の足どりが、その時ひどく印象的でした。」
その時詠んだ一句、「防風林の寒気に透きて鵜匠父子」これが、父のその後の俳句の原点のように思えた。
同じ鵜飼を見ても詠む俳句はいろいろあるものである。
この鵜飼は、島根県益田市の高津川でかつて行われていた鵜飼のことと思われる。
その高津川は、今私の実家がある近くを流れる川。高津川の鵜飼は「放し鵜飼」と言われるもの、長良川の鵜飼などと違い鵜を紐でつないでない。秋から冬にかけて行われていた。
その高津川の鵜飼も最後の鵜匠がいなくなり途絶えてしまった。
純粋に漁としての鵜飼は父がかつて見たとおり厳しい現実となったのである。
全国的にも名が知れ、賑わいを見せる長良川の鵜飼。
一方で、世の流れで、後継者が無く、生業として成り立たなく消えゆく鵜飼。
これもまた現実である。鵜飼にはやはり「悲しい」現実があった。
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