「奥の細道」と夢幻能

http://ncsi1211.jugem.jp/?eid=396 【【伝統芸能】能に学ぶ その4 芭蕉「奥の細道」と夢幻能】より

「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」とは、松尾芭蕉「奥の細道」の有名な序文。

「年月」というものは「永久に止まらずに歩き続ける旅人」と同じだという比喩は、やはり、俳諧の天才ならではの感性か。

「奥の細道」は芭蕉が45歳の時に、弟子の河合曾良と148日間かけ2,400kmを歩いて回った旅の経験をもとに書かれたものといわれる。二人旅と言っても、今と江戸元禄期の交通事情は全く違うことをイメージすれば、当時の旅は体力、気力ともに相当の覚悟をもって出発したに違いない。

人生は旅そのもの。逆説的には、旅は人生。旅から学ぶ人生もある。

恩師の塩見先生は、「人生という旅では、たくさんの出会いも、たくさんの別れも、どれもどれも大切である」と述懐している。

芭蕉は元々下級武士出身。俳諧の道で、最初に仕えた主君にはその才能を認められたものの、その主君が急死して、俳諧に関心がない主君に仕えることになり、武士としての出世は諦め、努力の甲斐があって俳諧の世界で成功する。

40歳を過ぎてもう人生はそう長くは無いと感じた芭蕉は、道のりが厳しい東北の旅こそ自分の俳諧を高める術であると考え、尊敬する西行などの足跡を追った。万が一にも旅の途中で死んでも悔いは無いと考え、家を売り払って深川を出発する。

つまり、俳諧師としての自分自身の人生の仕上げとしての旅たちだったと今に伝わる。

さて、能楽師でワキ方を担う安田登氏は、「芭蕉の「奥の細道」の中には「夢幻能」を彷彿させるような紀行が数多くあり、それを重ね合わせることで理解が深まる」と言う。

それは、芭蕉が旅の途中で道に迷い、行く先々で詩人の魂や亡き人の霊と出会う。そこで詩人の魂と交流をし、怨霊を鎮魂し、四季の景色を愛でて名所を一見するというストーリー。

芭蕉や弟子の曾良が「能楽の深層」にどこまで精通していたのだろうか。

安田氏は、作品をじっくり読み込んでいくと、その文脈から、芭蕉はワキ僧を目指していたのではと推測する。

いずれにしても、ワキを務める能楽師、安田氏の説明は奥が深い。

「ワキとは、決して脇役ではなく、浮き世の現実から非現実としての能舞台に「ワケ」入る存在であり、分け入り、道行きとともに謡を謡うことによって、柱で囲まれた三間四方の能舞台と空間において、シテの無念を浮き上がらせ、浄化する重要な役割である。

ゆえに、ワキは面(おもて)をつけず、直面(ひためん)であり、現実の者であることを意味する一方で、シテはたいてい面をつける。現在に生きていないという存在であることを象徴する」と。

安田氏が説く独特な「ワキ」の役割に、私は、青森県の下北半島にある霊場、恐山のイタコを連想してしまう。      

   「最後のイタコ」松田広子著  扶桑社 (2013/7)

イタコは、あの世へ旅立った仏様と残された人がこの世で再び出会い、お互いの思いを伝え合うお手伝い、口寄せをする。

口寄せでは、必ずあの世の門を開ける呪文と閉じる呪文を唱える儀式を行うようだが、異界の「シテ」を舞台に降臨させる「ワキ」は謡をもって引き寄せるという、いわば「霊”能”者」のような役割か。

目に見えない異界のものを主人公にしてしまう夢幻能。

能の独特の歩き方は陰陽師が結界を張る時の歩き方。どこまでも深いこの幽玄の世界観。

ワキ僧を目指した?芭蕉は陸奥の旅でそうした現象に遭遇したのではと憶測してしまうのが、私の妄想力なのである。

還暦を過ぎ、理屈では説明できないと感じた体験もしてきた私ですが、26歳の若さでこの世を去った詩人、金子みすゞ氏が残した言葉「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」を実感する。皆さんはいかがでしょうか。

「毎日通っている勤め先の職場こそ、私の能舞台だ?」という諸兄もみるかも。これはこれで難しい回答だ。

「那須の旅 夢幻能に 迷い込む 不思議体験 遊行柳※」 

※遊行の聖に朽木の柳を教える老人とは、実は柳の老木の精。柳のさまざまを語り、念仏をたたえ報謝の舞を舞う演目。

「幽霊が  主役で演ず  夢幻能  世阿弥の世界  神がかりなり」


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno07.htm 【奥の細道(遊行柳 元禄2年4月20日)】より

 又、清水ながるゝの柳*は、蘆野の里*にありて、田の畔に残る。此所の郡守戸部某*の、「此柳みせばや」など、折をりにの給ひ聞え給ふを*、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ 。 

田一枚植て立去る柳かな

(たいちまい うえてたちさる やなぎかな)

4月廿日。朝のうち霧が発生。午前10時近く那須湯元を出発。栃木県那須町で、遊行柳を見物し、その後福島県白河市内へ。奈良時代の白河の古関を見物して、白河に一泊。夕方から小雨。 

田一枚植て立去る柳かな

(たいちまい うえてたちさる やなぎかな)

 西行の、「しばしこそとてたちどまりつれ」 に誘われて、 芭蕉もここに立ち止まったのである。その瞬間から芭蕉は西行の時間の中に居る。その夢想の時間の間に早乙女たちは一枚の田んぼを植え終えた。田を立ち去る乙女たちに同期して芭蕉一行もこの場を立ち去ったのである。当時の田んぼの一枚がどのくらいの面積か想像できないが、田植時間もそう短いものではないだろうから、早乙女達の手際のよい作業に見とれるように芭蕉一行は夢幻の時間を過ごしたのである。それは又謡曲「西行」の幽玄な時間でもあったのだろう。

 この句には古来様々な解釈が施されてきた。①早乙女たちは田を一枚植えて、その場から立ち去った、という「ああ、そうですか」解釈。②早乙女たちが田を一枚植え終えたので、芭蕉らはその場から立ち去った、という「暇つぶし」の解釈。③早乙女たちが植えている田植に芭蕉たちも手伝って、一枚植え終えたので立ち去った、という「ボランティア精神」、などである。共通して言えることはこれらは全て「柳」の存在が消えてしまった解釈であるということ。

代は替わっているが蘆野の遊行柳の周りは今でも一面の田圃

「田一枚植えて立ち去る柳かな」の句碑(蘆野にて) 写真提供:牛久市森田武さん

「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」の歌碑(蘆野にて)

清水ながるゝの柳:西行の歌「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」とあるによる。 栃木県那須郡那須町芦野にある柳がその舞台。ただし、『西行一代記』などによれば、この歌はここ芦野でこの柳のために詠んだのでもなんでもなく、鳥羽殿の障子に描かれた柳の絵に西行が画讃を入れたのがこれだという。しかるに、ここが 観世小次郎信光作の謡曲『遊行柳』の舞台 となったことで、観光地として一躍脚光を浴びるようになったというのである。「遊行 <ゆぎょう>」の原意は、僧侶がぶらぶら歩くこと、転じて布教のための行脚などをさしたが、ここでは浄土宗系時宗のこと。謡曲『遊行柳』では、この柳は朽ちていたが、一遍上人(遊行上人)(1239-1289)と思しき僧が訪れたとき柳の精 の化身らしき老人が現れて、朽木の柳にいざない、西行の出家と奥州下向の話をした。僧が「南無阿弥陀仏」を10辺唱えるとこの老人は消えた。その夜、柳の根方で眠る僧の夢枕に柳の精が現れて、ようやく成仏できたと礼を述べる。夜が明けるとそこにはもとのように朽木の柳が立っているばかりであった。この能の舞台は白河関より北にあるとされているので、地理的には一致しない。謡曲の作者観世小次郎信光の誤りであろう。 芭蕉はここではすべてを肯定したまま一句を詠んでいる。

芦野の里:<あしののさと>と読む。現栃木県那須町芦野、奥州街道の宿駅。

郡守戸部某:<ぐんしゅこほうなにがし>と読む。芦野3,000石の領主で旗本の芦野民部資俊(あしののみんぶすけとし)、俳号桃酔<とうすい>のこと。江戸蕉門の一人。「戸部」は中国の古い官名で、ここでは「民部」に宛てて付けたのだろうが、下記のような理由で、故意に名を隠したのである。

 ところで、資俊について一言。この人は、元禄5年6月26日に死去したが、芭蕉が芦野を訪れたときには生きていた。ところが『奥の細道』の初稿では、「此所の郡守故戸部某」と書いた。ということは、芭蕉が『奥の細道』を執筆したのは早くとも元禄5年7月であり、それより後であったということが分かっている。

「此柳みせばや」など、折をりにの給ひ聞え給ふを:この柳を私に見せたいと 桃酔はしばしば言っていたものだが、の意。手紙でか、会ってか?。

全文翻訳

また、西行法師の歌「道のべにしみづ流るゝ柳かげしばしとてこそ立どまりつれ」と詠まれた柳の木は、芦野の里にあって、田んぼの畔道に残っていた。ここの領主である戸守某が「この柳をぜひお見せしたい」と折にふれて語っていたので、ぜひ一度見たいものだと思っていたのだが、ついに今日こうして柳の下に立ち寄ることができた。

田一枚植て立去る柳かな

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