https://www.koukokuji.com/sermon/pg393.html【夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり】より
― 旅に病んで 夢は枯野を 駆け巡る ―
この一句は、松尾芭蕉の辞世の一句と伝えられています。『奥の細道』を著し、こよなく旅を愛した芭蕉でありますが、人生行路という細い道を歩きとおして、やがてその旅路も尽きようとする老境に至っての心境です。
何か荒寥(こうりょう)とした人生の淋しさが伝わってきます。「思えば、あれも夢、これも夢、この世のすべては夢幻の如くであったわい」という意味でしょうか?それにしても「夢は枯野を駆け巡る」とは凄まじい表現です。
日本人の平均寿命が、男女共に80歳前後という世界でもトップクラスの長寿国になったのですが、それでもやはり「人生は儚(はかな)いものだ」と溜め息をつく人が多いのです。
実は、この世の中は儚いものであり、大半は自分の思い通りにはならぬものであるとお説きになったのがお釈迦さまです。それを「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と言うのです。
現代の社会は、人類の歴史上かつて例を見ないほどの発展と向上を遂げました。お金さえあれば、或いは権力の座につけば何でも自分の思い通りにならぬものはないと信じている人も大勢おります。
果たしてそうでしょうか?
自分の歩んできた人生に何の悔いもなく、この世に残していく子孫に何の心配も抱かぬ幸せな人はいるのだろうか?と、首をかしげたくなります。
― 露と落ち 露と消えにし わが身かな 難波のことは 夢のまた夢 ―
戦国時代、はじめて全国を制覇し、“天下人(てんかびと)”となった太閤秀吉の辞世の一首と伝えられます。“難波のこと”とは、栄華をきわめた大阪城に暮らしていた頃の事です。我が子を頼むと諸大名に哀願しながら亡くなりましたが、結局は徳川家康に攻め滅ぼされて、夢幻(ゆめまぼろし)の如く、大阪城は焼け落ちてしまいました。
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519944154.html 【蝶夢・紫金・方堂の句碑】より
○義仲寺には、狭い敷地に併せて十九の句碑と二つの歌碑が建っている。そのうち芭蕉句碑が三つ。芭蕉以外の句碑で、気になった句碑を三つ紹介したい。
初雪や日枝より南さり気なき 蝶夢幻阿佛
☆この句碑は、粟津文庫前にある。蝶夢幻阿佛は、「義仲寺案内」にある、義仲寺中興の法師だと思われる。『翁堂』の案内に、
正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師陶像を
安置する。正面壁上の「正風宗師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。
天井の絵は、伊藤若冲筆四季花卉の図である。翁堂は蝶夢法師が明和六年(1769
年)十月に再興。翌七年に画像完成。(中略)
芭蕉翁の像に扇子をたてまつる当寺の年中行事「奉扇会」は、明和六年に蝶夢法師
の創始になるもので、毎年五月の第二日曜日に行う。
また、『粟津文庫』の案内に、
寛政三年(1791年)蝶夢法師の創設。蝶夢法師は享保十七年(1732年)京
都に生まれる。二十六歳のころ蕉門俳諧に目を開く。三十六歳のとき寺を出て洛東岡
崎に草庵を結び五升庵と名づけた。以来終生芭蕉翁を敬慕し、翁の遺業顕彰に努め、
蕉門俳書のほとんどを収集上梓した。
寛政三年粟津文庫落成のとき蝶夢法師は、俳書の蔵本六十部を寄贈した。翌四年に
は法師が十一年の歳月をかけた絵巻「芭蕉翁絵詞伝」原本三巻が完成。また、天明二
年(1782年)には、「芭蕉門古人真蹟」を収集した。いずれも粟津文庫に収蔵し
ている。
蝶夢法師は、無名庵主の重厚とともに寛政五年(1793年)四月十日から十二日
まで、当寺の芭蕉翁百回忌を主催した。全国の俳人約五百人が参集、歌仙百五十巻を
興行した。近世文芸史上の盛事であった。法師の入寂は寛政七年十二月二十四日、享
年六十四歳。
●蝶夢の「初雪や」句は、初雪の喜びを吟じたものである。切れ字「や」で区切り、初雪の喜びを表現するとともに、その初雪が日枝より南に物足りないと言うのである。おそらく、朝の風景であろう。日枝より先は真っ白になっているのだけれども、日枝より南はほとんど雪を見ない。だから、大津あたりで詠んだ句であることも判る。初雪は嬉しいけれども、遠くに見るだけで、大津あたりには降り積もっていないのを不満げに詠んだ句。琵琶湖の広い風景と冷徹な空気が眼目。
●なお、義仲寺で頂戴した、「芭蕉翁の大津での句~八十九句~」には、
海は晴れて比叡降り残す五月かな
の句がある。冬と夏で季節はまるで違うが、ともに日枝の山が目映い。
時雨れても道や曇らず月の影 紫金
☆この句碑は、義仲寺山門脇に建っている。如何にも寺の山門にふさわしい句。俳諧に詳しくないので、作者である俳人紫金がどういう人であるかについて、何も知らない。句からうかがえる作者は、おそらく、お坊さんではないか。俳号紫金も、仏身の美しさの形容を意味する紫磨金からきているのであろう。
●句もお坊さんらしく、仏道を諭す内容となっている。いくら娑婆世間が時雨れることがあっても、仏の道は曇ることはないと言うのであろう。その証拠に夜になれば、仏のみ教えの月の光がこの世をあまねく照らしてくれると。佳い句であるが、線香臭さが気になる。悟っていては俳諧にならない。
むべ三顆翁を祀るけふにして 方堂
☆朝日将軍義仲公を祀る朝日堂脇に建つ句碑。「義仲寺案内」にある、『龍ヶ岡俳人墓地』の記事の中に、
方堂 寺崎氏(昭和三十八年十二月二十四日没)
とあるから、歴代の無名庵主の一人かもしれない。
●冠の「むべ三顆」が何とも佳い。「むべ」は、あまり馴染みがないかもしれないが、アケビ科の植物で、秋に赤紫色の実を付ける。郁子、野木瓜とも書く。むべは蔓性の植物で、二個から三個の実が一所に付く。「翁を祀るけふ」とは、時雨忌である陰暦十月十二日を指すのであろう。南九州では、昔からむべはよく食するが、琵琶湖周辺もむべを珍重するらしい。むべと時雨忌の取り合わせが絶妙。
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