金山跡と隠れキリシタン遺跡

伊達政宗の死後、咎の無い隠れキリシタンを何故調査する必要があったのでしょうかか??

http://www.shiwa-kanko.jp/koushin/%E9%87%91%E5%B1%B1%E8%B7%A1/ 【金山跡と隠れキリシタン遺跡】より

佐比内(さひない)から赤沢、長岡と当町の東部には多くの金山跡があります。特に佐比内の朴木(ほうのき)金山は有名です。また、隠れキリシタンの遺跡(墓)や遺物(マリヤ観音)が伝わっています。 [朴木金山跡] 佐比内の南東部、砥ケ崎(とがさき)の佐比内川上流の山中に位置。朴木山金山・朴木沢金山ともよばれ、朴・厚朴と記す場合もありました。一帯には数カ所の金山があり、有数の産金地帯でした。丹波弥十郎(たんばやじゅうろう)が大判六千五百枚の運上金で請負い、元和(げんな)8年(1622年)より大規模な採掘が開始され、一山の総人口は急速に増加したと伝えています。金鉱の採掘と砂金採取は近代に入ってからも行われ、名称を変えながら明治・大正・昭和と数回にわたって再発掘がなされました。昭和57年に三菱金属鉱業株式会社が鉱区権を手に入れ、新たに早池峰鉱山と命名して基礎調査を行い探鉱を開始しましたが、その結果は思わしくなく、同61年に閉山となりました。


http://yamagata.tenjounoao.com/sp/tohoku/yamagata/yamagatahs17akayukinzan.html 【赤湯金山】 より

 山形県:キリシタン関連史跡

キリシタンが隠れ住んだ金山

キリスト教禁令を受けて奥州に逃れてきたキリシタンが隠れ住み信仰を守った金山。

長崎や江戸などの迫害を避けて、禁教下のキリシタンは東北地方の金山に住み着くようになりました。鉱山労働は過酷で健康を害しやすく事故に遭うことも珍しくなかったので、常に労働者を求めており、身元がはっきりしない者も容易に潜り込むことができたからです。

赤湯金山

東北各地の鉱山にはキリシタンがいたという記録があり、赤湯金山もその一つです。

米沢に近いこの北条郷(南陽市)では禁教下でも信徒が増えていました。

金山を下りて村の中心(南陽市宮内)に行けば、この地域の指導者であるキリシタン信徒に会うこともできました。

北条郷の代表的信徒はヨハネ美濃でした。

現在の様子

1637(寛永4)年、密告により赤湯金山で3名のキリシタンが捕縛されたと記録されています。

米沢藩主上杉定勝の時代で、幕府の圧力に抗しきれず、キリシタン迫害を始めた頃にあたります。

翌1638(寛永5)年には北条荘十七郷(赤湯、宮内、漆山一帯)で9名のキリシタンが捕まり米沢城下の元籠町の牢に入れられました。

この時ヨハネ美濃は捕らえられ、のちに北山原で殉教しました。


http://www.town.shiwa.iwate.jp/kanko/rekishi/1/1813.html 【キリシタンの弾圧】より

一六一二年幕府はキリスト教の禁止令を出した。しかし東北地方の取締りは比較的ゆるかったので、元和の頃には本県でもかなり多くの信徒がみられるようになった。

この頃本町の佐比内に朴木金山ができた。京都出身の丹波弥十郎が、藩に金千枚を上納する約束で採掘をはじめたといわれる。一時は産金が豊富で、多くの鉱夫長屋が軒を並べて市も開かれてなかなかの盛況であった。当時、鉱山は藩の警察権が及ばない特別地帯であったから、キリシタンにとっては好適なアジトであった。このため朴木金山にも他領から多くの信徒が潜入してきた。

一六三五年に藩主の重直が七つの罪で幕府から処罰されるという事件があったが、そのうちに領内にキリシタンが多いという一項があった。これに対して藩では、丹波弥十郎が朴木金山へつれてきた千余人の鉱夫の中に多数の信者が入っていたためで、領内の者ではないと釈明している。しかし幕命をおそれた藩では、従来の方針を変えて鉱山にも厳しい手入れを行うようになり、朴木金山でも多くの信徒が検挙された。一部は逃れて上閉伊の小友金山へ潜入し、弥十郎は手入れ前に京都へ逃れたともいわれる。

この頃鉱夫長屋のあった砥が崎部落には、十字を刻んで石碑や、十字架を草花の模様にカムフラジュした墓石が残されており、当時の迫害のあとがそぞろに偲ばれる。

赤沢のキリシタ沢は、昔はキリシタン沢といった。附近に古い廃坑があるところから、この地もまたキリシタンの潜入地であったと思われる。

当時藩ではキリシタン信徒を訴え出た者に賞金を与える旨の高札を領内に提げたが、本町では二日町・日詰・大日堂・犬淵・佐比内・馬場・稲藤・鳥が巾・山王海・破子沢・糠塚・南片寄・石倉・荒谷・沢田・荒屋敷などに立てられた。

−−佐藤 正雄(故人)−−−


http://a-kenkyo.or.jp/shuken/1311/zuisou.html 【隠れキリシタンの道】より

 藩政時代、キリスト教信者は耶蘇教の邪宗門徒とされ、厳しい弾圧と処刑を受けた。幕府や各藩の執拗な追跡をのがれ、各地で多くの殉教者が出た。ある者は地下に潜行し、隠れキリシタンとしてその信仰を篤くした。

 仙台藩の水沢(岩手県)に後藤寿庵という切支丹がいた。本名を岩淵又五郎といい、若い頃、長崎でキリスト教の洗礼を受け、五島列島にいたことから五島(後藤)の性を名乗ったという。のちに支倉常長の口添えで仙台藩の伊達政宗に抱えられ1200石取りとなって水沢の見分村(福原)に本拠を置いた。

 後藤寿庵は奥羽地方切支丹の総帥といわれるほど当時、禁教とされたキリスト教を広めることに腐心した。伊達政宗の信任は厚かったのだが、元和9年(1623)頃、幕府の命令でますます禁教取締りが厳しくなって、寿庵は水沢福原から逃れざるを得なくなった。

 当時、寿庵のもとに身を寄せていたポルトガル生まれのデイゴ・デ・カルバリヨという宣教師がいた。かれは久保田城の大奥にまで布教した人であるが、やがて弾圧の手を逃れ、下嵐江(おろせ・奥州市胆沢区)の鉱山に身を隠した。しかし、ついに捕えられたあと、仙台城下の広瀬川原で処刑された。(パジェス『日本切支丹宗門覗史』)

 下嵐江鉱山は渋民金山といわれ、非常に繁盛し小屋が千軒もあって仙台藩の重要な鉱山であった。渋民に限らず、当時の鉱山は捕縛の十手が入らない、つまり治外法権がたてまえで、そこで切支丹たちは宣教師の助言などもあり、各地山奥の鉱山に逃げ込んだ。秋田では院内銀山が切支丹の隠れ場、逃亡先となっていた。

 伊達政宗の詮索に耐えきれなくなった寿庵は、福原を捨て、南部(岩手)あるいは秋田領に逃げたとされているが、たしかなことは分からない。

 後藤寿庵が住んだという館跡が福原公園となって水沢に残されている。そこには後に建てられた寿庵廟や福原小路という屋敷通りもある。

 後藤寿庵は胆沢川の水を水沢平野に引き込む水利事業を手がけ、のちに「寿庵堰」といわれる巨大な水路を作り上げた。その用水路は今に残っている。ちなみに胆沢川といえば焼石岳を源とする河川で、流域にすればまさに命の流れであった。今は巨大な胆沢ダムが完成しようとしている。

 話を前に戻そう。

 寿庵は徹底した切支丹で、仙台藩重臣の石母田大膳から棄教を進められたものの、それを拒んで領外に脱出したとされている。逃亡経路はいまだ不明とされており、仙台の石母田家文書からは南部(岩手県)方面に逃れたとされているが、それは必ずしも確証があるわけでもない。

 さまざまな歴史的事象を考えると、(自分の)推論では胆沢区下嵐江から仙北道(柏峠)という剣難の山道を通って秋田領に逃げ込んだのではないかということになる。福原を棄て、地下に潜行した寿庵は11名の切支丹と一緒だったといわれる。

 増田村(横手市)居住の小原縫殿之助から秋田藩重臣の梅津政景に届いた願い上げ書状に、次のような一文があるという。「先年、梅津憲忠に願って、仙台水沢に居住の旧友たちが秋田領に来て新田を開発し、機会をみて足軽並みに勤仕するよう取り計らったが許可になったから11人を移して新田112石8斗8升5合分を開発する」。梅津氏の取り成しで佐竹義宣から黒印(許可)を貰っている。

 水沢からの11人は偶然の一致といえばそれまでだが、取り成しをした秋田藩家老の梅津憲忠の妻は角館キリシタンの娘であったというから、何かの情報操作があったものではないだろうかと自分には思われる。とにかく秋田藩武士の中に相当の切支丹がいたことは間違いない。

 同時代、キリシタンと関係があるのかは不明だが、横手市の天仙寺に「岩瀬御台」の霊廟がある。

 岩瀬御台は久保田に移封された佐竹義宣の側室となった人で、のちに離縁されて横手で一生を過ごした方である。生まれは伊達政宗に摺上原の戦で滅ぼされた芦名家である。遺児となったその後、須賀川の二階堂家で育てられたが、その二階堂氏も政宗に滅ぼされ、岩城家に移ったあと佐竹義宣の側室となった。

 天仙寺の隣に春光寺があり、そこに岩瀬御台の位牌が残されている。詳しくは書かないが、春光寺もまたキリシタンと深い関係をもつところである。

 武藤鉄城の『秋田切支丹研究』の中の横手の項に、「寛永元年(1624)の冬、南部下嵐江の山中で捕えられ、仙台で斬殺された外人宣教師カルバリヨは横手へも赴く意図を有していた。

 義宣側室の岩瀬御台が離縁されたのは禁教関係ではなかったかと想像されている。春光寺には岩瀬御台の位牌が安置されているが、また木刻で高さ1尺ほどの油絵具風の塗物で彩色したマリア像とされるものがある。禁教の隠ぺいが目的か、頭部左右と前面が削り取られている。

 一人一人の歴史が別々に残されているが、藩政初期、隠れキリシタンとなった同時代人が地下で深くかかわっていたというのは言い過ぎだろうか。

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