http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/imokami.htm 【月に名を包みかねてや痘瘡の神】より
(芭蕉翁一夜十五句)
(つきになを つつみかねてや いものかみ)
元禄2年8月15日。『奥の細道』旅中、敦賀での名月の晩。湯尾峠。ここでは茶店で痘瘡除けのお土産があった。十五夜の月は、ちょうど里芋が収穫の時期でもあるから古来芋を食う風習があって、別名「芋の月」などとも言う。疱瘡は和語で「いも」という。
月に名を包みかねてや痘瘡の神
湯尾峠では疱瘡予防の神様がいる。疱瘡の神というあまり人に好かれない名前だけに普段はひっそりとしているのであろうが、今宵は八月十五夜の月、別名「疱瘡<=芋=いも>の月」というくらいだから、その名前も自然と表に出て隠しきれなくなるのであろう。
http://www5.nsk.ne.jp/~y_ogawa/yunootouge.htm 【北陸の峠道】より
湯尾峠(ゆのおとうげ)
ハッピーマンデイを入れて3連休だったが、真ん中の日曜が町内会の総会だった
のが惜しい。しかもその日だけが雨が降らなかったのだ。一日位は出掛けなきゃ
と思って,成人の日に小雨の中湯尾峠に向かう。
国道365号線を今庄町湯尾で山側へ曲がるとすぐに峠入り口の標柱や峠につ
いての説明を書いた案内板がある。その50m手前にも大きな地図や見所を書
いた案内板がある。峠にも孫嫡子神社の由来などの石碑があり、これらを読む
だけでずいぶんと勉強になるのだ。
昔からよく使われた道らしく広い。苔むした上に杉の枯葉が落ちていて,天気で
乾いていたらゆっくりと散策するには趣のある道だと思う。しかし今は、雨の切れ
目をこの時とばかりに小走りに登る。ほんの10分か15分だが息切れがしてしま
う。おまけに途中雪があったりするのである。
湯尾峠は海抜約200m八ケ所山、三ケ所山に囲まれた鞍部にある。旧北陸道の要地として栄えて来た峠です。府中より湯尾の宿へ、約百m上がり坂となって頂上に達する。さらにこの峠を越えて今庄の宿、木の芽峠、栃の木峠を経て京都に通ずる。
天正六年(1578)北の庄城主柴田勝家によって大改修が加えられた。頂上には、疱瘡を祀る神社、そのお守りを売る茶屋が四軒あって大いに栄えたと云われている。
また、戦略上の要地として、ひうち城の戦い、そま山の戦、一向一揆の戦など幾多の抗争がこの峠を中心として行われた。明治十一年(1878)明治天皇ご巡幸の時に、御小休みされたので記念碑が建てられてある。松尾芭蕉は、この地で「月に名を 包みかねてや いもの神」の句を残している。約壱千有余年の歴史を秘めたこの峠も、時代の伸展に伴い、明治二十九年鉄道の開通によって次第にさびれて現在に及んでいる。 今庄町教育委員会
峠は広場のようになっていて、芭蕉が奥の細道紀行のときに詠んだといわれる
「月に名を つつみ兼ねてや いもの神」の句碑がある。先の見所を書いた案内
板には句の後に(ひるねの種)とあるのだが、この意味が判らない。句の意味も
判らないのだからどうしようもないが「疱瘡の神」を「いもの神」と詠むらしいのだ
。元禄二年八月十五日の夜敦賀で,芭蕉は一夜に15句を詠んだと云われ、そ
の中の一句なのだという。芭蕉は湯尾峠の茶店で,疱瘡除けのお札でも買った
のだろうか。
西端には「疱瘡の神」と云われる孫嫡子神社があり、傍らの石碑には峠に老夫
婦住みて子なきを嘆く、通りかかった役小角(えんのおづぬ)が哀れんで如意輪
観音の七星の神呪を授けた。暫くして娘現れ子となり、光明童子の化身現れて
娘と結ばれて子を授け云々とある。
そして孫嫡子長じて奈良東大寺等に学び、この地に庵をむすび観音を祭り人々
の災厄を除き開導せしむ。この文献等は、湯尾旭地区末口家に保存されている
とあるのが興味深い。
醍醐天皇疱瘡を患い当社に祈願したらたちまちに平癒したまう、それより疱瘡の
神として世に伝わった,のだそうだ。
この峠は、古来より北陸と京都を結ぶ要衝であった。山中峠越え、木の芽峠越え
そして栃の木峠越えの道はすべて今庄宿に合流し,ここ湯尾峠を通って武生へ
と向かったのである。峠には明治初めまで4軒の茶店があったとある。
要衝であったが故に幾多の戦乱に巻き込まれ,峠の周囲は湯尾城として利用さ
れたらしい。峠付近は道の両側が石積みになっていて、古道らしさが感じられて
いい。春になったらここから藤倉山に登ってみようと思う。
あちこち写真を撮っているうちに木々から水滴が落ちてくるし、200mくらいなの
にガスが上がってくるしで、カメラを被いながら一目散に下ったのでありました。
https://mito-ibaraki.mypl.net/article/kankou_mito-ibaraki/27185 【本間玄調】より
水戸藩で種痘を行い西洋医学にも通じた水戸藩の藩医
本間玄調は水戸藩の藩医で、漢方だけでなく西洋医学も杉田立卿、箕作阮甫、高階枳園、華岡青洲、シーボルトといった江戸時代の西洋医学の先駆者たちに学んだ医学者です。
日本で初めて麻酔を使った手術を成功させた華岡青洲の門下としてはもっとも優れた外科医であったとされていました。しかし、華岡青洲流の医学の書物を出したため、華岡青洲門下から破門されてしまっています。
つまり当時でも西洋医学を理論だけでなく実技でも優秀であった医学者でした。
後に水戸藩主徳川斉昭の侍医となり、天保14年(1843年)には弘道館医学館の教授となっています。
江戸時代にいち早く種痘を普及させた人物の一人
彼の功績としては1842年(天保13年)に水戸藩で種痘を普及させたことが挙げられるでしょう。
当時、牛痘への偏見や恐怖が大きかった水戸において、彼は水戸藩主徳川斉昭の子や自分の子にまず種痘を施し、弘道館医学館を中心として水戸藩に種痘を普及させていったのです。
斉昭時代の水戸藩は精神的なだけの尊王攘夷ではなく、このように西洋の優れた文物を導入する柔軟さを持っていたことがわかります。
https://ameblo.jp/sugoutakao/entry-12571530576.html 【たとえ我、命死すとも】より
たとえ我、命死すとも
「たとへわれいのちしぬとも 死なましき人はしなさぬ道ひらきせむ」。嘉永2年(1849)笠原白翁が種痘を得るため、長崎へ出発する際に詠んだ歌である。
天然痘はかつて疱瘡、痘瘡などと呼ばれる不治の病で、神仏に祈るしかなかった。笠原白翁は沢山の命を奪う天然痘から人々を救うため、私財をなげうって種痘を続け、多くの命を救った。
神社巡りをすると、庚申塔や十九夜塔など沢山の石塔にまじって、「疱瘡神」と書かれれた小さな石塔を見かけることがある。当時は、神仏に祈るしか助かる方法はなかったのだろう。子供のころに受けた種痘接種の跡が右腕に、未だに残っている。
天然痘は奈良時代に日本に入り、周期的に流行を繰り返したと言われる。感染力はすさまじく、特に小児が感染し、死亡率が高かった。発熱し、全身に吹き出物ができ、膿が出る。死を免れたものも吹き出物の跡が残り、若い女性は一生結婚が出来ず、自ら命を絶つものもあった。
福井県南越前町の湯尾峠の茶屋で配られた「孫嫡子」という疱瘡除けお札は、全国的に知られている。この峠を越えた松尾芭蕉は、「月に名を 包みかねてや いもの神」という句を読んでいる。いもとは疱瘡のこと。
江戸期には湯尾峠に4軒の茶屋があり、孫嫡子と書かれた疱瘡よけのお札を売っていた。この孫嫡子信仰は、井原西鶴の「男色大鏡」、近松門左衛門の「傾城反魂香」、十返舎一九の「湯尾峠孫嫡子」といった作品に登場し、全国的に有名であった。
孫嫡子には、次のような伝説もある。大宝元年(701)、役小角が峠茶屋に宿泊した時、そこに住む老夫婦が子の無い寂しさを訴え、如意輪観音の護符を授けた。やがて身寄りのない「鍋倉」という名の美しい娘が現れ、老夫婦を手伝うようになった。その年の冬、大雪で長逗留となった青年と娘は結ばれ、男子が生まれ、この子は「孫嫡子」と呼ばれた。青年は「光明童子」の化身であり、娘と子供を置いて立ち去る。やがて老夫婦と娘がともに亡くなり、孤児となった孫嫡子は峠茶屋を引き続き、疱瘡除けお札を配り、旅人の病を治したという。
当時は、藻草を食べさせた牛の糞を黒焼きにし、粉にして服用した。効果はなく、神仏に頼るのみだった。疱瘡神は赤色を忌み嫌うとされ、赤いものを身に着けたり、赤色で刷った疱瘡絵や「赤もの」と呼ばれる郷土玩具が残されている。
経験的に人々は、天然痘にかかると2度と掛からないことを知っていた。最初は、天然痘にかかった人のかさぶたを粉末にして、鼻の穴に吹き込む「人痘法」が行われた。これは秋月藩の藩医だった緒方春朔が行ったが、あまり普及はしなかった。
18世紀末、イギリスの医師ジェンナーが牛痘種痘に成功し、世界的に広まった。笠原白翁はこの方法を知り、全国に先駆けて痘苗を輸入し普及させた。今では天然痘は根絶され、世界のどこにも存在しない病気になった。
笠原白翁は文化9年(1809)、越前国足羽郡深見村(福井市深見町)に生まれた。名は良、通称良策。白翁と号した。父より医術の手ほどきを受け、福井藩医学所・済世館に入学。更に江戸へ出て漢方医・磯野公道に学び、24歳に福井へ帰り町医となる。天保11年(1840)、京都の蘭方医・日野鼎哉に入門。天然痘を予防する種痘を知り、種痘を入手し、福井だけでなく多くの命を天然痘から救った。国学への理解も深く、橘曙覧とは親友であったという。明治13年(1880)、72歳の生涯を終えた。
天然痘予防のため種痘普及に尽力した笠原白翁の生涯を、吉村昭が長編小説『雪の花』に描いている。天然痘によって死亡した人を、赤いたすきをかけた男が大八車で運ぶ姿も描かれている。京都から福井に痘苗を持ち帰るため、雪深い栃ノ木峠を越える場面、子供の雪肌、白翁に協力的だった福井藩御勝手掛・中根雪江など。白翁の生涯は、雪にまつわる雪中に咲く一輪の花だった。
http://mahoranokaze.com/?m&no=2922 【まほらにふく風に乗って】 より
小美玉市の旧小川町は江戸時代に水戸藩の領地であった。
そして、ここには水戸藩で最初の郷校(医学専門校)「稽医館(けいいかん)」が作られた。この郷校は実質的な医学の専門所として画期的な学校で、多くの成果を上げた。
この郷校の設置を積極的に水戸藩に働きかけたのが「本間玄琢」であった。
潮来の街を散策していると芭蕉の友人として医者の本間道悦という医者の名前が出てくる。
本間道悦は松尾芭蕉に「医術免許状」を書き与えたと伝えられ、江戸で医師になり、潮来に来て「自準亭」という診療所を開いていた。墓が長国寺にある。
本間道悦の生い立ちを見てみると、(大和国)大垣藩の武士の三男に生まれ、島原の乱で負傷して足がびっこになった。
そのため、武士をあきらめて医者を目指した。江戸で医者を開業して評判を得ていたというが、この時に松尾芭蕉と親交があったという。
道悦は芭蕉から俳諧を習い、逆に芭蕉に医術、薬草知識などを教えたようだ。
その本間道悦が潮来に隠居してこちらで診療所を開いていた。
しかし道悦には子供がなく、2代「本間道因」は芭蕉の俳人門下からの養子で、3代「本間道仙」は陸奥国の人で医術を伝授されて本間家に入った。4代「本間道意」は道仙の実子で医者を継いだ。
そしてはっきりしないが、この4代の時から小川に移ったようだ。
小川と潮来は共に水戸藩であり、陸路というよりは霞ケ浦の舟(水運)では非常に近く往来も容易だった。
しかし5代の「本間玄琢」は特に優れた人物といわれるが、この本間玄琢も養子であった。
生まれはこの小川町下馬場の庄屋(村山家)の長子であったが、頭がよく、本間家に乞われて養子となった人物だ。
こうして本間家の家系を見ていくとすぐれた人物が養子となり、医術の進歩に貢献していった姿が見て取れる。
この本間家があったから水戸藩は最初の郷校としてこの小川に医学専門校として「稽医館(けいいかん)」ができたのだ。
こうしてみていかないとこの学校の沿革や業績も聞いても、読んでも、おそらく頭の記憶に残っていかないのだろうと思う。
ここで紹介するのはこの本間玄琢が生まれた生家(村山家)の家だ。
ここは玄琢が医者をしていた家ではないと思うが、江戸時代ころの家が残されていて、これを市(小川町)が譲り受けて「やすらぎの里」という施設に移築したものだという。
現在は生涯学習の場として開放しているようだ。
中のかまどの部屋では火がたかれ、煙が上から抜けていく。
その裏庭にはたくさんの野草が植えられ、説明が付されていた。
幕末に水戸で活躍した医師「本間玄調」はこの本間家の人物で、シーボルトなどにも学び、全身麻酔の外科手術なども行っている。 天下の名医などとも言われているという。
jsmh.umin.jp/journal/50-2/313-314.pdf
荒井保男 - 日本医史学会
(びっこ)になってしまい、武士たる道を断念し、医師となっ ... 医学を教え、道悦は松江と号して俳諧を学んだ。 ... して、芭蕉、曽良、道悦 (松江・自準亭)の連句が収載され. ている。 二世本間道因. 道院に子がなく、同じ蕪門の俳人友松五郎兵衛を養子とし ... 三世の道仙は道因に養育され、道院から医術を伝授された ... を施した名医であったと伝えられている。 ... 本間道偉は玄啄の長男である。十三歳で原南陽の門に入り、. 儒学を藤田幽谷に学び、江戸及び京都に遊学した。歸郷して.
未指定:誓紙授け
https://www.city.itako.lg.jp/sp/page/page000207.html 【河岸めぐり水運と潮来】 より
三方を水に囲まれた潮来地方は、古くから水運の要所であった。特に江戸幕府が成立すると、東北諸藩の年貢米や諸物資が内川廻り潮来経由で江戸に回漕されるようになった。当時、大量の物資を輸送するのに、水上輸送が陸上輸送よりも便利で、運賃も安かったからである。
内川廻りで潮来を経て江戸に入る舟運には、二つのコースがあった。
その一つは、奥州方面から太平洋を南下した廻船が、那珂湊から涸沼に入り、海老沢海岸(茨城町)に荷揚げする。そこから馬に積み替えて陸路を紅葉(鉾田町)や下吉影(小川町)まで運び、小舟で巴川を塔ヶ崎や串挽河岸(鉾田町)におろし、ここで高瀬舟に積み替えて北浦から潮来に出る。潮来からは現在の常陸利根川から横利根川を通って佐原に出て、利根川を溯り、そして関宿(千葉県東葛飾郡関宿町)から江戸川の舟運を利用したのである。このように手数のかかる積み替えや、距離の延びる迂回路を辿るコースが利用された理由は、当時、鹿島灘沖の航行が危険であり、また、房総沖を回って江戸湾に乗り入れることが技術的に困難であったからといわれている。
潮来を通る他の一つのコースは、奥州から南下した廻船が那珂湊を経て鹿島灘を乗り切り、銚子の河口から直接利根川を溯上して江戸川に入る方法であった。これはのちに銚子で海船から川船に積み替えるように変わっている。
この二つのコースのうち、那珂湊から涸沼を経由して潮来に出るコースが先に開かれ、その後、銚子河口から入船するコースが一般化したとされてきたが、近年、両コースとも近世初期から利用されてきたとする説が有力になってきた。しかし、いずれのコースを辿っても寛文期(1661~72年)から元禄期(1688~1703年)には、東北諸藩から潮来を経由して江戸に廻送される物資が多かった。そのため、潮来の前川筋には仙台藩・津軽藩などの蔵屋敷や遊郭なども設けられ、潮来は港町として、また、行楽地として繁栄した。
河岸跡・屋敷跡には現在史跡碑が建てられている。
霞ヶ浦、常陸利根川、横利根川が合流する三又点に位置する牛堀は、江戸時代水運の要衡として栄え、また風にそよぐ真菰と水鳥は水郷情緒の趣があり、多くの文人墨客の心を捉えるに充分なものである。
『利根川図誌』には「霞ヶ浦の入り口なり、霞ヶ浦は至って渡り難き海なれば、此所に滞船して風を待つ故に出入りの船多くして、この河岸に集まり云々」と書かれてある。つまり牛堀は米などの物資を運ぶ高瀬船が、待機する港があったのである。
これを裏づけるのが「須田家文書」のなかにある「舟休堀麁経畧図」という絵図として残されている。それは和紙の大きさ二畳程に描かれ、北利根川から永山の鳴津浜に向かって造られており、幅6間(10.8メートル)長さ630間(1,134メートル)のドッグであった。その利用は有料で入札で決められていたことも文書によってわかる。
※須田家文書は大部分が国立史料館に収蔵される2,760点と、茨城県立歴史館に収蔵される560点であるが、上記の絵図は歴史館にある。
松尾芭蕉の『鹿島紀行』と本間道悦
俳聖・松尾芭蕉は、貞享4年(1687年)8月参禅の師の鹿島の根本寺の前住職仏頂和尚と、江戸で医師を開業し今は潮来にいる本間道悦と親交があった。芭蕉はこの年、鹿島の山の月見を志し門人曽良と宗波を伴って出た旅であった。この時の紀行文が『鹿島紀行』として知られ、『奥の細道』の2年前のことである。
道悦は延宝10年(1682年)、江戸から潮来天王町河岸の近くに転居して「自準亭」と名づけた診療所を開いていたが、俳諧にも優れ松江と号した。『鹿島紀行』はこの自準亭で書かれたものである。
道悦は元禄10年(1697年)79歳の生涯を終わるが、2代目は門人の道因に家業を継がせて、3代道仙も医業にあたった。
この道仙が、上戸の長国寺に祖父道悦と父道因二人の墓碑を建てた。4代道意5代玄琢以降は歴代水戸藩医として活躍した。
本間家は代々その後も名医を輩出、なかでも8代玄調は水戸藩主徳川斉昭に仕え、漢方のほか西洋医学を修め麻酔を使った外科手術や種痘をしたりと、近代医学を築き水戸三の丸に銅像となっていることは特筆すべきものである。
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