facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
意味というもの
自分がやっていることに意味があるのだろうか・・・そう考えた途端に、自分のそのものにも意味が見いだせなくなるときがあります。
ギリシャ神話のシジポスをご存じでしょうか。神々を何度も欺いたために罰として「永遠の苦行」を与えられました。それが、「巨大な岩を山の頂上まで押し上げること」です。ただしその岩は、頂上にたどり着く直前に必ず転がり落ちてしまうため、シジポスは永遠に同じ作業を繰り返す運命にあります。
これが、「無意味で終わりのない苦労」の象徴とされているのですが、不条理の象徴でもあります。人間にとって意味のないことがいかにつらいことかのたとえですね。
意味とは・・・と考えます。結局自分を肯定し、価値あるものと思えるということですね。思えば、モノというのも同じかもしれません。
私が故郷に帰ったのは20代の半ばですが、有田焼も機械化が進み「大量生産」の時代に入っていました。モノへの愛着というか、その価値が変わり、安く買え、大量に持てるということになったのですね。壊れるとまた買いなおす。いつでも同じものがあるからです。
人間というのは、そういう日常を刷り込んでしまいます。モノと人がどんなに違っていても、徐々に接し方が似てきます。故郷の姿を見て、「いのちが危機にある」という直感が湧きました。
いま、しきりと「生きがい」ということが言われます。特に社会に参加ができにくくなった高齢者や障害を持つ人や、病者・・・人生に事情をかかえている人たちです。「生きがいがなければ」というのは、自分の価値をそこで見出しなさいと言われているようです。
なにか、大きなものが見失われているような、そんな気がしてなりません。
https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20140311/1394527558 【祈りの小箱(115)『生きるからこそ、意味が生まれる』】より
『生きるからこそ、意味が生まれる』
大切なものを失ったときや、誰かからひどいことを言われたとき、何をやっても思い通りにならないときなど、ふと「もう生きていても意味がない」と考えてしまうことがあります。自分の人生にはもう価値がないから、生きていても仕方がないと思うのです。ですが、その考え方は逆だとわたしは思います。意味がある人生だから生きるのではなく、生きるからこそ人生に意味が生まれてくるのです。人生の価値は、周りから与えられるものではなく、自分の内側から生まれてくるものだと言ってもいいでしょう。人生の価値は、人からの評価や持っている物の多さなどによって決まるものではないのです。人生の価値は、わたしたちが、与えられた命を精いっぱいに生きることから生まれるのです。
人生を、一つの物語だと考えてみると分かりやすいでしょう。物語の意味は、最後まで誰にも分かりません。主人公が途中で大失敗したり、絶体絶命のピンチに陥ったりしても、最後まで読めばすべてに意味があったことがわかる。それが、物語というものです。もし、わたしたちが物語を途中でやめてしまったらどうなるでしょう。大ピンチの場面で、「もうこの物語には意味がない」と決めつけて物語をつむぐのをやめてしまえば、その物語は本当に意味がない物語になってしまいます。物語は、最後まで完成させなければ意味を持たないのです。物語は、完成させることによって初めて意味を持つのです。
人生という物語の本当の作者は神様で、わたしたちはそれぞれの人生の主人公と言ってもいいかもしれません。思いがけない試練に直面して、主人公があきらめて退場してしまえば、物語は台無しです。逆に、主人公が試練を乗り越えた数が多ければ多いほど、その物語は人々の心に響く物語になるでしょう。どんなことがあっても、最後まで生き抜きましょう。そうすることで、自分の人生に意味を与えましょう。
facebook山川 紘矢さん投稿記事
は、『わがたましいの遍歴』**第2章:
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第二章:祈りの家系 エルカナとハンナ ― 神にささげた子 紀元前11世紀のイスラエル――
山と谷が織りなす乾いた大地を、羊の群れが歩んでいた。私はエルカナという名の男であり、レビ族の流れをくむ敬虔な者だった。年に一度、家族を連れてシロの神殿へと巡礼することを生きがいとしていた。
私の妻、ハンナは美しく、心やさしい女性だった。だが長い間、子どもに恵まれず、涙を流す日々が続いていた。その姿を見つめながら、私はただ、彼女の魂の深さに感謝していた。
子を持たぬことが神の罰とされた時代――それでも彼女は祈り続けた。声を出さず、ただ唇を震わせて。ある日、神殿の祭司エリが彼女を見て言った。「主が、あなたの願いを聞き届けてくださるように。」数か月後、ハンナは男の子を身ごもった。その子の名はサムエル。
彼女はこう言った。「この子は、私が祈って授かった子。だから私は、この子を主にささげます。」サムエルが3歳になるころ、私たちは彼を連れて再び神殿を訪れた。
彼女はその小さな手を握りしめながら、心からの微笑みを浮かべていた。「この子は神にささげられ、やがて王に油を注ぐ者となるでしょう。」そう語る彼女の目には、涙ではなく信頼が満ちていた。
私はその時、はじめて気づいた。祈りの力が、血よりも深い絆を生むことを。
エルカナという名の生において、私は家族と共に“神の願い”に生きたのだった。
https://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E7%A4%BC%E6%8B%9D%E7%94%A8%E8%AA%9EPs32 【詩32篇「祈る」 פָּלַל パーラル】〔カテゴリー祈り〕
6節「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。」
「祈ります」と訳されたパーラル(פָּלַל) は一般的な「祈る」という動詞ですが、名詞はテフィッラー(תְּפִלָּה)です。詩篇でのパーラル(פָּלַל)の使用数は決して多くはありませんが、アブラハム、モーセ、アロン、ハンナ、サムエル、エズラたちが主に祈った祈りの動詞はこのパーラル(פָּלַל)が使われています。主の名を「呼ぶ、尋ね求める、叫ぶ、申し上げる、心を注ぎだす」とも訳されます。また、とりなしをする(仲裁する)と言う意味もあります。聖書で最初に登場する20章ではアブラハムがアビメレクのためにとりなして祈っているところにこの動詞が使われています。
聖書には歴史を動かした多くのすばらしい祈りがあります。その中でも、「ハンナの祈り」は歴史を変えた祈りのひとつです。その祈りは、エルカナという人の家庭内で起こった一つのトラブルがもたらした、いわば、「追い込まれた祈り」でした。エルカナの第一夫人ハンナは子どもがありませんでしたが、夫に愛されていました。子どものいる第二夫人のベニンナはそのことを妬み、ハンナをひどく苦しめました。ハンナはこの苦しみをただ主に訴え、心を注ぎ出して祈りました。
「心を注ぎ出す」とは、「自分の苦しみのすべてを注ぎ出す」という意味で、それを受け止めてくれる方の前でしかできないことです。どこにも向けることのできなかったハンナの心の苦しみは、ハンナをして主の前に向かわせました。その結果として、ハンナの祈りは預言者サムエルを産み出したのです。このハンナの祈りがなければ、サムエルは生まれなかったと言っても過言ではありません。
このような祈りに追い込んだのは、他ならぬ神ご自身です。追い込まれた祈りの中でハンナは一つの誓願を立てました。その誓願とは「もし、子を与えて下さるなら、その子の生涯を、主に明け渡します。」というものでした。その誓願は、単に、ベニンナへの対抗意識を越えて、祈りに答えて下さるなら、神に自分の最も大切とするものを神にささげたいとする意志でした。母親にとって自分の子は宝のような存在です。しかしそれを神に明け渡すことによって、彼女は、結果的に、歴史を動かす人物をこの世に送るという使命を果たしました。ちなみに、「サムエル」とは「神は聞きたもう」という意味です。
追い込まれて祈った祈りでしたが、そこに至るまでのすべての上に、神の隠された不思議な計画と導きがあったことを聖書は記しています。私たちもある種の行き詰まり、苦しみや悩み、トラブル、思うように行かないこと・・などを経験することがあります。それは神が私たちをして、祈るようにと導いておられる神のサインなのかもしれません。
類義語としては、シャーアル(שָׁאַל)があります。これは詩122篇6節「エルサレムの平和のために祈れ」というところに使われています。「請い求める、願う、求める、尋ねる、欲する、要求する」という意味です。
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