丈草忌

https://kigosai.sub.jp/001/archives/11513 【丈草忌】より

丈草忌(じょうそうき/ぢやうさうき) 仲春

【解説】

尾張国犬山藩士で、蕉門の俳人の内藤丈草の忌日。陰暦二月二十四日である。「猿蓑」の跋文を記している。編著に「寝ころび草」追善集に「幻之庵」などがある。芭蕉没後は、芭蕉の墓を守ってすごした。元禄十七年、四十三歳で没した。

【例句】

つれなきは比良の雪なり丈草忌  松瀬青々「鳥の巣」


https://bestcalendar.jp/articles/1368 【丈草忌 (記念日 2月24日)】より

江戸時代の俳壇を彩った一人、内藤丈草の記念すべき忌日

丈草忌とは

丈草忌は、江戸時代前・中期の俳人・内藤丈草の忌日です。1704年(元禄17年)にこの世を去った丈草を偲ぶ日として、俳句愛好家たちや歴史に興味を持つ人々にとって特別な意味を持っています。忌日は、故人を偲び、その業績を讃えるための日として日本の文化に根付いていますが、丈草忌はどのような背景を持っているのでしょうか。

内藤丈草は1662年(寛文2年)に尾張国で生まれ、犬山藩士としての生活を送りながらも、病弱のために27歳で致仕し、その後は俳句の道に進みます。俳句という芸術形態は、当時から人々の心を捉え、日本の文化として発展してきたものですが、丈草の作品はどのような魅力を持っていたのでしょうか。

彼の作品は、師である松尾芭蕉の影響を受けつつも、独自の世界観を持っていました。芭蕉の弟子の中でも「蕉門十哲」と称されるほどの高弟で、その死後も多くの人々に影響を与え続けています。しかし、彼の名前を知る人は多くありません。そんな彼の記念日について、もっと深く掘り下げてみましょう。

丈草忌は、ただ過去を振り返るだけでなく、現代においても俳句の魅力を再発見するきっかけとなり得るのではないでしょうか。俳句という形式を通じて、彼の精神性や作品の美しさを今一度、私たちが味わう機会となるでしょう。

内藤丈草の生涯

内藤丈草は、本名を本常と言い、尾張犬山藩士の家に生まれました。しかし、若くして病に倒れ、藩士としての生活を送ることが叶わず、出家して京都へと移り住みます。この転機が、彼を俳句の世界へと導いたのです。

松尾芭蕉に入門後、彼は師の死後もその教えを守り続け、純粋な俳句を追求しました。彼の作品には、自然への深い洞察と、人間の内面を見つめる鋭い眼差しが感じられます。丈草は、俳句を通じて自身の内面と向き合い、その結果として生まれた作品は、現代においても多くの人々に感動を与えています。

彼の著作には、『寝ころび草』『丈草発句集』『驢鳴草』などがありますが、これらの作品を通じて、彼の俳句に対する情熱や、生涯を通じて追求した芸術の道が垣間見えます。丈草の俳句には、どのようなメッセージが込められているのでしょうか。

丈草の作品世界

内藤丈草の作品には、静寂と動の対比が巧みに描かれています。彼の句には、時に厳しい自然の中での静かな観察がありながらも、その一瞬一瞬に宿る生命の躍動を捉える力があります。この独特の感性は、今日の私たちにも新鮮な驚きを与えるものです。

丈草の作品を読むと、彼が自然をどれほど愛し、それを詠むことに生きがいを感じていたかが伝わってきます。俳句は短い言葉の中に深い意味を込めることが求められる芸術形態で、丈草はその技術を極めた一人です。彼の句からは、四季の移ろいや生きとし生けるものへの深い敬愛が感じられるのです。

また、丈草は師である芭蕉の影響を受けつつも、自身のオリジナリティを失わない作風を築き上げました。彼の句は、時代を超えて多くの人々の心に響く普遍的な美しさを持っています。丈草が俳句に託した思いを、私たちはどのように受け止め、継承していくべきでしょうか。

俳句という文化を通じて内藤丈草を偲ぶ

丈草忌を通じた俳句の魅力の再発見

丈草忌は、内藤丈草という俳人を偲ぶだけでなく、俳句という日本の伝統文化の魅力を再発見する機会とも言えます。俳句は、自然や季節の移り変わりを五・七・五のリズムで表現する独特の詩形で、日本人の感性や美意識を象徴しています。

現代においても、俳句は多くの人々に愛され、実践されています。丈草忌をきっかけに、彼の句やその背景にある思想を学ぶことで、私たちは日本の伝統文化をより深く理解することができるでしょう。俳句を通じて、自然との対話を楽しみ、日々の生活に豊かな感性を取り入れることができます。

内藤丈草の影響と現代の俳句

内藤丈草の俳句は、後世の俳人たちに多大な影響を与えてきました。彼の句は、自然の美しさや人間の生活の一コマを切り取り、短い言葉の中に深い意味を込める俳句の本質を体現しています。

現代の俳句においても、丈草の精神は受け継がれています。俳句サークルやワークショップでは、彼の作品が教材として使われることもあります。また、俳句コンテストやイベントでは、丈草の句を題材にしたものも見られます。これらを通じて、丈草の遺した俳句の価値は、今なお多くの人々に認識され、愛され続けているのです。

丈草忌を通じて考える、俳句の現代的意義

俳句を通じたコミュニケーションの可能性

俳句は、その短い形式の中に多くの意味を込めることができるため、コミュニケーションの手段としても非常に魅力的です。SNSやデジタルメディアの普及により、俳句を共有する場も広がっています。丈草忌をきっかけに、俳句を始めてみるのも良いかもしれませんね。

私たちは、丈草忌を通じて、俳句という文化を未来に繋げていく責任を持っています。内藤丈草のような偉大な先人たちの遺した文化を、どのように次世代に伝えていくか、それは私たち一人一人の意識にかかっています。丈草の句に触れ、その精神性を理解することで、私たちはより豊かなコミュニケーションを築くことができるでしょう。

俳句という文化遺産の継承

俳句は、日本が世界に誇る文化遺産の一つです。丈草忌を通じて、私たちはその価値を再認識し、大切にしていく必要があります。俳句を学び、創作することで、私たちは内藤丈草の精神を受け継ぎ、文化遺産としての俳句を未来へと繋げていくことができます

俳句を通じて、私たちは自然や人生の美しさを再発見し、心に残る言葉を紡ぎ出すことができます。丈草忌は、そうした創造的な活動を促す素晴らしい機会となるでしょう。内藤丈草の句を手本に、私たちも日々の感動や思いを五・七・五のリズムで表現してみてはいかがでしょうか。


https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09611/ 【春雨やぬけ出た侭(まま)の夜着(よぎ)の穴 ― 丈草(じょうそう)】より        深沢 眞二 【Profile】

俳句は、複数の作者が集まって作る連歌・俳諧から派生したものだ。参加者へのあいさつの気持ちを込めて、季節の話題を詠み込んだ「発句(ほっく)」が独立して、17文字の定型詩となった。世界一短い詩・俳句の魅力に迫るべく、1年間にわたってそのオリジンである古典俳諧から、日本の季節感、日本人の原風景を読み解いていく。第11回の季題は「春雨」。

春雨やぬけ出た侭(まま)の夜着(よぎ)の穴 丈草(じょうそう)(1695年作、丈草書簡)

丈草は芭蕉晩年の弟子です。尾張の国(現・愛知県西部)の犬山城下の武士・内藤家に生まれ、27歳で出家し、28歳の時に芭蕉の門人となりました。34歳の時に芭蕉が亡くなったため、師の墓のある近江の国(現・滋賀県)の義仲寺の近くに仏幻庵(ぶつげんあん)を構え、3年間の喪に服しました。この句の書かれた書簡は、芭蕉が没した翌年に丈草から伊賀(現・三重県西部=芭蕉の故郷)の知人に宛てたものです。「芭蕉先生が育った家を訪ねてみたいが、私は病身の上にものぐさで、今年の春も訪ねずに終わりました」などとあります。

この句はその自らの「ものぐさ」ぶりを、「ぬけ出た侭の夜着の穴」で描き出しています。「夜着」とは掛け布団のこと。目を覚まして夜着から抜け出てみたら、そこには自分の体の大きさの穴がぽっかりとあいていたというのです。そして、立ち上がって窓から屋外を眺めて、「春雨が降っていたのか」と初めて春雨に気付いた軽い驚きが、「春雨や」です。

春雨は、温かさを伴いながら細かく音もなく降るといった風情で詠まれる季語でした。丈草は春雨が静かに降るさまを見て、春のけだるさをひときわ強く感じたのでしょう。「穴」に、つい昨年の冬までそばにいた師・芭蕉が今はもういないことからくる虚脱感を読み取ることもできます。


https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20000130,20030112,20060121,20110925&tit=%93%E0%93%A1%8F%E4%91%90&tit2=%93%E0%93%A1%8F%E4%91%90%82%CC 【内藤丈草の句】より

 狼の声そろふなり雪のくれ

                           内藤丈草

内藤丈草(1662-1704)は尾張犬山藩士、のちに出家した人。蕉門。もう一度、心をしずめて読み返していただきたい。げにも恐ろしき光景。心胆が縮み上がるようだ。狼の姿は見えないが、見えないだけに、恐怖感がつのる。しかも、外はふりしきる雪。そして、日没も間近い薄暗さ。あちらこちらから間遠に聞こえてきていた鳴き声が、ほぼ一所にそろった。「さあ、里にやってくるぞ」と、作者は恐怖のうちに身構えている。三百数十年前のこの国では、狼がこのように出没していたことが知れる。冬場にエサを求めて里にやってくるのは、カラスなどと一緒だ。句は、柴田宵曲『新編・俳諧博物誌』(岩波文庫・緑106-4)で知った。宵曲は「狼の声の何たるかを知らぬわれわれでも、この句を読むと、丈艸の実感を通して寒気を感ずるほど、身に迫る内容を持っている」と、書いている。「声そろふ」で、きっちりと焦点が定まっているからだ。このように、昔は人と狼との距離は近かった。「送り狼」という言葉が残されているほどに……。「日本における人と狼との間には、慥(たしか)に他の野獣と異ったものがあるので、人対獣の交渉というよりもむしろ人対人の交渉に近い」と、宵曲は書いている。(清水哲男)

 うづくまる薬の下の寒さ哉

                           内藤丈草

前書に「はせを翁の病床に侍りて」とある。芭蕉臨終直前の枕頭で詠んだもので、去来によれば、芭蕉が今生の最後に「丈草出来たり」と賞賛した句だという。だが、正直に言って、私にはどこが「出来たり」なのかが、よくわからない。凡句というのでもないけれど、去来が「かゝる時は、かゝる情こそ動かめ。興を催し、景をさぐるいとまあらじとは、此時こそおもひ知りはべる」と書いていることからすると、異常時にあっての冷静さが評価されたのだろうか。こういう緊急のときには、日ごろの蓄積が自然に出てくるというわけだ。ところで、芥川龍之介の『枯野抄』は、この句に触発されて書かれたことになっている。読み返してみたら、句への直接の言及はないが、彼もまた「出来たり」とは思っていなかったようだ。それは、師匠の唇をうるおした後に、不思議に安らかな気持ちになった丈草の心の内を描いた部分に暗示されている。「丈艸のこの安らかな心もちは、久しく芭蕉の人格的圧力の桎梏に、空しく屈してゐた彼の自由な精神が、その本来の力を以て、漸く手足を伸ばさうとする、解放の喜びだつたのである。彼はこの恍惚たる悲しい喜びの中に、菩提樹の念珠をつまぐりながら、周囲にすすりなく門弟たちも、眼底を払つて去つた如く、唇頭にかすかな笑(えみ)を浮べて、恭々しく、臨終の芭蕉に礼拝した。――」。すなわち、掲句はいまだ「芭蕉の人格的圧力の桎梏」下にあったときのものだと、芥川は言っている。むろん一つの解釈でしかないけれど、去来のように手放しで誉める気になっていないところが、いかにも芥川らしくて気に入った。ちなみに去来は、しょせんは「薮の中」だとしても、小心者として登場している。(清水哲男)

 狼も詠ひし人もはるかなり

                           すずきみのる

季語は「狼」で冬。「山犬」とも言われた日本狼(厳密に言えば狼の亜種)は、1905年(明治三十八年)に奈良の鷲家口で捕獲されたのを最後に絶滅したとみられている。したがって、ここ百年ほどに詠まれた狼句は、すべて空想の産物だ。といって、それ以前に人と狼とが頻繁に出会っていたというわけではなく、たとえば子規の「狼のちらと見えけり雪の山」などは、いかにも嘘っぽい。実景だとすれば、もっと迫力ある句になったはずだ。そこへいくと、江戸期の内藤丈草「狼の声そろふなり雪のくれ」の迫真性はどうだろう。掲句はそんな狼だけを主眼にするのではなく、狼を好んで「詠(うた)ひし人」のほうにも思いを寄せているところが新しい。で、この「詠ひし人」とは誰だろうか。むろん子規でも丈草でも構わないわけだが、私には十中八九、「絶滅のかの狼を連れ歩く」と詠んだ三橋敏雄ではないかという気がする。絶滅した狼を連れ歩く俳人の姿は、この世にあっても颯爽としていたが、鬼籍に入ったあとではよりリアリティが増して、どこか凄みさえ感じられるようになった。三橋敏雄が亡くなったのは2001年だから、常識的には「はるかなり」とは言えない。しかし、逆に子規などの存在を「はるかなり」と言ったのでは、当たり前に過ぎて面白くない。すなわち、百年前までの狼もそれを愛惜した数年前までの三橋敏雄の存在も、並列的に「はるかなり」とすることで、掲句の作者はいま過ぎつつある現在における存在もまた、たちまち「はるか」遠くに沈んでいくのだと言っているのではなかろうか。そういうことは離れても、掲句はさながら話に聞く寒い夜の狼の遠吠えのように,細く寂しげな余韻を残す。『遊歩』(2005)所収。(清水哲男)

 ねばりなき空に走るや秋の雲

                           内藤丈草

句を読んでいると、たまに、ああこれは作り過ぎているなと感じることがあります。こんなに短い表現形式なのに、盛りだくさんに技巧を凝らすと、そういうことになるようです。所詮は作り物なのだから、作品の中から作意を完全に消し去ることはできません。だから凝った表現は、せめて一句に一か所にしてもらいたいものです。今日の句、凝っているのはもちろん「ねばりなき」のところです。それ以外には特段解説できるようなところはありません。さっぱりしています。このさっぱりが、なかなかすごいのです。雲が秋の空に抵抗を感じないように、句を作る所作にも、余分な抵抗はなさそうです。言葉は自然に生まれ、生まれたままの姿で句に置かれ、秋空を滑る雲のように、読者の目の中に滑り込んできます。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


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