Facebook長岡 美妃さん投稿記事
「我思う、ゆえに我あり」
近代哲学の父と言われるデカルトの言葉である。昨日の令和哲学カフェではデカルトを取り上げた。
デカルトは世界を一つのシンプルな原理で説明しようと試みる。あらゆるものを懐疑し、最後に残る懐疑できないものを第一命題として思惟の基本軸に据えなければならないと考えた。そして導き出した命題が上記の「我思う、ゆえに我あり」である。
我思う、、、この言語の強烈な呪縛が現代にまで至っている。個人主義の啓蒙もここから端を発していると言えるだろう。我、すなわち「自分」という概念がデカルトの本心とは違った形で一人歩きし、人間は「身体の自分」を世界から切り離していったのだ。
しかしデカルトの言う「我」とは、決して身体の個人のことではない。「我」とは世界を認識する主体「心」であり、その主体が思う(認識する)から世界はあるのだ。すなわち、「我=心が夢見ている、それが世界だ」と言っているのだ言えよう。
デカルトは心身二元論を唱えているが、それは身体(存在)は心が夢見ている世界(幻想)であるという一元論とも読み解ける。
令和哲学は不二一元を提唱し、この世界は目を開けてみる夢であることを明確に言う。そして我々の認識が「世界は実在でない」という出発に至ったなら、人間は死の恐怖から解放され、ゆえに生存のための争いはなくなる。そのことを世に問うている。
文明を動かすのは哲学である。哲学の第一命題がしっかりと樹立されない限り我々の世界は歪み続ける。つまりこの先も人間本来が生み出す真の世界ではないことが起こる続ける。
だから令和哲学は世間に流布する。「第一命題、自分と自分の宇宙は実在しない」これを受け止める時がきています!と。
ゲシュタルト崩壊・・・
バリのウブド、ベリーダンスのリトリートでの出来事だった。
「鏡の前で一番セクシーな顔、セクシーなポーズをして立つ。そして5分間、その顔を見つめなさい。」
はじめは恥じらいや照れ臭さが脳を占めていたが、時間が経つにつれその考えに留まっていられなくなっていく。そして鏡の中の自分を見つめることへの集中が高まる。2分経過、3分経過、、、脳は私の姿形の全体像を捉えられなくなり、目の前の私が私ではなくなっていく。。。「あなた、誰?」こちらをじっと見つめる鏡の中の私に尋ねる私がいる。この時がデカルトの言う「我思う、ゆえに我あり」の我がベールを潜って出てきた瞬間なのだろう。
小さな身体が私だと思っている。また小さな身体の中から世界を見ていると思っている。しかしそれは錯覚であり、自分の身体を含む世界、それを見つめている意識だけがあった。世界とは鏡に映し出された模様であり、言語機能を持った意識は鏡の中の模様を切り取り、各々に名前をつけて分割していく。
では「世界を映し出している鏡とは何か?」である。
意識が鏡を見つめている、と言ったがそれは本当だろうか・・・いや、そうではない。それもまた錯覚であり、実は鏡そのものが意識だったことに気づく。鏡に映る存在の最小単位の点が眼であるかのように、存在の深淵から世界を観ている。つまり、意識即存在、存在即意識なのだ。
こうしてみると人間は幾重もの錯覚に陥っていることが分かる。この深い錯覚世界の中では、自他の分離があり、身体の私がいるという強烈な思い込みが起こる。その為、私という存在は存在孤独と存在不安に陥るのだ。
大雑把な五感覚と言語のトリックを見破る時、人間は錯覚から目覚めることができる。その為には「存在の最小単位」=「言語(要素命題)の最小単位」を知ることなのだ。21世紀になった今、その新学問が完成した。それこそ、私たちがBest Being塾で伝えたい「認識技術 nTech」なのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=CuI-KFW6TAw
https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama/e/bb0d860e9f63b1a0d86e335e7703df40 【水谷 修著、「デカルトと般若心経」・・・西洋と東洋の哲学の対比】より
7月21日の読売新聞の11面に作家の水谷 修氏が、「デカルトと般若心経」と題した文章を発表しました。私はそれを読んで、これほど簡明で分かりやすい西洋と東洋の哲学の対比は無いと思いました。お読みになった方々も多いとは思いますが、あまりにも明快な対比なので以下に再録させて頂きました。
======水谷 修著、「デカルトと般若心経」============
私は、中学・高校時代、「死とは何か」、「生きることの意味」など、究極の問いへの答えを求めました。
大学は哲学科へ進みました。残念ながら、未だに哲学は、答えを与えてくれません。哲学は、ものの見方、考え方です。便利な道具ですが、それまでのものです。
哲学を一から学び、そしてあっという間にその限界を知りたいのなら、次の二冊がお勧めです。
まずデカルトの「方法序説」(岩波文庫)。有名な「我思うゆえに、我あり」はこの本に書かれています。哲学は真理を求めます。デカルトにとって、すべて疑わしいものを捨てていって、最後に残ったのは、疑っている自分の存在でした。これが全ての哲学、科学の出発点となりました。でも罪深い人です。私と私が見る世界、本当は、私も世界に溶け込んでいるのですが、これを分けてしまいました。これが人間の心に、孤独や不安あるいは、心の病を生む原因となりました。
デカルト以降の哲学はもう一度、世界と私を一つにすることが、大きな課題でした。しかし未だにその答えは出ていないようです。
次に岩波文庫などで読める「般若心経」を味わって下さい。何度も。そして驚いて下さい。
仏陀は、すでに二千五百年前には、この答えを見つけていました。「色即是空」。「色」、すなわちデカルトのいうすべての存在根拠、「我思う」を、「空」すなわち、実体のないものと切り捨てています。すごい。世界へ挑むむのではなく、その中で優しく生きる知恵を与えてくれます。(終わり)
====読後の私の雑感=====================
哲学は、宇宙で起きる現象の因果関係の考え方や宇宙観とよく言われています。
従って科学は哲学の一分野です。ところが日本の大学では物理や化学を哲学の一分野とは教えません。工業技術を改善する学問として教えます。富国強兵の道具として教えます。
私は大学で熱力学という学問体系を勉強しました。日本の工業の進歩に役に立つから勉強しなさいと教えられたのです。
それがアメリカへ留学したら熱力学は優れた哲学の一体系ですと教えているのです。そして全ての学説や理論体系には必ず適用範囲が決まっていて弱点があると強く指摘します。ですから熱力学の弱点を理解すれば熱力学を理解したことになりますと教わるのです。
私はアメリカの理工系の大学院で勉強して哲学博士というものを頂きました。
インド哲学もギリシャ哲学も一切勉強しないで頂いたのです。
したがって欧米では科学は哲学の大きな、そして重要な分野なのだと理解したのです。
デカルトのように疑っている自分の存在が、その周囲の自然界を客観的に考えれば科学が生まれます。
上の水谷 修氏の文章を読むと何故西洋で近代科学が発展して、東洋では科学が進歩しなかったかが明快に理解できるのです。
その事を教えて下さった水谷 修氏へ感謝申し上げます。(終わり)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
https://newscast.jp/news/5057908 【梅雨が決定づけた日本人の精神性とは⁈ 森上逍遥 著『侘び然び幽玄のこころー西洋哲学を超える上位意識』】より
「わびさび」は日本人の生きる哲学
質素で孤絶の相である「侘び」、孤高で威厳を漂わせる「然(さ)び」―日本人が精神の支柱としてきた、わびさびを、現代に生きる哲学として、さらには、死生観、悟りの境へとつながるものとして据え直した話題作です。
「海外でも知られるWabi-Sabi」
「侘び然び(侘び寂び)」の美学(哲学)は、海外でもWabi-Sabi とか、wabisabiとして知られています。日本人の世界観や、不完全なる美、また仏教の無常観と結びついたものと説明されています。しかしながら、日本人である私たちは、果たして、「侘び」と「然び(寂び)」について、本当に理解しているでしょうか。
この本を読めば、侘び、然び(寂び)、幽玄の概念も、それぞれの違いも明瞭になります。世界に冠たる日本の精神文化の真髄を説き明かし、従来の学説に異論を投げかけた衝撃の書です。
あなたは「侘び然び(侘び寂び)」について説明できますか
森上逍遥 公式ホームページより、本書の解説をご紹介しましょう。
真実の歴史は、下層の民衆たちによって創られてきたことを人びとは忘れてしまっている。曽てこんな「わびさび幽玄」本はなかった。侘び然びわびさびをこうも明瞭に解説し得たものは他にはない。画期的な内容ということが出来る。従来の学説を覆し、本物の侘び然びわびさび幽玄を語っている。風は限りなく風らしく、光は限りなく光らしく、大地は限りなく大地らしく土の薫りを醸し出す。その人生を癒やす為に日本人の魂に根付いてきた「侘び」観。人々の苦悩を呑み込み、悲しみを和らいで日本人の精神性と人格とを高めてきた。日本人の歴史そのものとしての侘びは、天皇から民衆までも隔たりなく同位に包んで現代に伝えられてきた。禅の哲学を取り込み、無一物への志向を強めながら、人々の超越する想いを表象してきた。日本史2670年の底辺に生きた民衆の悲しみとその忍耐性、そして1000年に及ぶエリートたちの然びさび(寂び)とを追究する知的ロマンの旅である。
果たしてデカルトやカントにも勝る程の哲学性が有されているのか、その侘びの源流にも触れていく。
日本人の精神の支柱と言われながら、日本人の大半がその説明が出来ないという恥ずべき現実と「侘び然びわびさび」の不可解さ。このままではこの国から絶滅危惧種化しそうな勢いで、忘れ去られようとしている。いま、ここで立ち止まり、日本民族としての精神について、真正面から問いかけてくる斯書に読者は腕組みをして、真剣に思索への道を歩み出すだろう。
これは日本人としてのアイデンティティを確立する為の必須の体験である!
森上逍遥公式ホームページ『侘び然び幽玄のこころ』
日本人を決定付けた梅雨の存在
本書 第一章 <「侘(わ)び」の世界>「日本人を決定付けた梅雨の存在」
次のように始まっています。
「しろしかねー」
筆者が幼い時よりしばしば聞かされた言葉である。「しろしい」の変化した語である。それは、梅雨の時のみに用いられた季節限定の言葉である。筆者が生まれ育った九州は、関東などでは全く思いもしない程の量の雨が降る地域である。ただの普段の雨も関東の人が出遭うと豪雨という驚きになる程に、雨に対する本州の人たちとの感覚の差は埋め難いものがある。経験的には本州の人たちも台風を知っているのだが、毎年当たり前の様にその暴風雨に晒される九州人にとって、それは日常の一コマであり受け入れなければならない「定め」でもあるのだ。その度に川は氾濫し田畑は荒れるのである。
だが、筆者はそんな台風が嫌いではなかった。学校が休みになるからばかりではない。その荒れ狂う大自然の猛威に晒されていることが、何故か心地良かったからである。海は荒れ狂い小さな船を呑み込んでいく。その様な時に船に乗れば、巨大な波の中にすっぽりと船影は隠れ、自分の目線の数メートルも上から、その荒れ狂った波が襲ってくるのである。それは当時の筆者にとって生きているという強い実感が持てる「生かされた精神」の満ちる時であった。幼い時より一度としてそれを怖いと感じたことはなかった。
台風一過と言うが、その時の海辺は砂浜を抉えぐり取られ、寒々とした光景へと変わっている。しかしそれも日と共にすぐに元に戻り、また綺麗な浜辺が出現する。何事もなかったかの様にまた平穏な日常が始まるのである。この循環を一つの法則と理解する人としない人の知性の差は大きい。自然を介して輪廻無常を学び取らない人は愚者と呼ばれても仕方がない。
この台風の時に「しろしい」とは誰も口にしない。それは、梅雨の時にのみに用いられる言葉であるのだ。ところが、後に関東に移住した筆者は六月になって驚いたものである。なんと関東には梅雨が無かったからである。有るのは、ただどんよりと曇った日々が続くだけで、しかもたまに降るだけの凡そ雨とは思えない小雨が散見せられただけだったからだ。しかしそれは貧乏学生にとって随分と助かった。下宿の窓の隙間から雨粒に襲われなくて済んだからである。よくよく生活してみると、関東にはほとんど台風らしき台風はやってきたことがなく、梅雨もなく、これでは大自然から学ぶ所の精神の昂揚や深い洞察や諦観といった哲学性は、獲得仕得ないと感じたものである。
この台風の時に「しろしい」とは誰も口にしない。それは、梅雨の時にのみに用いられる言葉であるのだ。ところが、後に関東に移住した筆者は六月になって驚いたものである。なんと関東には梅雨が無かったからである。有るのは、ただどんよりと曇った日々が続くだけで、しかもたまに降るだけの凡そ雨とは思えない小雨が散見せられただけだったからだ。しかしそれは貧乏学生にとって随分と助かった。下宿の窓の隙間から雨粒に襲われなくて済んだからである。よくよく生活してみると、関東にはほとんど台風らしき台風はやってきたことがなく、梅雨もなく、これでは大自然から学ぶ所の精神の昂揚や深い洞察や諦観といった哲学性は、獲得仕得ないと感じたものである。・・・・・(続く)
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