https://ja.monumen.to/spots/2899 【鞘堂地蔵尊の由来】より
足利義満 栃木県 上三川町 日 英 中(簡) 案内板
鞘堂地蔵尊の由来
實政六年(一七九四年)に書れた天保十四年(一八四三年)に発行された紀行文によれば室町時には足利義満 が将軍の時代には将軍と将軍の争うことが多くこの地方でも小山と宇都宮の合戦が発生し戦争の中心地となった所です 茂原合戦ともいわれています
この地内には地蔵院とゆうお寺がありました戦争で焼かれ多くの人が亡くなりました村人達は戦死者の散乱した刀の鞘を拾い集めてお寺の焼後に埋め小さなお堂を作りその中に石仏の地蔵様を安置しました
それが鞘堂とゆう地名になったそうです
明治・大正・昭和の初めには地蔵尊入口両面には桜の並木があり安産地蔵様として親しまれ、お祭には露天商がたち並び手作りの舞台で演劇や踊りで大勢の参拝客で賑わいました。今ではその桜の木もなくなり昭和五十三年にお堂も老朽化で解体され大勢の方々のご協力により御覧のようなお堂が新築されました 地蔵尊の中には地蔵様の頭五~六寸大と、日本画で全身像が額縁で安置されています
鞘堂のお墓にはお寺の住職のお墓もあり、寺田とゆう地名も残っています 鞘堂地蔵尊は安産地蔵として古くから男の子は白、女の子は赤と細い紐を作り安産のあとに二本かいすことになっています
このように鞘堂地蔵尊はこの地の名所として古くから知られているようです
お祭り(縁日)旧三月二十四日 壱万灯 六月二十四日 念ずれば花ひらく 鞘堂自治会
https://tochigi-burg.com/sayadou.htm 【鞘堂地蔵】より
読み・・・さやどうじぞう 所在地・・・栃木県河内郡上三川町鞘堂
築城年・・・不明 築城者・・・不明 主な城主・・・徳川吉宗
裳原の戦い跡
1380年、宇都宮基綱と小山義政が戦い(裳原の戦い)、この戦いによる戦死者約280名あまりを埋葬。その上に御堂を建てことから、「鞘堂地蔵」と呼ばれた。なお、鞘堂地蔵の「鞘堂」とは、戦死者の刀の鞘を埋めて供養したことによると言われている。
吉宗の小休所
時が過ぎ、徳川8代将軍吉宗が日光社参の際、鞘堂地蔵が小休所となったという。
<現在の状況>
上三川町と下野市(旧石橋町)の境目に、鞘堂地蔵がある。細い道だが、鞘堂公民館の駐車場に車をとめることができる。
http://aspa.starfree.jp/tabi/nikko/nikko_7.htm 【日光街道を歩く 第7回
石橋宿~宇都宮宿】より
3月28日~29日の予定で、妻を誘って栃木県日光湯元温泉取材を兼ねて、前回の到着地点の石橋宿から歩くことにした。今回も車で移動し、午前8時に石橋駅に到着。妻にグリムの駅舎を見せて、もう一つどうしても見せたいと「小金井の一里塚」まで戻ろうとしたが見つけられず、石橋駅の近くの開雲寺に戻り、車の駐車を頼んでみた。
開雲寺 寺を囲む白壁の塀は、丸い銃眼や長方形の矢狭間(やざま)が造られている。お寺の敷地はとても広く、おばあ様が出られ、快く許可していただいた。
天候は荒れ模様の天気とかで、雨傘持参の歩きとなる。
開雲寺を8時35分出発。妻は早くもお手洗いに行きたいと言い出し、やむなくマックでアップルパイを頼みトイレを借りる。このあたり、大谷石造りの塀や土蔵が目立つ。防火に効果があるといわれるがどこも相当古く痛んでいる。右手の石橋あやめ園を過ぎ、9時「下古山」を通過。石橋ホテルの先、右手に鞘堂地蔵尊に着く。
鞘堂地蔵尊
堂内に納められたご本尊はすらっとした細身だ。1382年(天授6年)、小山・宇都宮合戦の折、戦死した者の鞘を集めて埋め、そこにお堂を建てて地蔵を安置したのでこの名がついた。
9時23分、北関東自動車道の高架をくぐる。この先の自動車教習所から左奥が陸上自衛隊宇都宮駐屯地で、そのせいか上空をヘリコプターが騒音をたてて旋回している。右手に「東京醤油とんこつラーメン馬力」の平屋造りの家屋がある。屋根のひさしにうずくまっている猫がいる。妻が「猫だわ」というので近寄ってみると、作りものの猫だ。「なるほど、昭和メトロ家屋にふさわしいオブジェか」と妻と関心しきり。
9時丁度に宇都宮市へ入る。9時42分、「茂原自衛隊前」を通過する。手前の西松屋ベビー洋品店前に本陣跡碑が、対面に脇本陣跡芦屋家があったらしいが、見逃してしまう。石橋からここまで6.4km歩いたか。雀宮駅前を通過し、雀宮神社へ着く。ここで仕事のトラブルの電話が来て、しばらく処理に時間がかかる。
雀宮神社の由来は諸説があり、雀によって助けられた村人の話、樹木が多く雀が多く住んでいたとか、小倉百人一首の歌人藤原実方縁の話とか。仕事にとられた時間を回復すために急ぎ足で黙々と歩く。
雀宮神社
「横田新田」、「台新田」、富士重工の角「西原」を通過する。JR日光線を過ぎて、11時58分十字路の「不動前」で左斜め前の道へ行く。手前大型駐車場でジャンパー姿の警備員のおじさんに「日光街道を歩いているのか?がんばって」と声をかけられる。この地の由来の不動尊は、高さ50cmほどの石造で宇都宮都朝綱の建立といわれる。
東武宇都宮線のガードをくぐると左手に南新町の大ケヤキが目に入る。回り込んで見に行く。これは凄い。根廻が20mもある樹齢800年と記載される県の天然記念物だ。妻を根っこに立ってもらい写真を撮ると幹も太さがよく判る。近くの紅梅の香りがぷーンと漂ってくる。台陽寺の子育て地蔵尊や戒壇石、熱木(あつぎ)不動尊、国指定重要文化財の銅像造り阿弥陀如来坐像を本尊に持つ一向寺を軽く見ながら北進する。茅葺の山門が美しいといわれる報恩寺にお目にかかりたいと気を配りながら歩いたが見逃してしまったらしい。国道119号線T字路に突き当たる。12時37分、地方裁判所を右折し、郵便局の隣の駐車場あたりが本陣跡(青木家)。今は何も残っていない。宇都宮宿には本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅館が42軒あったという。
12時45分、近くの蕎麦屋南部屋で昼食をとる。私は夫婦蕎麦(野菜天ぷら付)、妻は刺身定食でサーモン、イカ、鮪のお刺身と冷奴、マカロニサラダ、味噌汁。天候の良い中の旧道歩きで気分爽快。ただ右足膝の裏が痛み、もう潮時かな。この先は宿(日光湯元温泉)へ直行しよう。午後から雨模様との天気予報が見事にはずれ、1泊2日の旧道歩きは幸先が良い。路線バスでJR宇都宮駅へ移動する。路線バスの運転手さんが凄い。車椅子のお客が降りるときに運転席を離れ、固定されたお客の車椅子を押して外まで案内していた。俣、目の不自由な方が乗り込むと、言葉で座る位置を適切に声をかけていた。その対応がてきぱきと適切で感心した。駅構内で駐車させていただいた石橋宿の開雲寺に御礼のお菓子を購入した。普通列車が少なく、13時50分まで待たされた。二つ目の駅・石橋駅に戻る。開雲寺の社務所に立ち寄り御礼の菓子折りを届け、駐車場を後にする。
さあ、ここからは一気に本日宿泊の湯元板屋へ、東北自動車道鹿沼インターから日光宇都宮道路を経由して清滝インターへ。ここから日光いろは道路を登って、中禅寺湖、戦場ヶ原を経て日光湯元温泉へ。本日の宿泊の湯元板屋には、これまで二度ほど宿泊したことがある。今回はホームページに紹介する取材と他に日光グランドホテルも見たいと思った。湯元板屋での1泊取材記は近くご紹介する。(2006.4.4)
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