日本人の美意識と死生観は自然災害の多さに起因?

ako kimizuka@ako13LA

日本人の美意識と死生観は日本列島の自然災害の多さに起因していると感じる

侘び寂び的なものもそこから来てるんじゃないのかな

“水に流す“

世界がどうなろうとも飄々と生き続けるポテンシャルが日本人にはあるんだと改めて思う


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📝NEW連載|うしろむきの〈復興〉論

阪神淡路大震災から30年の言葉 #1  世直し、立て直し、やり直し

https://distance.media/article/20241210000371/

高森順子(社会心理学者/「阪神大震災を記録しつづける会」事務局)

被災後に溢れざるを得なかった「前向き」な言葉の陰で、どんな言葉が語られ、また語られてこなかったのか。

【阪神・淡路大震災30年の言葉:世直し、立て直し、やり直し】 高森順子

「がんばろう神戸」という掛け声とともに復興を推し進めてきた阪神・淡路大震災から30年。被災地に溢れざるを得なかった「前向き」な言葉のかげで、どんな言葉が語られ、また語られなかったのでしょうか。

10歳で震災を経験し、「阪神大震災を記録しつづける会」の事務局を引き継ぐなど、災害の記録や記憶の言葉に向き合ってきた社会心理学者・高森順子さんは、2023年から、30年の間に被災地で生まれた言葉を辿り直すフィールドワークを始めました。子どもとして大人の「肩越し」に見てきた復興の日々を振り返りながら、未来へ駆動する「前向き」な言葉ではなく、別の言葉で「震災後」を語り直せないかと考えています。

2025年3月まで全6回、神戸や他の被災地で出会った言葉をつなぎ、これまでとは違う「震災後」の語り方について考える新連載です。

歌えなかった歌

『しあわせ運べるように』という歌がある。 地震にも負けない 強い心を持って

 亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に生きてゆこう

神戸市内の小学校や追悼式典、成人式などでいまも歌い継がれるこの歌は、阪神・淡路大震災が起きた1995年、神戸市内の小学校で音楽教諭を務める臼井眞氏によって作詞作曲された。震災の追悼やメモリアルに立ち会ったことがある人や、それらをテレビで見たことがある人なら、一度は耳にしたことがあるかもしれない。いまでは、2004年の中越地震、2011年の東日本大震災など、他の被災地でも復興の歌として歌われている。

これまで私は、この歌について言葉にすることをためらってきた。これを言葉にすることから、当時を思い出すことをはじめたい。

神戸市内の人口島に住む10歳の私は、41階建ての高層マンションの4階の自宅で被災した。滑り込んだダイニングテーブルの脚を両手で掴みながら、絨毯と脚の境目をじっと見つめ、揺れが収まるのを祈っていた。難破船のようにギイギイと音を立てて軋むマンションは、いま思えば免震構造によって「あえて」揺れ続けていたわけだが、当時の私は知る由もなかった。「マンションが折れる」「死ぬ」と思った。

被災から2カ月程度経った頃だろうか。再開した小学校で『しあわせ運べるように』という歌を知った。42人のクラスは6人に減っていた。高層階に住んでいた同級生は、エレベーターが止まったマンションで生活を続けることができなかった。かれらのほとんどは、京都や大阪に疎開した。

一度、学校で歌った記憶がある。ただ、自分がどんな声で、どんな表情で、歌ったのか、覚えていない。先生が喜ぶように、表情豊かに、大きな声で歌ったのかもしれない。顔面蒼白、息も絶え絶え、歌ったのかもしれない。不貞腐れながら、口を尖らせ、歌ったのかもしれない。30年経ったいまではその記憶はおぼろげで、どうにも思い出せない。

私はこの歌が大嫌いだった。

「地震にも負けない? どうやったら勝てるん?」

「強い心? どうやったら強くなれるん? 弱い心のひとはどうするん?」

歌詞のすべての文節に怒りを覚えた。歌はこのように締めくくられる。

 響きわたれぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに

 届けたいわたしたちの歌 しあわせ運べるように

歌声の響く場に居られるようになるまで

大人になり、曲がりなりにも人文社会科学の研究者になった私は、あの当時の怒りの背景を学術的に読み解けることを知った。被災は、自らの意志と、それにもとづく責任が宙吊りになる事態である。自らの手ではどうにもコントロール不能な事態にたいして、なんとか即興的に応じていくことを余儀なくされる。生成流転する事態に応じられなかった者は、精神的にも、身体的にも、振り落とされていく。被災するということは、地震という揺れ、そして、その後に続く環境の変化という揺れに、身を投じることを意味する。被災者は、ときに身を任せ、ときに抗いながら、揺れとともに生きていく。

そのような被災という事態にたいして、この歌は、自らの意志と責任が駆動することを期待し、「負けない」「強い心」を持ちなさい、といっている。もはや死者は自らの思いを言葉にできない一方で、生者の「ぼくたち」「わたしたち」が一方的に「亡くなった方々の分も」生きると歌っている。そしてこの歌は、学校で子どもたちに合唱させるという、歌うか歌わないかをほとんど選択できない場で、歌声に変わっていく。三重の理不尽をもつ歌。だから、子どもの頃の私も、研究者になった私も、この歌を歓迎することはできない。

けれど、震災30年を目前に控えた2024年のいま、私はこの歌の存在は認めたい、という思いがある。

震災の記録や表現を研究してきたことから、この歌が歌われる場に居合わせる機会は多かった。これまではこっそりイヤフォンを耳に突っ込んで別の曲を流し聞いたり、歌が聞こえる場所からそっと遠ざかったりして、この歌とまともに向き合うことを避けてきた。この歌の存在をできるだけ見ないで、なかったことにしてきた。ただ、いまはこの歌の存在に向き合えるように感じている。この歌の歌声が響く場に居られるようになったと思っている。

なぜ、30年経ったいまになってこの歌を認められるようになったのか。10歳で被災した私は、40歳の中年になった。歳をとることで、上から降ってくる言葉にたいする反抗的な精神が摩耗したというのもあるかもしれない。よくいえば「丸くなった」、悪くいえば「鈍感になった」。ただ、それだけではないとも思っている。私は、この歌をつくった臼井眞氏が当時置かれていた状況を想像し、かれが痛みを抱えていたこと、そして、かれにとって歌をつくることは痛みを手当てすることにほかならないことだったと、30年かけてようやく理解しはじめた。

かれは震災で東灘区の自宅が全壊し、勤務する小学校で避難住民の対応に追われていた。身を寄せていた親戚宅から、慣れない避難住民の対応をする日々。かれは2022年の取材で当時をこう振り返っている。「精神的におかしくなりそうだったんですよ。避難している方、いままでやったことのない避難所の中で待ち受けているものとか、自分のいまの精神的な重さの中で本当に苦しかった[★01]」。そんななか、そばにあったB4の紙に鉛筆で走り書きし、わずか10分で生まれたのがこの歌だったという。

私は、「しあわせ運べるように」は、かれの手記だと思うようになった。私が一番受け入れ難い文節「亡くなった方々の分も」という言葉に、当時のかれのままならぬ思いが滲んでいる。「ナクナッタカタガタノブンモ」。この言葉の響きには、思わず声に出したくなるなめらかさも、文学的なふくよかさも感じられない。まるで地震によってひび割れたコンクリートのようにガタガタとしている。のびやかな子どもたちの歌声はつんのめり、リズムに乗って跳ねることも許さない。稚拙とも思えるようなこの言葉には、かれが震災で負った傷や痛みがそのままに含まれている。かれにとってこの歌は、負ってしまった傷や痛みとなんとか折り合いをつけて歩き出すための杖になったのかもしれない。

鳴らないチャイム:子どもたちが居られるために

震災の後、被災地は「前向き」な言葉が溢れかえる。それは私たちが「復興」と呼ぶ段階において、それを押し進める力になる。阪神・淡路大震災においては、「がんばろう神戸」がスローガンとして掲げられ、その声は被災地の内側から自らを奮い立たせる言葉として、被災地の外側から応援する言葉として響き渡った。その「前向き」な声は、反響を繰り返すなかで、一体どこからの、誰からの言葉なのかを曖昧にしていくほど、大きなうねりをもっていた。

災害研究者の矢守克也は、災害復興を推し進める力には、大別して「世直し」の志向と「立て直し」の志向があるという[★02]。「世直し」の志向は、これまで当たり前のものとして受け入れてきた基準そのものを見直し、変革をもたらそうとする力だ。一方、「立て直し」の志向は、現時点を基準として、つつがない延長線上かつ右肩上がりを求めていく力だ。阪神・淡路大震災の被災地では、「世直し」の志向と「立て直し」の志向がせめぎあいながら、新しい街が生まれた。

「HAT神戸」という街がある。神戸市中央区東部、および灘区西部の臨海部の大規模な再開発によって生まれたこの街は、被災した周辺市街地や住宅地の受け皿として、震災から3年後の1998年に「まちびらき」された。

名称の「HAT」は、「Happy Active Town」の頭文字からとったものである。「ハッと変貌し、だれもが幸福で、活気あふれる街となるように願いを込めて命名しました」と、計画のパンフレットに記されている[★03]。戦後初の都市型大規模災害のあとに生まれた街につけられた、このあまりにあっけらかんとした「前向き」な言葉。30年経ったいまあらためて向き合うと、この言葉を素直に、ポジティブな意味として受け取ることは難しい。むしろ、「Happy Active Town」というまばゆいほどの言葉に目が眩み、立ちすくんだ人たちはいなかったか、と、この街にかかわったあらゆる人びとの痛みを想像してしまう[★04]。実際、このまばゆい名の街に居ることは、たやすいことではなかった。特に、ここに住むことになった子どもたちは、この場所に吹き抜ける「前向き」な復興の風に巻き込まれ、この街に居ることがままならない状況にあった。 

「まちびらき」と同じ時期の1998年、この街に新しい学校が生まれた。神戸市立なぎさ小学校、および神戸市立渚中学校は、約2年間、校舎を共同使用しながら学校運営がなされた。この学校には、この街の復興公営住宅に暮らす子どもたちが通っていた。開校年の全校生徒は24人。全員が被災しており、親を亡くした子、家が全壊した子、全焼した子もいた。巨大な喪失体験をかかえた子どもたちは、感情を抑えられなかったり、友人関係をつくることが難しかったりと、心も体も不安定な状態だった。特に、物音や揺れに敏感な子どもたちは、授業や休み時間を知らせるチャイムの音に体がすくんだ。

教員たちは、この学校でチャイムを鳴らさないことを決めた。被災によって経済的に苦しい状況にある家庭に配慮し、かばんや靴を指定しなかった。カウンセリングを定期的に行い、子どもたちが発する小さなシグナルを見逃さないようにした。「まちびらき」から25年以上が経ったいまも、渚中学校のチャイムは鳴らない。子どもたちは時計を見て、静かに次の時間の準備を済ませる。復興公営住宅は、被災者以外の一般の人びとも住むようになった。物音や揺れで体がすくむ子どももいなくなった。チャイムを鳴らさないというこの習慣は、かつてのこの街の子どもたちの葛藤と、子どもたちがこの場所に居られるための工夫を次々に編み出した大人たちがいたことを伝えている[★05]。

「前向き」な風が吹くとき

「しあわせ運べるように」も、「Happy Active Town」も、「世直し」と「立て直し」のせめぎあいのなかで復興していく「前向き」な風が吹いている。子どもだった私は、その風に煽られながら、大人の「肩越し」に復興を見ていた。「復興」なるものは、たくさんの大人たちが前を向くその先にあり、子どもだった私は、それを見通すことはできなかった。爪先立ちしてようやく、遠くにぼんやりと見えるようなものだった。大人たちが盾となったことで、あの「前向き」な風を真正面から受けることもなかったが、その風が巻き起こる渦中を見ることもできなかった。

しかし、30年が経とうとするいま、それは当時大人であった人びとも同じだったのではないかと思えてならない。復興に携わった大人もまた、誰かの「肩越し」に「復興」なるものの一端を見て、その全体を想像しようと努めたのではないか。かれらもまた、「前向き」な風に煽られながら、有り合わせのモノと、より合わせた知恵でもって、復興のただなかに居られるための技を編み出していったのではないか。

「世直し」でも「立て直し」でもなく

震災後に吹き抜ける「世直し」と「立て直し」の風には、どちらにも光と影がある。「世直し」の風には、大きな犠牲を払ったからこそ、これまで手をつけられなかった問題に向き合い、社会変革をもたらす可能性が秘められている。ただし、これまで積み上げてきた土地の歴史を帳消しにして「一発逆転」する思考に転んでしまえば、社会は混乱し、過激な政策としての「ショック・ドクトリン(惨事便乗型復興)」を招き入れることにもなりかねない。

一方、「立て直し」の風には、これまで積み上げてきた土地の歴史のうえに立ち、つつがなく右肩上がりに成長することをめざす力がそなわっているが、社会が依って立つ基準そのものに懐疑のまなざしを向けることはない。また、いまはもはや、災害が起きなかったとしても右肩上がりの成長を素朴に信じることは難しい。そのような社会で「立て直し」をめざすことは、かつてより困難になっている。

先に引用した矢守の論には続きがある。「世直し」も「立て直し」も有効でなくなった現代において、「やり直し」という第3の志向を提示している。「やり直し」とは、「被災前の「なんでもない日常」、「穏やかな暮らし」を被災者が回顧・想起し、また、それらを被災地に回復するための作業」であり、擬似的に被災前を「やり直し」するような志向だという[★06]。

擬似的な「やり直し」としての復興。それは「世直し」や「立て直し」とは違い、具体的に想像することは難しい。もちろん、被災前にタイムスリップして本当に「やり直し」することなどできない。亡くなった人は帰ってこないし、壊れた街をそっくり元に戻すことはできない。その当たり前かつ、非情な現実を理解したうえで、それでも「やり直し」を志向する復興とは一体なんなのか。そこに、これまでの「前向き」な志向とは異なるかたちの希望を見出すことができるとしたら、それはいかなるものなのか。ここでは、この「やり直し」の復興を考えるために、かつて子どもだった私が、大人たちの「肩越し」の先に見てきた復興を、30年経ったいま、「後ろ向き」に振り返りながら、言葉を紡いでみたい。

後ろを向くと、「世直し」や「立て直し」といった「前向き」の風によって、吹き飛ばされ、隅に追いやられてしまった言葉があるはずだ。それらを拾い上げ、じっと吟味してみたい。人びとが残していった、ともすれば見過ごされがちな言葉から、震災後の暮らしのなかで生み出された「世直し」と「立て直し」の風をいなす技を見出せるかもしれない。これまでといまのあいだをうろうろして、考えてみたい。

ここからはじまる文章には、新規に巻き返す改革の言葉も、つつがない延長としての右肩上がりの言葉もない。ただ、ここで拾う言葉一つひとつはささやかだが、それらをつなぎ、語りなおすことは、「前向き」の風に煽られている渦中の人びとの「風除け」になるかもしれない。それは、あらゆる風が渦巻くいま、誰もがここに「居続けられる」ための「お守り」にもなるかもしれない。そう願って、いま一度、後ろを向いてみようと思う。

高森順子

たかもり・じゅんこ

社会心理学者。1984年兵庫県神戸市生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科単位修得満期退学。博士(人間科学)。現在、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]産業文化研究センター研究員。グループ・ダイナミックスの視点から、災害体験の記録や表現をテーマに研究している。2010年より「阪神大震災を記録しつづける会」事務局長。著書に『10年目の手記―震災体験を書く、よむ、編みなおす』(共著、生きのびるブックス、2022年)、『震災後のエスノグラフィ―「阪神大震災を記録しつづける会」のアクションリサーチ』(明石書店、2023年)、『残らなかったものを想起する―「あの日」の災害アーカイブ論』(編著、堀之内出版、2024年)など。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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