https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11233253981?__ysp=5L6Y44Gz44Gv5L6Y44GX44GE【侘び寂びとは、侘しい、寂しい、とゆう気持ちを肯定する勇気にあるとかんがえは成り立ちますか?】より
ベストアンサー Old Goldさん
侘び寂びは日本人ならではの感性です。
人それぞれその思いは違うかと捉えますが、私なりの思いとして・・・
不完全な物に「美」を感じ、朽ちてゆく物に「生」を感じる。そう解釈してます。
https://note.com/tanesho42/n/nc4019695533c 【生きるための「感性」が人それぞれある。感性の合う人とは世の中に絶対いる!】より
人には価値観だったり思想だったり、人それぞれ自分の個性を持っています。
個性に正しいとか間違いとかはなく、カッコよく言えば「オンリーワンで良い!」と私は思っていますね、皆さんはどうかな?
人それぞれの個性を「価値観」という表現で私は今まで書いてきましたが、最近それに代わる表現を見つけました。
「感性」という表現を今後は使おうと思っています!
感性の意味を調べてみました↓
感性とは、何かを見たり聞いたりした時に深く心に感じ取ることや、感覚的に物事に対して感じていることを表しています。
感性とはどんな意味?感性が豊かな人の特徴&磨く方法を解説という記事より引用させて頂きました。
物事に対する感じ方は人それぞれ違って当然ですが、違う理由は価値観の違いでもありますが、感性の違いとも言えますよね。
うーん、難しくなってきた・・・。
そもそも私は生きる中で感じたこととか、哲学的なこととか人それぞれ考え方が違って正解が難しいことをあえて問題定義して、それを書いています。
そのため難しく伝わりにくいの前提で書いていますが、「感性」という表現が今後は伝える幅を広げることになれば嬉しいです。
そして最後に大切だと思うことを書きます。
「感性」というのは人それぞれ違います。それは当然のことであり必ずしも誰かが正解とは限らない時も多々あります。
人間関係において合う合わないがあると思いますが、それは感性の違いだとも言えます。
私は『あなたの感性が間違っているとは思いませんが、私とは感性が合わないので上手く人間関係を築けない』ということです。
相手を否定はしません、けど賛同することも出来ないというのは別に悪いことではないと私は考えています!
「感性」これです!
facebookSammaditthi Asakuraさん投稿記事
唯識での諸法空相とは、ざっくりと簡潔に言うと全ては心が作り出した夢まぼろしであるという考えである。佛教においての「すべては心が作り出した」という思想である。常識的には「ものごとは心と無関係に存在する」と考えられるが、唯識思想では、「深層心理にあって通常認識してない奥底の心がものごとをつくりだす」とされる。「事象が存在しているかどうか」ではなく、「事象が存在していると認識しているかどうか」ということなのである。
具体的な例で説明すると「嫌な人」がいるのではない、自分の心がその人を「嫌な人」にしているのである。すなわち、「嫌な人」という実体はなく、自分の心がその人を「嫌な人」にしているだけなのである。「自分の心が存在を作り出している」という見方ができるということは、「自分自身の存在もまた、実体はない」と見ることができることでもある。
すなわちこの世は夢まぼろしの世界であり諸法空相なのである。心の深層意識によって自分の世界がつくりだされる。すべては夢まぼろしの諸法空相であり無である。この認識により自分への執着を離れ、他者を慈しむ心が生まれ、死の恐怖も乗り越えられると佛教では教えている。
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。──影がそのからだから離れないように。」
ダンマパダより
https://business-textbooks.com/sabishii/ 【「寂しい」「淋しい」「侘しい」の違い
一般常識】より
寂しい・淋しい・侘しいの違い
「さびしい」という言葉には、「寂しい」と「淋しい」の2つの表記が存在します。これらは一体、どのような違いがあるのでしょうか。
また、同じ「心細くなる気持ち」や「ひっそりした様子」を表す言葉として「侘しい」というものもありますが、こちらとの違いも気になるところです。
そこで今回は、「寂しい」「淋しい」「侘しい」の3つの言葉の違いについて、詳しく解説していきます。
寂しい
「さびしい」という言葉の意味は、いくつかあります。1つは、「あるはずのものやあってほしいものが欠けており、気持ちが満たされない様子」、もう1つは、「人恋しく物悲しい様子」、そして最後は、「ひとけがなくひっそりしている様子」というものです。「寂しい」の表記はこのどれにも当てはまりますが、特に3番目の意味合いについて使われることが多くなっているのが特徴です。
「寂」の字は「わび(侘)・さび(寂)」などとも言うように、日本では「ひっそりとした雰囲気の環境」を表す側面があります。このことから一般的には、特に周囲の情景に対し、「寂しい」と表現する割合が多くなっています。
この点は、後述する「淋しい」との違いに挙げられます。
淋しい
「淋しい」という表記も、上記のような3つの意味合い全てが当てはまります。ですから、基本的には「寂しい」と意味の違いはありません。しかし、使われ方やニュアンスには、若干の差があります。
「淋しい」の「淋」という字は、「水」と「林」の象形から成っており、「長く降り続く雨」を意味しています。その意味から転じて、「止まらない涙、またはそうした悲しい気持ち」も指すようになりました。つまり、「淋」の字は情緒的な悲哀を表す側面が強いということが言えます。こうしたことから、「淋しい」の表記は、「気持ちが満たされないさま」や「人恋しくて物悲しいさま」を表す際に使われることが多くなっています。
この点は前述のように、「寂しい」との違いになっています。
またもう一点、「淋しい」は常用漢字には含まれないことから、公用文などには使われないという点も、両者の違いに挙げられます。
侘しい
「侘しい」という言葉の辞書での意味は、「ひどく物静かなさま」や「心細いさま」、「みすぼらしいさま」、「つらく悲しいさま」、また「やりきれない気持ち」や「興覚めでおもしろくないさま」などとなっています。これらの多くは「寂しい・淋しい」と意味が重なり、両者を入れ換えても、ほとんどの場面で同じ文意が成り立ちます。ただ、やはり多少のニュアンスの違いは存在します。
「侘しい」という言葉には、「落ちぶれた様子」や「興覚めなさま、つまらないさま」といったニュアンスが強く含まれています。一方「寂しい・淋しい」の場合、こうしたニュアンスはそれほど強くありません。この点は、両者を分けるポイントと言えるでしょう。
facebook人の心に灯をともす投稿記事【万物は流転する】
松下幸之助氏の心に響く言葉より…
維新の志士の一人である坂本竜馬は、よく西郷隆盛と話し合ったそうですね。しかし、会うたびに竜馬の意見は変わっていた。
そこで西郷さんが「あなたの意見は昨日と今日とでは違うじゃないか。そんなことではあなたのことばを信用できない。天下の士として信じられる者には不動の信念がなければならない」と言って非難したのです。
そのとき竜馬は、「いや、そうではない。孔子も『君子は時に従がう』といっている。刻々と時は移り、社会情勢もどんどん変わっている。だから昨日の是が今日の非になるのは当然である。この“時に従がう”ということ、これが君子の道なのだ」と言い、
「西郷さん、あなたは一度こうだと考えると終始一貫、それを守りつづけようとされるが、それでは時代に取り残されてしまいますよ」と忠告したというのですね。
この話はほんとうなのかどうかわかりませんが、今日のようなめまぐるしい時代には、西郷さんより竜馬の意見にぼくとしては賛成したいですね。
最近は老舗(しにせ)といわれるところでもつぶれていくところが少なくないでしょう。
それは、多くの場合、過去のノレンにとらわれて、社会の移り変わりに対応できないところに一つの原因があるように思うのです。
もちろん、先代や先々代が営々として築いてきたノレンは、店の信用がこもった大切なものです。
けれど、変化の激しい今日、ただ過去のノレンに頼っていては明日の発展は生まれません。
常にお客さんの要望を適切にキャッチし、刻々とそれにこたえるよう努めて、日々新しい信用を生み出していくことが大切なんですな。
たとえ自分の会社でヒット商品を出したとしても、それに安心するのではなく、その商品をライバルとしてすぐつぎのよりお客様に喜ばれる商品を考えていく、そういう日に新たな姿を生み出していくことこそ大事だと思うのです。
今日の最善は明日になればもう最善ではない。
明日は明日の最善を生み出していかなければならないということなんですね。
人間の考え方も変われば社会も変わる。政治も国も変わっていく。
万物(ばんぶつ)は流転(るてん)し、生成発展する。
われわれはともすれば、常識やこれまでのやり方にとらわれて、これが最良だと思ってしまう。それが固定停滞に結びつくのです。
だから、何にもとらわれない素直な心で考えることが必要なのですね。
『人生談義』PHP
「不易流行(ふえきりゅうこう)」
という、俳句の松尾芭蕉が提唱した考え方がある。
「不易」とはいつまでも変えてはいけない本質的なもので、「流行」とは時代の変化に応じて新しく変えていかなければいけないもの。
変えてはいけないものと、変えなければいけないものが、物事には混在する。
時代は刻々と変わっていく。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という、方丈記の鴨長明の言葉の通り、万物は流転し、一瞬たりとも同じではなく、変化し続ける。
いくつになっても、変化し続ける人でありたい。
facebook加藤隆行さん投稿記事 【可能性は無限大】
たとえばアナタに「他人に迷惑かけちゃいけない」という「禁止(いけない)」があったとする。すると人生はざっくりと二分の一となる。「人に迷惑かける人生」と「人に迷惑かけちゃいけない人生」で片方しか選べないから。
さらにアナタに「人を信じるべきではない」という「義務(べきねば)」があった場合、「人を信じる人生」と「人を信じない人生」とでそれからまた二分の一になるのでざっくり四分の一になる。
人はこんな「いけない」や「べきねば」を持っているとそれぞれ半分の人生しか歩めなくなる。とある研究では誰もがこのような「いけない(禁止)」「べきねば(義務)」という制限を軽いものから重いものまで含めて”少なくとも”30~50個ぐらいは持っているらしい。
二分の一が30個重なるとどうなるかアナタの人生はなんと1073741824分の一になる!!
なんと10億分の一 だぜよ!!!
まずね、「人に迷惑かけちゃいけない人生」とかありえないから。
人なんか、生きてるだけでも勝手に迷惑なんかかけてしまっている。
赤ん坊なんて人に迷惑かけないと生きていけないワケだ。インドでは「他人に迷惑をかけてはいけない」と教えるよりも、「人は迷惑をかける生き物 なのだから他人のことも許してあげて」と教えるらしい。知らんけど。
実際に、人にわざわざ迷惑をかける必要はないけど「人に迷惑かけちゃいけない人生」から
「人に迷惑かけちゃうことがあってもいい」「かけちゃうのは当然だ」(その分自分も人を助けてあげよう)「かけてもかけなくても どっちでもいい人生」にしようとすると人生は
本来の 5億分のイチ にまで回復する。(まだ少なっ!)
そして「人を信じるべきではない」と思ってしまっているアナタはまあ人を信じられないほど
シンドいことが過去に何かあったのだと思うが「人を信じるべきではない人生」から「勇気を出して人を信じてみても あいかわらず信じられない時があっても どっちでもいい人生」
にすると本来の2.5億分の一になったよ!クララが立ったよ!いやまだだな。
とまあ、「いけない・べきねば」と自分を禁止・義務で制限しているから人生は苦しくなる。
「自由」な人、ってこれが少なくてあっても緩やかで柔軟に対応出来る人のことを言うんだよ。決して、「品行方正で ちゃんとしっかりした人」だからじゃなくて「お金持ってる人」
「権威や地位がある人」だからじゃなくて自分で自分を縛るルールから「自由」な人、なんだよ。
だからさ「いけない・べきねば」から「どっちでもいい人」「どっちがあってもいい人」にシフトしてみよう。
そんな制限、もういらないから。誰に責められようが誰にバカにされようがアナタはもう「大人」で、どちらでも臨機応変に「選べる人」なのです。ボクはガッチガチだったのでたぶん100個以上とかあったんじゃないかな
やっと本来の一千万分のイチぐらいになったかしら~。
でもまだまだボクの人生は9999999倍の選択肢と可能性に溢れているのです。
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