フィクサー秦氏

https://ameblo.jp/jomon-history/entry-12870773079.html 【幕末最強組織・薩摩藩は秦氏系?⑫ ~天皇家と島津家~】より

前回、「長州藩は毛利藩で、毛利の始祖は秦氏だった」と書きました。

明治維新を主導したのは主に長州藩と薩摩藩(薩長連合)。そして薩摩の藩主・島津家も秦氏説がありました。

『明治維新を主導した長州藩は秦氏系⑪ ~フィクサー秦氏~』

前回の続きです。平安期の桓武天皇は母方が(秦氏系の)土師氏出身。秦氏から経済・土木建築のバックアップを得て、桓武天皇は平安京を造営しました。優れた頭脳を持つ秦…

薩摩藩の軍事力は群を抜いています。

1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いと言われた『関ヶ原の戦い』で、徳川家康率いる「東軍」と、石田三成率いる「西軍」が死闘を繰り広げました。島津家はこの合戦で「西軍」に加勢。西軍の敗戦が濃くなった際、島津家は、徳川家康の眼の前を正面突破。

赤鬼と恐れられた井伊直政や、猛将「本多忠勝」など、名のある武将の包囲網をくぐり抜けて鹿児島に帰国。その後島津家は、西軍でありながら取り潰されず、それどころか領地が安堵されるという特別待遇を受けます。

島津家が西軍についたのは、情報収集能力の欠如が原因でした。

この反省から薩摩藩は、各地に密偵を送り、情報能力の強化に努め、独立王国を模索するようになります。同時に領民の教育に努め、身分にとらわれず、優秀な人材を登用する基盤を育成。また海外との密貿易で財を成し、軍事力を拡大しました。

260余年もの後に、「幕末最強組織」となった薩摩藩は、倒幕に成功。のちに日露戦争で、世界屈指の戦力を誇ったロシアのバルチック艦隊に勝利した、海軍を作り上げたのも、薩摩藩出身者。

今回は、そんな最強藩である「島津家は秦氏系か?」の謎解きです。

〈島津家の始祖2つの出自説〉

薩摩藩の藩主である島津家。島津一族は鎌倉時代に発祥した大名家で、「島津に暗君(愚かな君主)なし」と言われるほど、有能な当主を送り出した名家。明治維新では、薩摩藩として名を挙げ、西郷隆盛といった人物を輩出。

(※西郷隆盛は、江戸城無血開城をはたし、王政復古のクーデターを成功させた主要人物。)

島津家の家紋「丸に十字」ですが、キリスト教の十字架に酷似したシンボルは、戦国時代、日本にやってきたイエズス会の宣教師たちに、島津家はキリスト教徒か?と勘違いさせたと言います。

島津家の家紋は「丸に十字」。

島津氏初代・忠久が、戦いの恩賞として源頼朝から賜ったものと伝えられるが、この頃は丸がない「十字」だった。

島津家のシンボルは、ヘブライ王直系・イエス・キリストの十字架に酷似。

島津家の始祖は、島津忠久で、その出自には2つの説があります。

一つ目は秦氏の子孫で、2つ目が源頼朝の庶子説。

島津忠久の母は、丹後内侍。諸説ありますが、丹後内侍は2回結婚し、一度目は、秦氏系貴族との結婚。その後離婚し、源頼朝の側室になります。

(一度目の結婚で島津忠久が生まれたとしたら、島津家初代は秦氏の子孫。現在、島津忠久の父は、秦氏系という説が通説。)

+ ⑴島津の始祖は秦氏? ~秦の始皇帝の末裔説~

丹後内侍が京都で二条天皇に仕えていた頃、惟宗 広言(これむね の ひろこと)と通じ忠久を産みます。惟宗広言は貴族で歌人で、秦の始皇帝の末裔。惟宗氏は秦一族の分家筋。833年に陽成天皇から惟宗(これむね)という姓を与えられますが、その前身は秦氏でした。

惟宗広言の官位は従五位下・筑後守で、鎌倉の武士らと比べて高い地位でした。その後、丹後内侍は離婚し、源頼朝に仕える安達盛長と再婚。

忠久が生まれた摂津の国(現・大阪府)の住吉は、京都の太秦と並ぶ、秦氏の本拠地。島津忠久は九州の薩摩国・大隅国・日向国(現在の鹿児島県・宮崎県)を領土とし、鎌倉時代から明治に至るまで、島津家は、おおよそ700年間南九州を治めます。

忠久は陰陽道に詳しかったようで、鎌倉幕府で、鬼気の祭(きけのまつり)など、さまざまな儀式を執り行いました。

九州の大大名は島津家でしたが、四国の覇者・長曽我部氏も、秦氏の末裔。対馬を治めた宗氏も、秦氏系。いずれも秦氏系が活躍しています。

+ ⑵島津の始祖は源頼朝の庶子? ~源氏の末裔説~

丹後内侍は惟宗と別れ、鎌倉に戻り、安達盛長の妻となりますが、同時に頼朝の側室となり、忠久をみごもったともされます。

島津家によって編さんされた『島津国史』や『島津氏正統系図』では、「忠久」の父は、惟宗ではなく「源頼朝」となっています。

ちなみに現在の歴史学会では「島津忠久の父は、(秦氏系)惟宗広言氏」という説が有力。歴史を紐解けば、薩摩藩の始祖も「秦氏の末裔」の伝承がありました。

・付け足し:天皇家と島津家の太いパイプ

島津家と皇室のつながりは太いです。

昭和天皇の正妻、香淳皇后(こうじゅんこうごう)の生母は島津公爵家の令嬢。香淳皇后にとって島津家は母方の実家。令和天皇は香淳皇后の孫なので、島津家の血を遠く引いています。

昭和天皇の五女、清宮貴子内親王も、島津本家の分家である佐土原島津家に嫁ぎました。島津家の始祖・島津忠久は惟宗氏の息子。惟宗は秦の始皇帝の末裔で、秦氏の分家筋。島津との婚姻を通して、天皇家に秦氏の血脈が入りました。

現在、秋篠宮皇嗣家の佳子さまのお相手候補も島津家で、(島津一門の)玉里家と呼ばれる旧公爵家の御曹司が、縁談の有力候補と報道されています。

「島津に暗君(愚かな君主)なし」と言われるほど、有能な当主を送り出した名家ですが、子孫もまた秀でた人物が多いのが島津家の特徴。

さきほどの昭和天皇の第五皇女、島津貴子(清宮貴子内親王)の夫は、島津 久永(しまづ ひさなが)氏。この方はソニーの取締役で理事長をつとめました。他にも、有名企業の社長や大学の理事となる人物を、数多く輩出しています。身分の関わりなく領民に高度な教育を施した島津家は、自らの子弟の育成にも熱心でした。

現在の島津家第32代当主・島津修久は武術を修め、裏千家の茶道をたしなむ文武両道タイプ。そして元鹿児島県公安委員長で、島津興業の代表取締役会長。私はこの方の血縁関係を調べた際、そのすごさに言葉を失いました。

〈島津家32代当主・島津修久の血縁関係〉

①徳川宗家第18代当主の徳川恒孝のはとこ

(※徳川宗家は、徳川家康を始祖とする徳川将軍家をさす)

②平成天皇のはとこ

③第79代内閣総理大臣の細川護煕(ほそかわ もりひろ)首相のいとこ。(※細川護煕首相は自民党)

※(島津修久の)妻の伊津子は西郷隆盛の曾孫。この二人の結婚の仲人は大久保利通の嫡孫・利謙がつとめました。大久保利通の子孫が自民党の人気政治家、麻生太郎議員。島津家は古くから大物政治家である麻生家との付き合いがありました。

島津家は天皇家や大物政治家、徳川本家とも縁続きで、高い教養と財力を持つ人々。

明治維新後の日本の政治は、長州藩と薩摩藩によって主導されました。

それは現在も続き、政財界と強固なコネクションでつながり、昭和天皇の皇后の(母方の)実家にあたる島津家は、隠れフィクサーとして影響力を持ち続けています


https://note.com/jomonpeace/n/n2a407610ac9b 【フィクサー島津家の謎。島津家は秦の始皇帝の末裔で、始皇帝はヘブライ出身⑭  】より

秦氏は、日本古代史上、単なる渡来人として論じるだけでは済まされぬ存在。秦氏はヘブライの十二支族をルーツとし、鉱山技術、鍛冶技術、養蚕、機織、酒造などを日本にもたらした氏族。奈良時代、秦氏の族長的人物だった秦河勝(はたのかわかつ)は、その際立った技術経営力や財力、国際的知識を駆使し、聖徳太子のブレーンとして活躍しました。

秦氏は現在も日本のフィクサーとして目立たないながらも活躍しています。

今回の謎解きは、摩訶不思議な秦氏と、その末裔である島津家のルーツ。

・ヘブライのガド族の血をひく桓武天皇は秦氏系

平安時代初期、平安京を造営した桓武天皇の母方は、朝鮮半島の土師氏出身。土師氏はイスラエル十二支族のガド族をルーツとする秦氏系氏族。

約2700年前、イスラエルから忽然(こつぜん)と姿を消したとされるユダヤ人の部族イスラエル十二支族は、日本に渡来し、『秦氏』と名乗ります。

ガド族は古代イスラエルの十二部族を構成していた、部族の一つ。始祖のガドはヤコブの7番目の息子であり、カドの長男の名前は「Ziphion(ニェッポン)」⇒「二ホン」。ヤコブは、別名をイスラエルと称し、のちに12部族の名祖(十二支族)となった12人の子らの父。

遠くガド族の血をひく桓武天皇は秦氏のバックアップを得て、暴れ川・桂川の治水を行い、優れた事務能力を持つ多くの秦氏が桓武天皇に仕え、平安京を支えました。

・明治維新を主導した薩長は秦氏の末裔

江戸幕府の倒幕は主に薩摩藩と長州藩によって行われました。長州藩は桓武天皇の母方である『土師氏』の末裔なので、秦氏系氏族。

長州藩(山口県)出身の政治家は多く、山口県は総理大臣を一番多く選出している県。

薩摩藩主は島津家であり、(島津の)始祖は始皇帝の末裔である惟宗 広言(これむね の ひろこと)。惟宗は秦氏の分家筋。

明治維新は薩長によって主導され、どちらも秦氏の末裔でした。

薩長出身の藩士の多くは政治家に転身し、現在もその子孫は政治家を務めています。有名なのが自民党の重鎮・麻生太郎議員。

明治維新の指導者・大久保利通は島津藩出身。そして大久保利通の子孫が『麻生』さん。麻生太郎さんの妹、麻生信子さんは皇族に嫁いでいます。こちらは1980年に寛仁親王妃信子となりました。

・フィクサー島津家の高貴な血脈

島津家と皇室のご縁は深く、昭和天皇の正妻、香淳皇后(こうじゅんこうごう)の母方の実家は島津家。令和天皇は香淳皇后の孫なので、遠く島津家の血を引いています。

現在の島津家第32代当主・島津修久は徳川宗家第18代当主の徳川恒孝のはとこであり、自民党第79代内閣総理大臣の細川護煕(ほそかわ もりひろ)首相のいとこ。島津家は目立たないながらも、皇家と縁続きであり、政財界とも強いパイプを持つフィクサーとして活躍してきました。

・始皇帝はヘブライの末裔

島津家の始祖は平安期の貴族で歌人の惟宗 広言(これむね の ひろこと)。惟宗氏は、秦の始皇帝の末裔。

始皇帝の実父は呂不韋(りょふい)と伝えられますが、呂不韋はヘブライ語で「神のくびき」を意味します。そして呂不韋は姜族(きょうぞく)出身。

羌族(彼らの言葉ではチャン族)であり、その羌族は古代イスラエルの失われた10支族だったことが知られています。羌族にはイスラエルの律法を守る風習があり、イスラエル人由来の明らかな多くの特徴を持っていました。

例えば、彼らは悩みの日には神を「ヤハウェ」と呼びます。

「ヤハウェ」とは ユダヤ教における唯一絶対の神。

イスラエルにユダヤの行方不明となっている10支族を探しているアミシャーブと言う特務機関があります。アミシャーブのDNA調査により、中国の羌族は代表的なマナセ族の末裔だと断定されました。

マナセとはヘブライ語で「忘れさせる者」の意味。

少し話は変わりますが、長州藩主である毛利家は土師氏の血脈。

土師氏はガド族の末裔とされますが、マナセ族の子孫との説もあります。

秦の始皇帝は、西洋的な顔立ちで 目も青かったとされ、ヘブライの面影を伝えています。

彼らの一団が朝鮮半島からユダヤの信仰に従って「東の地」を求めて「秦氏」として日本にやってきたという説がありますが、それ以前に、預言者イザヤによって率いられた十二支族が沖縄に上陸していました。

彼らは沖縄を経由し、九州の高千穂を目指し天孫降臨します。

預言者イザヤは預言するだけでなく、ヘブライ民族を救うために尽力しました。そんなイザヤに託された使命は2つありました。ひとつ目は、聖櫃とも呼ばれる契約箱(アーク)を、エルサレム神殿から持ち出すこと。

2つ目がダビデ王朝の灯を絶やさないこと。

次回は、はるか昔、琉球にやってきたヘブライ民族について。

預言者イザヤに率いられた十二支族が沖縄に上陸します。

長くなったので続きますね。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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