https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/32094149/ 【エイゼンシュテインの映画の弁証法】
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2576861/ 【二行詩・三行詩】
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/54181402 【俳句モンタージュ論】
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/34360277【俳句のことばをめぐるメモ】
https://note.com/libbil0707/n/n8f82a6d3816a 【言葉は不完全なもの、がある】より言葉は不完全なもの、言葉を超えるものがある
言葉って、不完全なもので、言葉にすれば、それが伝わるというわけではない。
学校やサークル、仕事場など、様々な場面で伝達事項がある。
同じことを言っていても何故か、伝わる人と伝わらない人がいる。
Aさんが、「今月は、これに取り組みますので、みんなで取り組みましょう!」と言っても誰も行動しない。
しかし、Bさんが、「今月は、これに取り組みたいな~。」と願望的につぶやいただけで、何故かみんなが自発的に動くことがある。
極端な例でしたが、これに近いことは、いくらでもある。
人がコミュニケーションを取るときには、その話の内容だけでなく、表情やしぐさ、声のトーンや大きさなどからも情報を得ています。
その中で重要視されるのは何か?
という研究をしたのが、アメリカの心理学者アルバート・メラビアン。
そのメラビアンが提唱したのが「メラビアンの法則」です。
それによると、人がコミュニケーションで重視する割合は、「見た目/表情/しぐさ/視線など」の視覚情報が55% 、「声のトーン/話す速さ/声の大きさ/口調など」の聴覚情報が38%、
「話の内容など」の言語情報が7%だと言われています。
つまり、コミュニケーションは言語情報だけでなく、非言語情報も非常に大事なのだということです。「何を言うか」も大事ですが、それを「どう言うか」、そして、「どういう態度で存在するか」ということはもっと大事なんだと気づかせてくれます。
悲しいことに、「話の内容」から人が受け取るものは7%しか無いわけですから。
このことを理解すれば、誰かの話を聞いたり、相談に乗るときは、相手の言葉の意味に飲み込まれないということが大切です。
言葉以外の非言語の情報、非言語メッセージを受け取り、言葉の意味と非言語メッセージの違和感があれば、言葉の意味よりも、非言語メッセージの方が、本人の本音を表している可能性が高い。高いというか、非言語メッセージの方が本音である。
先日、ある友人からこのようなメールをいただきました。
『最近今まで会ってきて話したことのある人とお話する機会が多くなってるんですが、センサーが敏感になった気がします。話し方が早いってことは、少し不安があるのかなとか、声のトーンだったり、様々なんですが、でも人って話だけではなく、その人の素振りだったり、言葉一言一言だったりからメッセージって受け取れるんだなと思いました。』
そうなんですよね。言葉は不完全なもので、相手のことをより深く知ろう、より深く知りたいと思うなら、非言語メッセージを受け取る必要があるんですよね。
そのためには、「私は相手のことを何も知らない、そして、相手は何を私に伝えようとしているのか?」このようなスタンスで話を聴く必要がある。
だって聴くという漢字は、
『耳 十 目 心 』によって構成されているから…。
https://note.com/tanukinman/n/n4d7499990ff1 【『身体性をもった言葉』とは何か?】より
山口 宗高
先日『可能性にアクセスするパフォーマンス医学』刊行記念トークイベント 古賀史健×田中泰延×二重作拓也「『言葉の身体性』とは何か?」に参加した。自分の中でもこの話題に向き合う必要を感じたので文章化する。
まず「『言葉の身体性』とは何か?」は、言葉の定義だけで考えると、文章表現において身体の性質について語るとはどういうことかという意味になる。しかし、イベント中に感じたテーマは、身体感覚にうったえる文章はどんなものか、そしてその先に何が起こるのかだった。よって、後者を採用する。もし、テーマを後者に合わせると「『身体性をもった言葉』とは何か?」になると考える。
イベントの中で「身体性をもった言葉」について端的に語っておられた部分はここだと考えるので抜粋する。分かりやすくするため、敬称は省略する。
田中 文章の基本の方の一つにまず結論を書くというパターンがある。古賀さんの新著「さみしい夜にはペンを持て」は物語形式になっている。そうすると結論を先に書く手法は使えない。それに関してはどうだった?
古賀 自分は文章を書く際に最初に結論を書くパターンはあまり使わない。自分はそこに至る話の枕をしっかり書くタイプ。
いい文章には身体性がある。今回の作品は海の中の物語だったから、読者に海の中に漂っているような気持ちになってほしかった。
文章を伝わる形にするには、読者の身体性にうったえる必要がある。
ジブリのアニメの食事シーンは多くの人の感覚にうったえるし、実際にそのシーンを覚えている人が多い。
漫画の編集者の方に聞いた話だが、ファンタジー作品に食事シーンをいれるようにさせていた。その世界がどんな食事をしているかをイメージさせることで、作品の共感や理解が深まるからだそうだ。
食事のシーンをうまく書けるかどうかでその人の文章のうまさがわかる。
抜粋終了
身体的感覚を刺激する表現(上記の話の中では食べる描写)は共感を導く。共感は、文章、作者、世界観への信頼につながり、そこに親近感を抱く。その信頼と親近感が、文章の中に出てくる未知の出来事や世界観への没頭(疑似的に体験すること)を可能にする。
つまり、言葉で既知の身体経験(食べる)と未知の体験(物語)の橋渡しをすることで文章の説得力を増し、より深く読者を引き込むことになる。
『身体性をもった言葉』とは、既知の経験や感覚を刺激することで、物語や未知のものに興味を持たせる文章だと考える。
重要なのはこの先で、その『身体性を持った言葉』に向き合った時、読者にどんな変化が起きるのかだ。未知の経験への没頭は新しい感想やイメージに至り、できなかったことややろうと思ったことすらなかったことにチャレンジすることになる。田中さんによると、「身体性を持った言葉」によりカツカレーのカツがスプーンで切れるようになるそうだ。詳細を知りたい方は、録画したイベントを見てみてほしい(笑)。
余談ではあるが、「身体性」は体の性質であると私は単純に理解していた。しかし、実際は分野ごとにかなり定義の異なるものらしい。なんとなく使っていただけに正直驚いた。興味の出た方は、以下のページを読んでみてほしい。
「身体性」ってよく聞くけど、結局どういう意味なのか? 「過剰可視化社会」から考える
https://gendai.media/articles/-/95908
https://tsukinami.exblog.jp/26780080/ 【ただごと俳句】より
世に「ただごと俳句」なる言葉があります。いま手もとにある角川学芸出版『俳文学大辞典』をひもといてみると、こんなふうに記されています。
〈俳句の日常性を主張するあまり、日常茶飯事のことを詠んで足れりとする傾向に対する軽蔑の語として使われる。〉
どうやら蔑称として用いられる言葉のようですね。子規の唱えた写生、虚子の客観写生や存問、あるいは山本健吉の評論にある挨拶や軽みあたりについて否定的に述べようとするとき、利用するのに便利な言葉なんでしょう。俳句用語としてどなたが最初に使い始められたものかは定かじゃありません。
この語釈文には後段があって、〈ただし、日常性を否定することは別次元の問題である。〉
と、そんな但し書きで締め括られています。おそらく辞典の執筆者は《日常の出来事しか詠まれていない俳句は「ただごと俳句」として貶められて然るべきながら、日常性にこそ俳句の本質がある》と、そんなふうにおっしゃりたいのでしょう。なにやら禅問答めいてしまいますが、《日常の事物を描きながら、日常性を超えるのが俳句、俳文学である》と、そんな主張がこめられているような気がします。
ここで、そもそも「ただごと」とは何なのかを確認しておきましょう。岩波書店の『広辞苑』をひらいてみると〈徒事・唯事・只事〉という漢字を並べたあと、語の意味と古典での使用例が示されていました。
〈普通のこと。つねのこと。あたりまえのこと。竹取「この頃となりては、―にも侍らざめり。天草本伊曾保「これは―では無いと」〉
また『広辞苑』には、もう一つ別に「徒言」の項が立てられています。
〈ありのままの言葉。別に何ということもない普通の言い方。枕二七八「―にはうるさく思ひつよりて侍りし」〉
いずれにせよ、ふだん理解している程度の意味のようにおもわれます。
さて、ここからが肝心なところです。多くの辞書で、さらにもう一つ別の項が立てられています。「ただごと歌」です。
〈歌学用語としては、『古今集』仮名序に「ただごと歌」とあり、道義的に正しい歌を指したが、後世には比喩を用いない直叙の歌を呼ぶようになった。連俳用語としては、日常的な俗事(只事)、あるいはそれをありのままに表した言葉(只言)をいう。〉
これが『俳文学大辞典』における解説の前段で、後段は次のようになっています。
〈「古今集にざれ歌を誹諧歌と定む、是になぞらへて連歌のただ言を世上誹諧の連歌と云」(三冊子)は一般的な認識だった。またかるみを唱えた晩年の芭蕉には「唯事に一躰新しく、此一味、珍重」(『秋の夜』評語)のように積極的な評価の基準として用いた場合も見える。芭蕉の趣旨を曲解し、惟然のように、口語調のただごと俳諧に走った門人もある。〉
なにやら面倒な説明ですね。つまり、「ただごと歌」とは、もとは《比喩のごとき技巧を弄さない、正しい歌》のことであり、やがて平安末期から中世にいたると《俳諧之連歌、略して俳諧》を指すようになり、さらに時代を下って晩年の芭蕉は《ちょっと新しい俳諧》くらいの意味合いで使ったものらしいのです。
念のため『広辞苑』からも、「徒事歌」の説明を引いておきましょう。
〈譬喩(ひゆ)を借りずに、深い心を平淡に詠じた歌。古今集序で歌の六義(りくぎ)の一とされ、小沢蘆庵が理想とした。〉
余談ですが小沢蘆庵は江戸中期の歌学者です。
こうして歴史的な流れを見れば、現在では「ただごと俳句」の語を誤って使用していることに気づかされます。俳句の本質が《日常のできごとをごくありふれた普通の言い方で表現する》ところにあるとすれば、「ただごと」による俳句が、決して特殊な俳句や軽蔑されるべき俳句として扱われるべきものでないとわかるはずです。
ただし、筆者が推したいのは、誤用されている「ただごと俳句」ではなく、「ただごと歌」に近い「ただごと文学としての俳句」です。よって、次なるテーマとして、文学とはなにか?と云う大きな命題に取り組んでみなければなりません。
う~ん。どうなんだろう、この文章って。意味は通じていますか?
当ブログ、ここ数ヶ月ほど執筆・更新の頻度が激しすぎて、内容が劣化している気がします。かんじんの作句がおざなりになってきているようで、昨日も、明石もくせい句会で季重なりに気づかないまま出句してしまいました。
そろそろ、もとのような月1~2回、あるいは週1回程度のペースに戻した方がいいのかもしれません。反省。
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