生きるということ

Facebook近藤裕子さん投稿記事  ☘️谷川俊太郎さんの言葉から☘️

「言葉は生命体のようなもの」確かにーーー。

谷川俊太郎さんの全ての詩から、言葉から、「命」が伝わります。

「鉄腕アトムの主題歌」から始まって「生きる」や「二十億光年の孤独」や「朝のリレー」や「かっぱ」、、、「スイミー」や「マザー・グースのうた」、それに「スヌーピー(ピーナッツ)」、、、。きりが無いほど谷川俊太郎の沢山の詩が思い出されます。

谷川さんは「生と死」について『生きることの反対は死ぬことだと。そんなことないんですよ。生きることの端っこの方に死があって、つながってるんですよ、生と死は』と話されていました。だから 今もこれからも詩を通してご一緒なんだと思います。

感謝を込めて私の大好きな 谷川俊太郎さんの詩歌を挙げさせていただきます。

    春に  谷川俊太郎

この気もちはなんだろう 目に見えないエネルギーの流れが 大地からあしのうらを伝わって

ぼくの腹へ胸へそうしてのどへ 声にならないさけびとなってこみあげる

この気もちはなんだろう 枝の先のふくらんだ新芽が心をつつくよろこびだ しかしかなしみでもある いらだちだ しかもやすらぎがある あこがれだ そしていかりがかくれている

心のダムにせきとめられ よどみ渦まきせめぎあい いまあふれようとする この気もちはなんだろう あの空の青に手をひたしたい まだ会ったことのないすべての人と

会ってみたい話してみたい あしたとあさってが一度にくるといい

ぼくはもどかしい 地平線のかなたへと歩きつづけたい そのくせこの草の上でじっとしていたい

大声でだれかを呼びたい そのくせひとりで黙っていたい

この気もちはなんだろう

  ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

    谷川俊太郎さん。

   安らかにお眠りください。

以下は 私のfacebookでのお友達からのものです。

♡♡♡♡

近くの高校の私の子供達が学んだ学校の校歌です。

詩人谷川俊太郎氏の訃報がありました。あわら市にある福井県立金津高校の校歌の作詞した先生でした。

作詞谷川 俊太郎  作曲服部 公一

空に問う はてしない宇宙のかぎり 星に問う ゆえ知らぬ憧れ胸に 海に問う

よみがえる生命あらたに 土に問う ふるさとの歴史もとめて 人に問う やさしさの明日を夢みて 友に問う せめぎあう心ひとつに

            ♡♡♡♡


Facebook船木 威徳さん投稿記事【 生きるということ 】

日本人なら、おそらく国語の教科書でその名を何度も見たであろう谷川俊太郎さんが

13日に亡くなりました。私は、正直、その訃報を聞いたとき、「まだ生きておられたんだ」と感じながら、小学生の時に読んだ『 生きる 』を、まず最初に想い出していました。

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生きる  谷川俊太郎

生きているということ いま生きているということ それはのどがかわくということ

木もれ陽がまぶしいということ ふっと或るメロディを思い出すということ

くしゃみすること あなたと手をつなぐこと

生きているということ いま生きているということ それはミニスカート

それはプラネタリウム それはヨハン・シュトラウス それはピカソ それはアルプス

すべての美しいものに出会うということ そして かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ いま生きているということ 泣けるということ 笑えるということ

怒れるということ 自由ということ

生きているということ いま生きているということ いま遠くで犬が吠えるということ

いま地球が廻っているということ いまどこかで産声があがるということ

いまどこかで兵士が傷つくということ いまぶらんこがゆれているということ

いまいまが過ぎてゆくこと

生きているということ いま生きているということ 鳥ははばたくということ

海はとどろくということ かたつむりははうということ 人は愛するということ

あなたの手のぬくみ いのちということ

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たしか、この詩を最初に読んだのは、小学生の高学年の頃だったと想います。

ちょうど、いろいろなことを知ったつもりになっていて、「詩」というものも、子どもが絵本で読むためのもののように半分バカにしていたのかも知れません。

なので、私は、この詩を読むや、「なぜ題名が『生きる』なのに、各節の書き出しが『生きているということ』ばかりであることに強い違和感を感じただけでした。いま、深く、考えさせられます。

この詩を読んでからおそらく40年以上。私は果たして「生きてきた」のだろうか?と。

臨床医として、ベッドで死にゆく人たちを何百人も診ながら、医者として、もう

どうすることもできない人、ひとりひとりを前に、やれることと言えば、いや、自然にそうしていた、そうするしかなかったことと言えば、「手をにぎること」です。

死を前にしている人の手は、それでも温かいのです。

普段、一緒にいてくれる家族もおらず、いろんな事情を抱えて、それでも生きてきて

もはや、プリンを飲み込むことさえできない。そんな、いのちの灯が消えかけている

骨と薄皮だけのような手でも、温かい。

小学生の私が気づかなかったのは「生きているということ」のあとに『いま生きているということ』という一文が繰り返されていたこと。

明日には世界戦争が始まってしまうかも知れない。大国の為政者がどうだとか、お金の相場が、物価や、エネルギーや温暖化が・・・そんなことばかりに心を乱される毎日が続きます。

でも、でも確かに、「いま私は『生きている』」と いま、すべての美しいものに出会い、

いま、泣けるということ いま、笑えるということ いま、怒れるということ

いま、自由ということ そんな「いま、生きているということ」を 感じ、味わい、感謝する時間を 私はいったい、1日に何分、取っている つまり、「いま」生きているだろうか。

だれかと手をつなぎ その温かみに、ウキウキしたのは いつだっただろう。

『人は愛するということ あなたの手のぬくみ いのちということ』

先生のご冥福をお祈りすると同時にいのちのメッセージを残してくださったことに心よりお礼申し上げます。(ふなきたけのり・百姓医者 2024/11/21)


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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