https://book.asahi.com/jinbun/article/12840215 【旧約聖書に秘められた人類誕生の謎に迫る 長谷川修一『謎解き 聖書物語』より】より
記事:筑摩書房
旧約聖書に記された人類誕生の場面は誰もが知る有名な物語です。しかし、従来の聖書には、じつは重要な誤訳がありました。気鋭の聖書考古学者が、物語の裏側を解き明かし、それを生み出した人びとがそこに秘めた、人間への、そして自然への思いを探ります。『謎解き 聖書物語』より一部を紹介します。
なぜ人は土でつくられたのか
創世記では、神は土(ヘブライ語でアダーマー)のちりを使って人をつくります。なぜ土なのでしょうか。これにはおそらくふたつのことが関係しています。ひとつ目は、この物語を書いた人たちにとって、土がもっとも身近で自由に形をつくることのできる材料だったということ。そしてふたつ目は、人間の肉体が死後に土中で分解されていくことです。
旧約聖書の冒頭に収められたこの人類誕生の物語が書かれたのは、いまから2500年ほど前の西アジアです。当時はもちろんまだプラスチックなどはありませんでした。金属はありましたが、人間の肉体が硬い金属でできていないことはあきらかです。人びとは神々の像を青銅でつくりましたが、同時に神々や人間、そして動物の像をつくるのに粘土も利用しました。土器は調理や食事のときに当時の人びとが毎日使う日用品でした。土器をつくる職人も身近にいたことでしょう。そして何よりも、ちょうど粘土が崩れて土に還るように、人間も土中に埋葬してしばらくすると、やがて骨だけを残して形を残さなくなることを、土葬が一般的だった当時の西アジアの人びとは、自らの観察によって知っていたのです。
しかし、たんに土をこねて形をつくっただけでは、それは動くものにはなりません。そこで神は土でつくった人の鼻に「命の息吹」を吹き込みます。すると人間は生きるものとなりました。鼻に神が息吹を吹き込んだことによって生きることになった、という描写も、古代の人びとによる人間観察に基づいているのでしょう。神はこうして生きるようになった人間を「アーダーム」と呼びます。
「アダム=人」のことば遊び
当時の読者は、ここにことば遊びが隠されていることに気づいたことでしょう。「土(アダーマー)」から「人(アーダーム)」をつくったのです。この後、このアーダームという単語はこの物語に何度も出てきます。ただ、面白いことに一部の例外を除き、これらすべてには「ハ」という定冠詞がついて、「ハ・アーダーム」という形で出てくるのです。
定冠詞というのは、英語だとtheに当たり、原則として、一般名詞について固有名詞にはつきません。英語にはアーダームというヘブライ語に由来するAdamという人名があります。人名は固有名詞ですので、「私はAdamです」という文はI am Adam.であって、I am the Adam.ではありません。
このことは何を示しているのでしょうか。定冠詞がつかないアーダームは固有名詞、すなわち人名ではなく、一般名詞であることを示しているのです。そうなると、「アーダーム」を「アダム」という人名として訳すのはじつは誤っていることになります。正確には「人」と訳すべきでしょう。つまり、神は自分が土のちりでつくり、命の息吹を吹き込んで生きるようになったものを「人」と名づけたのです。
なぜ人間が生みだされたのか
ところで、なぜ神は人間を創造したのでしょうか。人間をつくった目的について、創世記は直接語りません。西アジアに伝わる『エンキとニンマハ──人間の創造』や『エヌマ・エリシュ』、『アトラ・ハシース』といった古代の文学作品には、やはり神々が人間をつくる描写があります。そのなかでは、人間をつくった目的が、神々の苦しい労働を代わりに行うため、とはっきり述べられています。人間をつくる前、神々自身が自分たちの食べるものを得るためにはたらき、自分たちの家、すなわち神殿をたてていたのです。
創世記の物語のなかで、神は自分がつくった人間に命令を与えます。そこから人間がつくられた目的を読みとることができます。すなわち「うめよ、ふえよ、地に満ちて、これをしたがわせよ」というものです(1章28節)。人間が地上で行うべきこととして神が命じたのは、地上で数を増やし、大地を「したがわせる」ということでした。
このことばだけ読んでも、人間がつくられた目的はあまりはっきりしないかもしれません。しかし創世記の他の箇所とくらべてみると、「うめよ、ふえよ、地に満ちよ」という部分が神の祝福のことばであることがわかります。数が増えることを、古代の西アジアの人びとは神からの祝福と考えていました。飼っている家畜の数が増えることも、子どもがたくさん生まれることも、自分が神から祝福されたしるしだ、と考えていたのです。この点は、他の古代西アジアの神話とずいぶんちがいます。人間は神々の労働を肩代わりするためにつくられたのではない、と創世記はいっているのです。
地をしたがわせる人間
次に「したがわせよ」ということばについて考えてみましょう。大地をしたがわせるとはどんなことを意味するのでしょうか。「したがわせる」という動詞は、『旧約聖書』のほかの箇所で使われている用例などとくらべることによって、ここでは「支配する」という意味で使われていることがわかります。つまり、人間に大地を支配するよう、神が命じているのです。
創世記が書かれたころ、すでに西アジアでは農耕がさかんに行われていました。農作物の成長には水が欠かせません。西アジアでは日本よりも雨が少なく、年間降水量が東京の三分の一以下のところもあります。こういう地域で農作物が育つことのできる場所はかぎられていますから、人びとはやがて灌漑を行うようになります。川の水を畑に流して作物を育てるようになったのです。自然に流れている川の水を畑にひくには大工事が必要です。人びとは集まり、力を合わせて作業しました。おおぜいの人が集まって作業するためには指導者がいります。こうした指導者がやがて王などの支配者になっていったと考えられています。
このようにして、人はそれまで乾燥していた大地にはたらきかけ、それに新たな役割を与えることに成功しました。この様子を観察し、まるで人が大地を思うがままにしている、と当時の人びとは考えたのかもしれません。創世記ではこうした人間による大地へのはたらきかけを「したがわせる」という表現であらわしたのではないでしょうか。
土に仕える人間
この部分だけを読むと、あたかも人間は自然を好きに使っていい、といわれているようにも思えるかもしれません。実際、これまで人間は自然にはたらきかけ、その姿を大きく変えてきました。私の故郷にはセメントの材料となる石灰が採掘される山があるのですが、採掘によって年々山の姿が変わっていくのを帰省するたびに目にします。ニュースで耳にする環境破壊も、人間の直接的・間接的な自然へのはたらきかけの結果によるものです。はたして、創世記は人間による環境破壊をゆるしていることになるのでしょうか。
今日の自然破壊の原因はキリスト教の自然観にある、とする声が、しばらく前にヨーロッパで、そして少し遅れて日本でも叫ばれるようになりました。その自然観は、『旧約聖書』、とりわけ創世記のこうした記述に根ざしているというのです。しかし、創世記のなかには人間のつとめを次のように記す箇所もあります。
神ヤハウェは彼(人)をエデンの園から追い出し、彼(人)がそこから取られた土に仕えさせた。(3章23節)
ここでは先ほどの「地を支配する」という表現とは対照的に「土に仕える」という動詞が使われています。この動詞については「耕させる」という日本語訳もあり、むしろこちらのほうが一般的です。しかし、この動詞は基本的に「(人に)仕える」を意味し、名詞になると「家来」や「奴隷」という意味になります。先ほどは人間が大地の支配者でしたが、今度は人間が土の世話をする存在になる、と記されているわけです。まるで逆のことをいっているように思えるかもしれません。たしかに、このふたつの記述だけをくらべてみると、矛盾しているように見えます。
仕える支配者
このふたつをあえて同じ意味合いで使っているとするならば、支配者とは、任されたものを世話する存在なのだ、ということになるでしょう。「支配する」ということばを「仕える」ということばでいいかえることによって、支配するものと支配されるもの、というふたつの対立する存在の見方そのものを変えることができます。まったく別の角度から見ることによって「支配する」の定義を変更しているのです。「仕える」ということばを用いることによって、自然対人間という対立関係が消えてしまいます。
この一見矛盾に見えるふたつの考え方がともに創世記のなかに収められていることこそ、私は大切だと思います。人間は自然を支配するもので、それは神の命令なのだ、という考え方と、神は人間を自然の世話をするものとしてつくったのだ、という考え方です。こうした矛盾は、読者の間でその意味をめぐって議論となります。ある問題をめぐって議論をするということは、その問題についてよく考えることにつながります。こうして考えてみるとすでに古代において、自然破壊という問題に人びとは気づいていたのです。
(『謎解き 聖書物語』より抜粋)
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/voices081.html 【太陽系の星々と生命の起源を“宇宙の塵”に探る。】より
左近は自分の研究者人生を、“塵”に捧げようとしている。
「星は寿命を終えると爆発して塵となり、宇宙空間に散らばっていきます。そして塵は年月や環境によって性質を変えつつ、いつか次世代の星の材料となると考えられています。こうした『物質の循環』を追うことが僕の研究です」
しかし、塵の輪廻転生を追っていったい何がわかるのだろう? 実は左近が注目しているのは、塵の中でも生命と深く関わる「有機物」だ。
「太陽系にある有機物はすべてが太陽系由来ではなく、一世代前の星が死んだときの塵に含まれていたものかもしれない。このストーリーを検証することで『生命の起源』に迫りたいんです」
その探求に欠かせないツールが赤外線観測だ。地上の巨大な望遠鏡や天文衛星として打ち上げた宇宙望遠鏡で、赤外線を使って宇宙空間をただよう有機物のシグナルをとらえる。
学生時代に日本の赤外線衛星の草分けとなった「IRTS」の観測データ解析に関わって以来、左近は赤外線天文学の中心地で研究をしてきた。
「いまは、NASAが計画しているOrigins宇宙望遠鏡の赤外線観測装置の検討に携わっています」
NASAは10年毎に宇宙観測の大規模ミッションを設定し、実行に移してきた。Originsは2020年のミッション候補の一つで、こうしたメガミッションの検討に日本から研究者が参加するのは初めてのこと。周囲からは「これからの日本の赤外線天文学を担う人材」と期待されている。
ただ、左近自身は自身の評価にほとんど関心を示さない。
「天文学は巨額の研究資金を必要としますし、衛星の開発や打ち上げは大がかりな仕事に見えますが、一人ひとりの研究者が数十年という短い期間でできることは人類に課された科学的使命のほんのわずかの部分に過ぎないんです」
まだ技術検討段階にあるOriginsは、開発・打ち上げが成功したとして、データが解析できるようになるまで30年近くかかるだろう、と左近はこともなげに言う。もしかしたら、自分が現役のうちに解析することはできないかもしれない。
「でも、学術とは大きな問いに取り組み、『知識』という人類の共有財産をつくる仕事であって、自分ひとりの業績をつくる仕事ではないですから」
もちろん、研究者にとってより短いスケールでのモチベーションは必要ですが、と表情を崩して言葉をつなぐ。
「僕自身は観測とともに実験も行っています。塵を模擬した物質を手元で作ったり、それを宇宙空間にさらして変成させたりする実験は、その場で自然からの応答を得ることができる。それが僕にとって次へ向かうエネルギーになるんです」
遠い宇宙を探る望遠鏡による“観測”と、目の前の「物」に操作を加える“実験”。規模と時間のスケールが対照的な2つの道具を組み合わせ、左近は宇宙の塵を追い続ける。その探求はきっと、次世代の天文学者が引き継いでいく。
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https://gakuen.koka.ac.jp/archives/525 【自我に固執(こしゅう)する見解を打ち破って、 世間を空なりと観ぜよ。中村元訳(『スッタニパータ』1119)】より
もともと無(非顕現(ひけんげん))であったところから、否、時間も空間も未だ存在しなかったところから、名(nama)と形(rupa)を通して、今、われわれが見るが如き可視的宇宙は顕現してきた。花には花という形があり、人には人という形がある。しかし、有名・有形なるものはすべて、その可変性と有限性ゆえに、いずれは過ぎ去る虚妄なるものである(同上757)。 さらに、名と形からなるこの現象世界(世間)は、遠くから眺めていると陽炎(かげろう)は存在するように見えるが、近づいてよく見るとどこにも存在しないように、われわれの散漫(さんまん)な心(散心=妄心)には、有りもしないのに有るかの如く見えている空なるものである(非有似有)。それは私(自我)についても言える。ところが、私には私という形(実体)が有るという我執(がしゅう)(見解)に囚われ、われわれは独り生死の世界(世間)を廻っているのだ。そこで釈尊は、自らの教義を「常によく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って、世間を空なりと観ぜよ。そうすれば、死を乗り越えることができるであろう」と纏(まと)めたのだ。 すると、われわれが辿(たど)るべきは、死すべきものから不死なるものへ、形あるもの(有為)から形なきもの(無為)へということになるが、そのためには心(妄心)を除き、世間は空なりと覚るのでなければならない。つまり、河川が大海に流れ込むように、有名・有形の世間に対する妄執を離れ、言葉も及ばず(無名)、形もなく(無形)、かつて一度も時間に触れたことのない非顕現なるもの(法身)と一味になる時、われわれはどこに存在するのでもないが(無我)、至るところに存在する(大我)。かくしてわれわれは、仏教が説く、存在するすべてのものに対して無縁の慈悲を注ぐことができるのだ。(可)
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