森は海の恋人


https://www.youtube.com/watch?v=4boJZd4QHHE

https://pride.kesennuma-kanko.jp/slow-city/activities-01/ 【森・里・川・海は、一つのもの。】より

流域全体を見つめ、自然とのつながりを大切に

豊かな山の養分が海に流れ込む気仙沼では、カキやホタテなどの養殖業が発展。地元の漁師たちは養殖技術を磨くと同時に、海産物が育つ自然環境の保全にも努めてきました。その活動を牽引してきたのが、NPO法人「森は海の恋人」の理事長・畠山重篤さんです。気仙沼市唐桑町の舞根湾でカキを育てる重篤さんは1989年、海を守るために植樹活動を開始。水源の山に木を植えることで、流域全体の環境を守り育てる運動を続けてきました。そして現在は息子の信さんとともに、国内外の多くの人たちを巻き込みながら自然保護や環境教育の活動を広げています。こうした「森は海の恋人」の精神や活動は、世界で近年叫ばれるようになったSDGs(持続可能な開発目標)にも通じるもの。時代に先駆けて森・里・川・海のつながりに着目したきっかけや成果、これからも重視すべき自然との向き合い方について、お二人の声をお届けします。

「青い海を取り戻すため、漁師たちが山への植樹をスタート」

重篤さん

カキ漁師の私が山に木を植え始めたきっかけは、50年以上も前にさかのぼります。その頃の日本は戦後の高度経済成長期にあり、工場の建設やまちの整備など都市開発がどんどん進行。農業のあり方も変化し、化学肥料や農薬が大量に使われるようになりました。こうした人間の都合によって、陸側からの工場排水や生活排水が海へ流れ込み、日本中の沿岸部が赤潮で汚染されてきたわけです。

NPO法人「森は海の恋人」理事長の畠山重篤さん

気仙沼は当時、日本最北のノリの産地として有名でした。気仙沼湾に注ぐ大川の河口には干潟が広がっていて、そこで上質なノリが採れたのです。ところが赤潮の影響で、初めにノリの養殖が困難に。海の仕事から陸の仕事に商売替えすることを漁師言葉で「陸(おか)に上がる」と言いますが、その選択を余儀なくされる人が増えてきました。私がカキを育てる舞根湾にも汚染が近づきますが、海の生き物が根っから好きな自分にとって、海から遠ざかる生活はなかなか思い描けません。「もう一度、海本来の姿を取り戻せないだろうか」。そのために何かできることはないかと、地元の漁師たちと一緒に考えるようになります。

カキの養殖いかだが並ぶ気仙沼市唐桑町の舞根湾

全国のカキ産地を見て回れば、どこも川の水が海に注ぐ汽水域。川から流れてくる水の中に、カキのえさとなる植物性プランクトンの養分が多く含まれていることはわかっていました。「森の恵みが川を通じて運ばれ、海と生き物を豊かにする。森と川と海は一つだ」。そう確信していた私は仲間たちと一緒に、流域全体で対策しようとあらゆる関係先に呼びかけました。しかし、当時の組織は縦割りの考え方が強く、ほとんど取り合ってもらえません。それならば、川の流域に住んでいる人たちの意識から変えようと、大川上流の室根山(現在の岩手県一関市室根町)に木を植えることにしたのです。


一関の夏祭りは 海の祭り!! 隆起した台地での夏祭りでは?


https://www.minyu-net.com/news/detail/202002249415 【【 象潟 】<象潟や雨に西施がねぶの花> 憂いを帯びた『美女の趣』】より

 象潟は、秋田県にかほ市にあった無数の小島が点在する入り江である。昔から松島と並び称される景勝地として知られた。

 そして松尾芭蕉が訪問を熱望した「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)の旅最北の到達地だ。象潟の場面はこう始まる。「美しい景色を数限りなく見て来て、いよいよ象潟に赴く今、期待に心が気負い立つ」(意訳)。芭蕉の高ぶりが伝わってくるだろう。

 だが、象潟について何も知らない記者は、ピンと来ないまま2月上旬、列車に乗り込んだ。

 よく変わる天気

 1689(元禄2)年6月15日(陽暦7月31日)、芭蕉と河合曽良は、酒田(山形県酒田市)をたち、吹浦(ふくら)(同県遊佐町)で1泊した後、翌16日、雨の中を象潟のほとりの集落、塩越にたどり着いた。折から塩越では熊野神社の祭り。芭蕉たちは混んだ宿を変えるなど、気ぜわしく過ごしつつも、海に近い象潟橋で雨の夕景を楽しんだ。

 翌17日は、待望の象潟巡りである。水辺の蚶満寺(かんまんじ)から絶景を楽しみ、昼には雨も上がり日が差してきた。さらに祭礼での踊り見物、夕食後は舟での象潟遊覧と、バカンスさながらの様子が曽良の「日記」には記される。

 この事実に基づきながらも、「ほそ道」では、しっとりとしたドラマが展開される。

 例えば象潟への道中。右手の鳥海山は雨で見えない。「雨も又奇(き)也(雨もまた味なもの)」だが、雨上がりの景色も期待できると、浜辺で野宿する。翌朝は一転晴れ上がり、朝日の中、象潟に舟を浮かべるー。この雨景と晴色との対比、実に美しい。

 ただ、分かりやすい演出だなと記者は思っていた。しかしだ、象潟駅に降り立ちしばらくすると「演出でもなさそうだ」と思い始めた。現実の象潟も、実に天気が変わりやすいのだった。

 心を騒がす風景

 空模様を気にしつつ記者は、まず道の駅象潟「ねむの丘」の展望塔に上った。そして、陸の方角を望むと、芭蕉の高ぶりが一気に腑(ふ)に落ちた。

 国道7号と山裾の間の枯れ野に、小ぶりな丘が無数にある。かつて入り江だった象潟は、1804(文化元)年の地震で隆起し陸になった。点在する小丘は、すべて当時の小島だ。さらに遠景には、鳥海山を盟主とする山並みがそびえ、振り返ると日本海。巨大で現実離れしたパノラマを完成させている。

 この心を騒がす風景を、芭蕉は美女にたとえた。

 〈象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花〉。象潟の美景の中、雨にぬれる合歓(ねむ)の花は、眠りについた西施の面影を彷彿(ほうふつ)とさせる、の意(佐藤勝明氏訳)。西施は、越の国から呉の国王に献上された中国古代の美女のことだ。

 芭蕉はこうも記す。「象潟は松島に似ていて、また違う。松島は笑うようで、象潟は恨むようだ。その土地の趣は(悲しい境遇の)美女が憂いに閉ざされているようだ」(意訳)と。

 確かに、先刻までの青空がうそのように降り出す小雪の中、田んぼになった昔の島々の間を歩きながら見る風景は、憂い顔の美女を思わなくもない。しかし、少々渋すぎではないか...。

 すると訪れた蚶満寺で、修行中の横山智弘さん(29)が「象潟を見るなら田植えの頃が一番」と教えてくれた。春には小丘群の間の田に水が張られ、その風景は、しっとりと美しく、海だった象潟を思わせるのだと言う。

 とぼとぼと季節はずれの旅人かーとつぶやきつつ戻った道の駅で、うどんをすする。すると店の佐藤洋子さんに「芭蕉が象潟で最初に食べたのは、うどんだったのよ」と言われ驚く。確かに「日記」にあった。そこへ佐藤さんの夫と、にかほ市観光案内人協会の伊藤良孝さん(78)が現れ「〈汐越や鶴はぎぬれて海(うみ)涼し〉の句は、海に足をつけた女性の立ち姿を詠んだ」と語り、ついでに「松島が鈴木京香なら、象潟は壇蜜」なんてことも言う。

 ああ、この雰囲気、象潟の場面を締めくくる3句と同じだと思い当たった。それぞれ、祭りの食事、夕涼みする家族、岩の上のミサゴの夫婦を詠んだ曽良たちの3句は、スナップ写真のように、土地の人の温かさ、家族の情を写し出している。象潟の場面の秀逸なエピローグである。

https://nanmoda.jp/2018/09/3898/ 【九十九島くじゅうくしまの楽しみかたを探そう】より

にかほ市には全国的に知られた名所旧跡があります。それは、象潟きさかたの九十九島くじゅうくしま。

かつては、無数の島々が湖に浮かぶ風景が見られた景勝地で、江戸時代には宮城の松島と並び称されてきましたが、なんと1804年の地震で地面が大きく隆起して、水はなくなってしまいました。

そもそも島ができたのは、さらにぐぐっとさかのぼって紀元前466年。鳥海山が崩れて、岩なだれが川に沿って海に流れこんだことから。それから後、潟湖となって九十九島、あるいは八十八潟として知られるようになったということです。

紀元前の出来事まではっきりと時期が特定されていることに感心しつつ、それにしても地球ドラマチックな土地だなと感じます。

今では、水田の間にかつての島がいくつも丘のようにのこり、ちょっと他では見ない奇景に。

島の大きさはいろいろ。すべての島に名前がついている。

こちらの駒留こまどめ島には“上陸”することもできる。

駒留島からの眺め。かつての海が一面の水田に。初夏の水田風景、秋の黄金色、冬の雪景色を見比べてみたい。

にかほ市象潟郷土資料館では、かつて湖潟だった頃の九十九島を825分の1サイズで再現したジオラマが見られます。

松尾芭蕉、小林一茶らが目にした光景と聞けば、そこまで昔でもない気がしますけど、一夜にして景色が激変したんですね。

現在の眺めと照らしあわせる楽しみも。

手もとでボタンを押すとジオラマ内でその場所が光る、ちょっとなつかしの仕掛け。

郷土資料館の学芸員、齋藤一樹さいとうかずきさんに九十九島の楽しみ方を相談してみました。

——九十九島の各島の名前って誰がつけたのでしょう。

齋藤

それがわからない。象潟って昔から歌に詠まれてきた歌枕の地なんです。象潟は、隣りの本荘の殿様の管轄で、本荘の殿様がお抱え絵師に象潟の絵を描かせてるんだけど、それが江戸の天明期、1780年代。そのときには、もう、ちゃんと島の名前もある。ただ、いつ誰がどうやって名前をつけたのかはわからない。

——そうか、由来は不明なんですね。

齋藤

昔の絵に描かれた名前と今の島の名前も合わないんです。だから、何度か名前も変遷しているんだと思います。

——どこか特に好きな島はありますか。

齋藤

松尾芭蕉が象潟へやって来たときに、船を寄せたと「奥の細道」にも書かれてる能因島のういんじまとか。能因島は、能因法師が隠居した島だという伝説があって、だから芭蕉も訪れたんですよ。

——芭蕉ゆかりの場所ですね。

齋藤

芭蕉の弟子の曽良そらが象潟で詠んだ「波越えぬ契ちぎりありてやみさごの巣」という句があって、そのみさごって鳥の名前がついた、みさご島というのもあります。誰のセンスで名付けたんだろうって島もあって、私が気になるのは「絵松島えまつしま」。面白い命名だなと思って。

——齋藤さんは九十九島、どう楽しめばいいと思います?

齋藤

九十九島って考えてみるとすごいところなのよ。まず、鳥海山の噴火で生まれた島が、地震の隆起で今の姿になったという自然の記録。それを開発しようって人と保護しようという人のドラマもある。芭蕉や一茶らも訪れてるから文学的な作品がのこされている。防災、開発と自然保護、文学……今に通じることが昔から集約されてる場所なんです。

齋藤さんが教えてくれた保護と開発のドラマとはこのような内容でした。

1804年の地震で土地が隆起した後、本荘の殿様は手のひらを返すようにして、島をつぶして水田開発に乗り出しますが、蚶満寺の住職・覚林かくりんがひとり反対。当然、殿様が聞き入れるわけはないので、覚林は、蚶満寺を閑院宮家かんいんのみやけという宮家の祈願所に指定してもらい、寺の格を上げることでそれに対抗しました。その結果として、新田開発の勢いは弱まったものの、覚林は捕らえられ獄死することに。

そして、昭和に入って、のこされた島のひとつひとつが文化財指定を受け、現在にいたるまで保全されています。

文化財指定された島の数は103島と、実は99以上ある。島を巡る遊歩道も整備されている。

蚶満寺は、九十九島のなかでも現在、最もアクセスしやすい位置にあります。潟湖があった時代も、蚶満寺から九十九島を望むのは、象潟巡りの定番コースでした。

ということで、最後は蚶満寺へ。

すぐ隣りに海があるかと錯覚するような蚶満寺の参道。

蚶満寺は、ちょうど年に1度の地蔵尊の日だった。

歴史を知ったせいか、どこかの離島に来た気分が抜けない。

これも齋藤さんに教わったことですが、紀元前に起きた鳥海山の山体崩壊は、ちょうど縄文晩期の頃。約60億トンもの土砂が流れ落ちたそうで、それによって島ができたわけですが、縄文の人たちの被害も大変なものだったろうと。

そして、1804年の大地震では地面が約2m以上も隆起。当然、津波も襲来しました。

長い時間が経てば、歌枕の地、名勝地として遠くからも人が集まる土地となりますが、それぞれの時代においては被害の大きな災害でしかなかったでしょう。スケールの大きな地球時間とその土地に暮らす人たちの歴史の積み重ねの上に、名所と呼ばれる場所は生まれています。

そんな話を聞いて楽しめない? いえ、やっぱりいろんなことを知れば知るほどに、景色を見る目はより深まってくるのではないかと思います。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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