満月のりこ【心理セラピスト@東京】@mitsukinoriko
自由になりたい 幸せになりたい どうすればいいですか?
支配されてきた人は 人に答えを求める 無意識に 支配してくれる人を 探してしまう
それは本当の自由や幸せではないよね 答えは 自分の中にしかない あなたはどうしたい?
Facebook新垣 玄龍さん投稿記事【本当の自由とは】
人生は思うようにならない、そのような苦しみがあります。
私の目標を邪魔する何か、障害物のようなものが常にあり、だから不自由で苦しいのだと。
そして、その障害物を、うまくかわしたり、こなしたり、していく技術などを覚えていけば自由になり幸せになることだと考える人が多いようです。
しかし、そのような技術は根本的には役に立たないことがあるのです。それどころか苦しみを増すことにもなります。
仏教の禅の『臨済録』に「若(も)し真正(しんしょう)の見解(けんげ)を得れば、生死に染まず、去住自由なり」とあります。
「本当の悟りを得れば、物事の変化に心を奪われることなく、行くも止まるも思いのままだ」という意味でしょうか。
つまり「自由」とは「他に依存せず、自らに由(よ)って存在し、行為する」ことで、「自らに由る」とは、条件づけの小さな自我に依存して、したい放題を通すというのではなく、逆に自我を投げ捨てて宇宙の大生命、または大自然の一部だと自覚したとき、何物にもとらわれず、何物にも妨げられない、あるがままでありながら自由を愉しんでいることです。
川の流れは自由は不自由か。
川は川であることを徹底している。川であることに一切の迷いがない。このように皆それぞれが、自分でOKだと本気で腹が決まったとき、損得や善悪、カルマを超えて幸せで自由な一歩を踏み出すのです。
私(自我)からの自由へ。
https://gakuen.koka.ac.jp/archives/515 【自己は自分の主であり、帰趨(きすう)である。故に自分を整えよ。中村元訳(『真理のことば』380)】より
齢80になろうとする釈尊が弟子のアーナンダを伴ってある村に滞在していた。45年の永きにおよぶ教化の旅もようやく終りに近づき、その地で彼は最後のとても意義深い説法をすることになる。それは「この世で自らを島(灯明)とし、自らを拠(よ)り所(どころ)として、他人をたよりとせず、法を島(灯明)とし、法を拠り所として、他を拠り所としてはならない」(『大パリニッバーナ経』)というものであった(漢訳で「自灯明・法灯明」と纏(まと)められているもの)。
かつて釈尊は、弟子たちに、自らが生死の流れを無益に経(へ)巡(めぐ)ってきたと語ったことがある。その彼が、入滅を前にして、「自らを拠り所とし(自帰依)、法を拠り所とせよ(法帰依)」と彼らに諭(さと)した意味は何か、われわれは深く味わう必要がある。まず、なぜ彼は、自らを拠り所とせよと言うのだろう。それは、われわれ自身の内側にわれわれが帰趨(きすう)すべき生の源泉、あるいは不動の真理が隠されているからだ。その真理を仏教は法といい、それを知る時、まさに彼がそうであったように、われわれもまた生死の流れを渡って涅槃の世界へと帰って行く。が、そうできなければ、この世とかの世を空(むな)しく往来する迷道の衆生に留まることになるからだ。
すると、自らを拠り所とすることと(自帰依)、法を拠り所とすること(法帰依)は本質的に一つの事柄ということになろう。つまり、真理への鍵はわれわれ自身の自己であり、自分を整え、内なる真実に目覚めることが真理(法)をも知る(覚る)ことになる。かくして、自己の真実に目覚め、真の主となるとき、内も外も、見るもの全てが真実を顕わすが故に、釈尊はヴェーサーリーで、あの矛盾とも取れる、とても印象深い言葉を発したのだ。「この世は美しい、人間の命は甘美なものだ」と。(可)
Facebook加藤隆行さん投稿記事【自由ってなんだろね】
「ああ、自由になりたい」そんな言葉をよく聴きます。不自由な人はその不自由を取り除こうと「他人」を変えようとします。
「他人」を変えようとすると「他人」に執着し、「他人」に振り回され、「不自由」になります。自分のコントロール外のものをなんとかしようとすることで、自ら「不自由」に”縛られ”に行きます。自由な人は「他人」を変えようとしません。「他人をどうするか」よりも
「自分がどうしたいのか」でものごとを決めます。その時、「他人」と利害がぶつかることがあれば「他人」に「こうしてくれればありがたい」と「お願い」や「交渉」はしてみるかもしれません。しかし「他人」がそれを聞き入れてくれなくともそれも相手の「自由」だと知っています。
「まあしょうがないな」「相手には相手の都合があるっぺ」と思い
「じゃあ自分にできることをしよう」と自分のコントロール内のことに取り組みます。
相手の「自由」を認めると自分が「不自由」になると思っている人はめちゃくちゃ多いのですが、それは大きな大きなカンチガイです。
相手の「自由」を認めないと自分が「不自由」になります。
相手の「自由」を認めると自分が「自由」になるのです。相手の自由を認めないということは相手に束縛されているのと同じです。
「自由」の意味は他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること。
そして「由」とは「よりどころ」という意味で「自らを、よりどころにする」という意味。
「他を、よりどころにする」人には「自由」は訪れません。
他人も環境も関係ない。「じゃあ私はどうしたい?」これが「自由」を取り戻す本当の方法です。
*
さて、ここまで読んできてなんで私はこんなに「不自由な人」になってしまったのだろう、と思う人もいると思います。
それは昔むかし、まだ私が小さかった頃に私の「自由」を認めてもらえない環境にいたからかもしれません。だから他人を変えないと自分は自由になれないと思い込んでしまった。
でももうアナタは「自由」なのです。環境の奴隷や被害者ではありません。
自分をよりどころにしてください。「ほんとうは私はどうしたい?」ただただそれだけが答えです。
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FacebookNakako Yamamotoさん投稿記事
自死も選択であり善悪はありません。ただ早めに退出を選んだ多くの人達は、魂になって初めて気がつく事があります。
●自分は永遠なる存在である、という事実
●物質界での八方塞がりは全くのイリュージョンであった、という事
●助けは常にあったという事
●ネガティブな気持ちはイリュージョンであって自分の本当の波動はピュアでポジティブであるという事
●ハイヤーマインドの持つ高い視点こそが本来の自分であるという事
●自分が感じられる以上の存在価値が自分にはあるという事実
●全てが1つで全てと繋がるという事。即ち自分は常に一人ではないという事
●全ては上手く運んでゆくという事実
「バシャール:光ある存在」より引用させていただきました。
Facebook相田 公弘さん投稿記事
詩人・坂村真民さんの「坂村真民一日一言」 志賀内泰弘
講演会で、「小さな小さなことでかまわないので、親切をしましょう。 情けは人のためならず。それは必ず自分に還ってきます」と呼びかけています。
ある時、会場で聞いていただいていた年配の男性から質問(?)がありました。「志賀内さんの話は頭ではよくわかったけど、恥ずかしくてできん」とおっしゃるのです。
たまたま、電車でお年寄りに席を譲ったり、白いの杖の方をヘルプする話をした後だったからでしょうか。たしかに、電車の中でお年寄りに声をかけるのは勇気がいるものです。
私も、最初の頃は顔が真っ赤になりました。今でも、ちょっと恥ずかしい気分になります。
「別に、お年寄りに席を譲ったりすることだけが 親切ではありませんよ」とお話します。親切とは呼べないかもしれませんが、狭い道で「お先に」と一声かけたり、満員のエレベーターの中で、ほかの人の降りる階のボタンを押してあげるだけでもいいのです。
詩人・坂村真民さんの「坂村真民一日一言」致知出版社を読んでいて、こんな詩に出会いました。
何かをしよう みんなの人のためになる 何かをしよう よく考えたら自分の体に合った
何かがある筈だ 弱い人には弱いなりに 老いた人には老いた人なりに
何かがある筈だ 生かされているご恩返しに 小さいことでもいい
自分にできるものをさがして 何かをしよう
「生かされているご恩返しに」という一行に心打たれました。今日、一日を生きていること、
いや、生かされていることに心の底から感謝すれば、自ずと、恩返しができるわけです。
「プチ紳士を探せ!」運動のサポーターに手を挙げて下さる方が、どんどん増えています。240名を超えました。その精神は、「できる人が、できる時に、できる範囲で」。
「弱い人には弱いなりに 老いた人には老いた人なりに」と同じです。
少しずつですが、プチ紳士・プチ淑女が増えています。もちろん、まだまだ目に見えるほどの成果はあげていません。コツコツです。
FacebookHiroshi Kaneiさん投稿記事
It is not too late, let us plant more trees.🌿🌲❤
明日、世界が滅びるとしても、 今日、あなたは リンゴの木を植える ~開高健~
オリジナルは、宗教改革で知られるマルティン・ルターの言葉。
「もし明日世界が滅びるとしたらどうしますか?」と聞かれたルターは、「今日、わたしはリンゴの木を植える」と答えたいう。
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古代ギリシャのことわざで、こんな言葉があります。
“A society grows great when old men plant trees whose shade they know they shall never sit in.”
老人が植えた木(種)はやがて素晴らしい大木(社会)に成長するが、彼らはその木の木陰に座ることはないということを知っている。
つまり今 私たちの世代が何かアクションを起こし社会を変えようと努力してもその変化を目の当たりにすることはできない。
しかし信じて次の世代にバトンを繋ぐことで きっとその種子が芽となって成長する。
未来の子どもたちへ享受される。
老人がその木陰に座ることはないと知りながら木を植えるとき、やがて素晴らしい社会に成長する😇
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