https://toyokeizai.net/articles/-/679847 【太宰治、6月19日の「桜桃忌」が命日以上に有名な訳】より 入水は13日だが…元ネタ小説の『桜桃』を解説
6月13日の命日よりも、6月19日の「桜桃忌」で知られる文豪・太宰治(写真:髙橋義雄/PIXTA)学校の授業では教えてもらえない名著の面白さに迫る連載『明日の仕事に役立つ 教養としての「名著」』(毎週木曜日配信)の第36回は、6月19日の「桜桃忌」で知られる文豪・太宰治の短編小説『桜桃』について解説します。
「桜桃忌」の元ネタとなった短編小説『桜桃』
6月19日は「桜桃忌」と呼ばれている。桜桃とはさくらんぼのことなのだが、なぜこんなふうに呼ばれているかといえば、太宰治の好きな食べ物だったからだ。そう、6月19日は太宰治の墓前にさくらんぼが大量に供えられる日なのである。
実は太宰治の命日そのものは6月13日。入水したのは13日なのである。だが遺体が発見されたのが19日であり、太宰と親交のあった作家がこの日を「桜桃忌」と名付けたために、19日のほうが有名になったのだ。
太宰治にちなんで、今回は「桜桃忌」の元ネタとなった小説を読んでみよう。
短編小説『桜桃』は、こんな文章から始まる。もしかしたら『桜桃』を知らなくとも、冒頭のフレーズだけ聞いたことがある方もいるかもしれない。
子供より親が大事、と思いたい。
(太宰治『桜桃』「人間失格・桜桃」角川文庫、角川書店より引用)
なぜこんな文章を太宰は書いたのか? それはもちろん、実際は「子供より、親が大事」なんてことはなく、現実は「親よりも、子供が大事」に決まっているからである。少なくとも彼が生きていた時代は、そうだった。文章はこのように続く。
子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少くとも、私の家庭においては、そうである。(中略)この親は、その家庭において、常に子供たちのご機嫌ばかり伺っている。子供、といっても、私のところの子供たちは、皆まだひどく幼い。長女は七歳、長男は四歳、次女は一歳である。それでも、既にそれぞれ、両親を圧倒し掛けている。父と母は、さながら子供たちの下男下女の趣きを呈しているのである。
(『桜桃』)
太宰の子どもたちはまだ幼かった。そしてこの小説に登場する子どもたちも幼い。しかし子育ては、決して容易ではなかった。太宰は子育てを、「子供たちの下男下女になること」と表現しているのだ。
下男下女とは、身分の高い人に雇われ、住み込み奉公する者のこと──いわば「お手伝いさん」のようなものである。子どもを育てそしてケアをすることは、子どもの下男下女になることである。そのような言葉を、太宰は晩年の短篇『桜桃』に書き記している。
そう、実は『桜桃』は、子育てに疲弊する夫婦の物語なのである。
幼い子どもたちを抱え、父は仕事をしなければいけないプレッシャーを感じ、母は家事を休むことができない疲労を感じている。その結果、夫婦げんかが勃発する。そして父は家庭から逃げるように、飲みに出かける──そんなストーリーが『桜桃』なのである。
なんとも現代にも通じるような、子育ての疲弊を父親目線から描いた小説。それが短編『桜桃』であり、そのような小説の書き出しが「子供より親が大事、と思いたい」であるのは……なかなか重たい事実だ。思いたいけど、そんなことは決して、ない。
現代よりも子育ては当然の義務だった時代
太宰の生きた時代は、現代よりもっと、子育ては当然の義務だと思われていた。しかも3人も育てるのも、当然である、と言われていた。そんな時代にあって、男性が「子育てってマジでつらい」「子育て中の夫婦げんかもマジでつらい」と吐露する小説を書いていたことに、私は些か驚いてしまう。
とはいえ、『桜桃』の語り手である父親は、決して良い父親だったわけではない。彼は「原稿仕事をするため」と飲みに出かけてしまうのだ。しかも、妻が「重態の妹のもとに行きたいから、子どもたちを見ていてほしい」と言うのに。
彼は妻に「誰か子守を手伝ってくれる人はいないか」と言うのだが、そんな人もいなかった。
「誰か、ひとを雇いなさい」
と、ひとりごとみたいに、わずかに主張してみた次第なのだ。
母も、いったい、無口なほうである。しかし、言うことに、いつも、つめたい自信を持っていた。(この母に限らず、どこの女も、たいていそんなものであるが)
「でも、なかなか、来てくれるひともありませんから」
「捜せば、きっと見つかりますよ。来てくれるひとが無いんじゃ無い、いてくれるひとが無いんじゃないかな?」
「私が、ひとを使うのが下手だとおっしゃるのですか?」
「そんな、……」
父はまた黙した。じつは、そう思っていたのだ。しかし、黙した。
ああ、誰かひとり、雇ってくれたらいい。母が末の子を背負って、用足しに外に出かけると、父はあとの二人の子の世話を見なければならぬ。そうして、来客が毎日、きまって十人くらいずつある。
(『桜桃』/太字は原文ママ)
……なんとも、読んでいて胸が痛くなる描写である。妻目線に立てば、「人に頼むんじゃなくて、お前が子を見てろよ!」と腹を立てるところ。しかし夫目線に立てば、「家にいたら仕事の来客もやってくるし、原稿をしながら2人も子どもを世話できないよ!」という本音もうかがえる。夫婦2人での、3人の子育ては、今も昔も大変なのだ。
子育てを手伝ってくれる人もいない。夫婦げんかだらけの日々。しかし仕事の来客はやってくる。そして彼は「もう、仕事どころではない。自殺の事ばかり考えている」ようになってしまい、逃げるように酒を飲みに行ってしまうのだった。
ラストシーン、妻と子を家に置いてやってきた飲み屋で、さくらんぼが出てくる。
桜桃が出た。
私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。
(『桜桃』)
「さくらんぼ」といえば、この時代のぜいたくな果物の代表だった。しかしそんなさくらんぼを、彼は「まずそうに食べては種を吐く」。それは妻と子を置いてきた罪悪感とともに食べる味だったのだ。
太宰の小説の胸に迫る描写
『桜桃』は、もちろんあらすじだけ読めば、クズ男の話だ。育児を放棄し、酒に逃げる男の物語である。しかし一方で、このさくらんぼを食べる描写を読むと、あらすじ以上に胸に迫るものがある。
毎年、桜桃忌には、法要が行われている三鷹市の禅林寺でさくらんぼが供えられる。そのさくらんぼは、想像以上に苦く、小説のなかで描かれていた。まさに家族を蔑ろにしながら小説を書き続けた彼の人生の象徴だったのである。
太宰の代表作『斜陽』において、「自分の幸福も光栄も、生きているうちには決して無い」という文章がつづられている。
「死ぬ気で飲んでいるんだ。生きているのが、悲しくて仕様が無いんだよ。わびしさだの、淋しさだの、そんなゆとりのあるものでなくて、悲しいんだ。陰気くさい、嘆きの溜息が四方の壁から聞えている時、自分たちだけの幸福なんてある筈は無いじゃないか。自分の幸福も光栄も、生きているうちには決して無いとわかった時、ひとは、どんな気持になるものかね。努力。そんなものは、ただ、飢餓の野獣の餌食になるだけだ。みじめな人が多すぎるよ。キザかね」
(太宰治『斜陽』新潮文庫、新潮社)
今も昔も、太宰の文章に熱狂する若者がいる。生きているのが、悲しくて仕様がない、という言葉だけが救ってくれるものがある。だから今年も、太宰の墓前には、たくさんのさくらんぼが供えられるのだろう。
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