鍵遠くかけしきりに泉といふ

泉は源泉?

Facebokごとう 孝二さん投稿記事  I LOVE JAPAN❤️〜世界を融和に〜

「いよいよ一人一人が主役の時代へ」

日本の皇室は世界最古の王室であることは学校で教えられません

戦後タブー視された神道と皇室の役割に向き合うことは日本人としての自分のルーツに向き合うことでもありますね。そして突き詰めていくと世界の文化の源泉に行き着くので驚愕します!

自然と私はひとつというかんながらのみちは

カミ(神)  キミ(君、天皇)  オミ(臣、政治家)  タミ(民、国民)という秩序体系がひっくり返りタミ、国民が四者を統合する新たな時代に入っていきます。

憲法にある主権在民 国民に主権がある社会が実現されます。

それにはタミがカミをつかみ一人一人が創造主になる必要があります。

これは宗教でも何でもありません。日本人の道なのです。武道、茶道、華道と同じ道なのです。公の精神と和の精神を体得する道です。それは世界平和への道です。

西洋の人達も求める道なのです!


Facebook北條 毅さん投稿記事

久しぶりに会った人に、「最近どう?」と聞くと、ここしばらくの出来事を話してくれる。

そこで、「それで、どう感じるの?」と聞いてみると、「○○は□□だから良いと思う」とか、

「こういう理由で○○はやらないといけないかなと思う」とか、その出来事をどう「思うか」を考えながらたくさん話してくれる。

うん、それは「どう考えてるか」だよね。「そうじゃなくて、あなたはいまそれをどう「感じてる」の?」そう聞くと、多くの場合、一瞬面食らった顔をして戸惑うんだよね。

戸惑って、そうしてようやく自分の感覚に意識を向け始めてぽつりぽつりと「感じていること」を語り始める。ㅤそれからやっと、人間らしい血の通ったやりとり、エネルギーが交わる会話が始まる。こんなことが、実は珍しくない。日々、一生懸命頑張ってる人ほどこんなことが多い。目の前のやるべきことを頑張りすぎてそれをどう「感じてるのか」を置き去りにしちゃってるんだよね。

仕事で関わるクライアントでもプライベートの友人や知人でもその人が「どう考えたのか」から出来事にアプローチしたくない。

一見正しく論理的に見える思考の世界から作り出されたㅤ「それっぽい答え」は言葉の強さや正しさとは裏腹にㅤ「何のエネルギーも感じない言葉」になってることがとても多かったりする。

「どう考えたか」の前に、まず「どう感じたか」、だよ。

どんなに稚拙でもどんなに非論理的でも 本当にその人が感じていることを本当にその人の内から発するがままに言葉にし、伝えようとしたときには言葉以上の「想い」は確実に伝わるもの。

そのときに、その人が発している濃密で、豊かで、輝かしいエネルギーこそがその人なりの世界を創造する力の源泉そのものな​んだと思う。

思考だけの世界から作り出した「それっぽい答え」は いかにも正しそうな「それっぽい世界」を生み出し続ける。魂から湧き出した根源的な力を手にした人はその人が思い描き、望む世界を魔法のように生み出し続けていく。ㅤ

少なくとも僕はそんな純粋な生き方をしている人が好きだなと思うんだ。

どう考えたかは一度横に置いといて「どう感じたか」に意識を向けてみよう。

そして、「どう感じたか」をもっと深く感じてみよう。ㅤ

意識にも階層がある。もっと深く、もっと奥底の部分に意識を向け続けてみよう。ㅤ

ちょっとした意識を向ける先の違いが僕らの世界を、未来を大きく分けていく。

すべての答えは自分の中にある。そのことを、まず無条件で信じてみよう。ㅤ

そして、自分自身に深く潜ってみよう。

答えはいつも外側にあるんじゃない。あなたの世界はあなたの内側から始まるんだ。


https://irohani.art/study/9622/ 【【ゴッホと日本】天才画家が魅了されたジャポニスムって?】より

フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ、通称ゴッホは印象派を代表するオランダ人画家です。率直な表現と大胆な色遣いで知られるゴッホは、実は日本ととてもゆかりの深い画家でした。

この記事では、天才画家ゴッホが魅了された「ジャポニスム(日本趣味)」について、ローマの大学院で美術史を専攻している筆者が解説していきます。

19世紀に流行したジャポニスムとは?

クロード・モネ『ラ・ジャポネーズ (La Japonaise)』

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19世紀に開催された万国博覧会では、それまで西洋の画家たちが見たこともなかったような東アジアの芸術作品が展示されました。

なかでも芸術家たちの目を引いたのが、浮世絵などを中心とした日本美術でした。

ゴッホやクロード・モネなどの印象派の画家たちは、色彩感覚や水の表現など、力強い日本芸術を作品の中に取り入れ、このムーブメントはのちに「ジャポニスム」と名付けられました。

ジャポニスムは、作品に日本風のタッチ(色合いや描写など)を取り入れるだけでなく、日本の芸術作品そのものを作中に描くまでに発展します。

ゴッホとジャポニスムの関係は?

ゴッホ『花魁(溪斎英泉による)』

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ゴッホは特にジャポニスムの影響を強く受けた芸術家の1人です。

いくつかの作品の中で浮世絵を模倣したり、背景全体に浮世絵を配置した肖像画なども残したりしています。

浮世絵の特徴として、当時の西洋画家に注目されたのは、はっきりと描かれた輪郭線と、立体感のない直接的な構図でした。

西洋絵画ではルネッサンス以降、輪郭線を明確に描くことはせず見る人が写実性を感じられるようなニュアンスを大切にしたタッチが主流であり、立体感を追求し奥行きがあるように見せる絵画技法が重要視されていました。

これらを無視した浮世絵のパワフルな直接的な表現が、ゴッホの目には新鮮にうつったのかもしれません。

ゴッホが影響を受けた作品例3つ

渓斎英泉『雲龍打掛の花魁』を掲載した「パリ・イリュストレ」誌1886年5月号

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ゴッホが強く影響を受けた作品の1つに、歌川広重の『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』が挙げられます。

西洋では水を平面画において実線として表現する伝統はなく、広重が実線で雨を作中に描き足している点に西洋の画家たちは驚いたと言われます。

ゴッホは、この作品を自分の手で模写するほど気に入り、その他にも広重の作品をいくつか模写していました。

参考:歌川広重『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』

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参考:ゴッホによる歌川広重の『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』の模写(『ジャポネズリー:雨の橋』)

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『ジャポネズリー:梅の開花』という作品も、ゴッホが1887年に広重の作品を真似して描いたものです。

ゴッホ『ジャポネズリー:梅の開花』

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同じ年に作成した『タンギー爺さん』では、肖像の背景すべてが日本の浮世絵となっています。

参考:ゴッホ『タンギー爺さん』

, Public domain, via Wikimedia Commons)

この作品は、ジャポニスムを象徴する作品の1つとしてしばしば例に挙げられるものでもあります。

まとめ

私たちが見慣れた浮世絵がゴッホの作品の背景に描かれているのは、なんとも不思議な光景ですね。

ゴッホ以外にも、クロード・モネやドガなど、19世紀の西洋画家の中には浮世絵の構図や色遣いに影響を受けた人がたくさん存在します。

19世紀の印象派の作品を鑑賞する際には、そんなジャポニスムの背景に思いを馳せるのも楽しいかもしれません。


FacebookART History, KOJI MORIさん投稿記事·

「糸杉のある道と星空」1890年5月 クレラー・ミュラー美術館

これは、サン・レミの精神病院時代の代表作のひとつ、「糸杉のある道と星空」です。アルル年末に「耳きり事件」を起こしたゴッホは、その直後に、地元の警察によってアルルの病院に強制入院させられました。幸い2週間ほどで退院できたのですが、3月19日のテオ宛ての手紙で、アルルの住人たちが、キチガイのゴッホを病院に送り返せという署名運動を起こして、警察署長が無理やりゴッホを病院に入院させたことが分かります。しかも、ほうり込まれた病室は、鍵のついた独房のような部屋でした。家族と友人達から遠く離れ、世間の無理解のまま、画家の共同体構想にも失敗した彼にとって、これは無常な仕打ちでした、

しかし、ゴッホは信じられないほどの冷静さで、テオに同じ手紙の中で「辛抱強く希望を持とう。それに興奮しすぎると、私の状態を悪化させるだけだろう」と書きました。しかし、住民と警察の迫害が続くアルルには、もはや留まれないことを認識した彼は、1889年4月から、自らサン・レミの精神病院に入院することを考え始めました。4月21日つけの手紙には[監禁されていたほうが安全だ」と書かれててあります。また同じ書簡に「発作の最中は、想像したこと全部が現実のような気がする」との記載があります。これは、興奮したときには、彼の頭の中で、現実と夢の世界の区別がつかなくなって、一種の白昼夢を見ているような状態になったのだと想像できます。そして、ゴッホはとうとう翌月の5月8日、プロテスタントのサル牧師に付き添われてサン・レミの病院に入りました。彼はそこでまる一年を過ごすことになります。

ゴッホは、そこでも何度も発作を起こして、大変苦しい時期を過ごしました。病院の医師は、ゴッホの病状を「癲癇性の発作」と診断しました。しかし、病院で半分閉じ込められた状態にあった1年間の間に、なんと100枚のデッサンと143枚の油絵を制作したことは驚嘆に値します。、

先日、アルルまで取材に出かけた際に、ゴッホが丸一年入院していたそのサン・ポール・ド・モーゾレ病院まで足を伸ばしました。サン・レミは、アルルから内陸部の北東へ約25キロほどいったところにあります。町の周囲には、南仏の真っ青な空の下に、ブドウ畑やオリーブ畑が散在して、非常に美しい場所です。病院の前には、ゴッホが描いたことで有名なオリーブ畑もあり、病院の半分は一般公開されていて、美しい中庭や、礼拝堂、裏の庭、それにゴッホの病室を再現したものなどを見学できます。私も取材後、道端に車を止めて、町外れのブドウ畑のそばでピクニックしたほどです。

この「糸杉のある道と星空」は、そんな サン・レミ時期の代表作のひとつであり、入院生活の最後に、事実上南仏に別れを告げた作品でもあります。入院した年の1889年6月には、外出が許されなかった病院の窓から描いたと思われる、うねる波のような星空と糸杉が描かれた「星空」という名作も描いています。しかしゴッホは、退院してパリに戻る前に、この糸杉のある場所で、束縛を受けずに自由に描いてみたかったのかもしれません。

「絵が描かれた場所」

この糸杉のある場所は、ゴッホが入院していたサン・ポール・ド・モーゾレ病院の裏側の、現在マリ・ガスク通りと呼ばれるところです。ゴッホのいた病室の窓からは、かなり左よりの場所になります。描かれた当時は、民家は全くなく、麦畑のみの平和な場所だったようですが、現在は右の写真のように、高い塀に囲まれた邸宅がならんでいます。この絵の舞台となった看做される場所には、今では写真のような案内パネルが設置されています。そのパネルの真横にある大邸宅の方をふと見ると、その庭にはずいぶん大きな糸杉が2本立っているのに気づきました。もしかすると、ゴッホが描いた糸杉も、これだったのかもしれません。

「画面概略」

画面は4つの部分に分割されています。まず上部のブルーの波打つ夜空です。その波の中には、左に太陽のように渦巻きながら輝く星と、右側には一部を糸杉に隠されながらも赤と黄色の光を放つ月が並んでいます。この月は円く描かれていますが、見取り図では、はっきりと三日月になっています。

そして、うねる星の波は、下の麦畑の黄色い直線のタッチと見事なコントラストを示しています。その夜空と麦畑の間に、青の帯状の物が見えます。これはおそらく遠くに見える丘でしょう。そこに使われた青は、制作当時は紫で、時とともに中の赤い染料が退色してただのブルーになった可能性があります。

中央には、寄り添いながら、画面の上を突き抜けるほど高く伸びる2本の糸杉の姿が描かれています。6月25日付けの書簡には、糸杉の様子を「プロポーションといい、線といい、エジプトのオベリスクのように美しい」と形容しています。この手紙を読む限り、よく批評家が言うように、糸杉は決して死の象徴として扱われていないことに注目したいと思います。

麦畑の右端の農家からは、手前に続く曲がりくねった田舎道が、シルバーホワイトを大量に使って盛り上げて、まるで川の流れのように描かれています。その流れの中には、男女の乗った馬車と、並んで歩く2人の男の姿が描かれています。糸杉の手前の緑の帯びの部分には、前述の書簡によれば、茨とキイチゴが生えていたことでしょう。

ところで、画面には、奇妙にも太陽のような星と月、2本の糸杉、馬車上のアベック、二人の男といった具合に、すべて2の組み合わせから成り立っていることに注目して下さい。

また、前述のゴッホのテオ宛て書簡に、この絵に関する記載があります。「ずっと糸杉に関心があります。ヒマワリのような絵を一枚描いてみたい。」ここで、もう一度パリ時代に描いたヒマワリの絵を思い出してみましょう。真夏の太陽の下で、半ば枯れてしまった2個のヒマワリは、万難を排しても一心同体と成って、ともに生きていこうとしたゴッホ兄弟の生き様が現れているようでした。

この絵には、退院後、パリでのテオとの再会に期待していたゴッホの心理が、如実に現されているように思われます。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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