Facebook山地 弘純さん投稿記事
今日はお施餓鬼法要の日です。この日には飽きもせずに毎年同じ法話をします。
変えないのがいいと自分では思っています。お施餓鬼とはなにか。
お盆とはなにか。
盆踊りとはどういうものか。
それを皆さんに伝えています。
「分け合うためのお皿」というところから、物を載せる大きな容器(トレー)のことを「お盆」と呼ぶことも納得できますね。
https://ameblo.jp/anzac76/entry-10613747919.html?fbclid=IwY2xjawEq08RleHRuA2FlbQIxMQABHb9nqa6uLFzFemfja4MVwQfpsE8eM-lf-s12Fv8TdUEeXbknKs4Es7NE0w_aem_PzTYe4dFEGc4-lIEuPaH1w 【盂蘭盆経 ~お盆のお施餓鬼を知る~】より
今度は「盂蘭盆経」というお経について、自分なりに訳してみました。
お盆とお施餓鬼の由来をみなさんに知っていただきたく思います。
私はこのように聞きました。
一時お釈迦様が祇園精舎におられたときのことです。お釈迦さまのお弟子さんに目連尊者という方がおられました。
目連さんは一生懸命修行をつみ、初めて神通力という普通には考えられないような力を得ることができました。
目連さんは今は亡きお父さんとお母さんに何かできないものかと思いました。特にお母さんに育てていただいた乳哺養育の恩は非常に大きいものであったので、その御恩に報いたいと思ったからです。
そして、その遠くを見通せる霊視という力を使って、亡くなったら行くと言われている六つの世界をみわたしてみることにしました。六つの世界というのは、天界・人間界・地獄界・畜生界・餓鬼界・修羅界のことです。
あんなに優しかったお母さん。必ず天の仏様がおられる世界に生まれ変わっているだろうと思い探してみましたがどうしても見つかりません。
それでは再び人間界に生まれ変わったのだろうと思い探してみましたが、やはり見つけることができません。
まさか地獄の世界に落ちていないかと探してみますが、やはりいませんでした。
目連さんは必死に他の世界も探し回りました。
すると、目連さんは亡きお母さんを餓鬼たちの中にみつけました。お母さんは飲食も取れず骨と皮で立っていました。
目連さんはどうしてこんなことになったのかと悲しみ、すぐにお椀に御飯を盛ってお母さんのもとへ持っていきました。お母さんは御飯を得て、か細い左手で鉢を支え、右手で御飯を食べようとしましたが、口に入れようとすると、その瞬間に食べ物は炎をあげ炭に変ってしまい、食べることはできません。
目連さんは大いに泣き叫び、お釈迦様の所に帰って、このことを報告しました。
お釈迦様は言いました。
あなたのお母さんの罪(自らの苦しみを生む原因となる行為)は重かったようです。あなた一人の力ではどうにもできません。
あなたの親孝行を叫ぶ声が天地を動かし、天や地の神々、邪魔や外道、道士、四天王という強力な力を持つ者の心を動かしたとしてもどうにもなりません。
あなたのお母さんはあなたには優しかったですが、ほかの人にはそうではありませんでした。他人よりいい服を着させたい、美味しいものを食べさせたいと、あなたを思うあまり、他人を傷つけ、多くの罪を造りました。
餓鬼道とは、生前において欲が強くて嫉妬深く、所有欲が強く、常に満たされることない欲望の心を持ち、そのような欲望にまかせた行為をした人が死んで生まれ変わる世界なのです
しかし、たった一つだけ助ける方法があります。それにはあらゆる方角で修行しているお坊さんの力をお借りするしかありません。
それではこれから救済の方法を教えましょう。それですべての苦しみや憂いも消えるでしょう。
お釈迦様は目連さんにこう言いました。
各地でたくさんの僧が、七月十五日に安居というおこもりから出てこられます。
安居とは雨の多い時期に多くの小動物が活動するため、外を出歩いて無益な殺生をしないように、お坊さんが一か所に集まって内で修行する期間のことです。
安居から明けたその日を「僧自恣(じし)」の日と言い、お坊さん方の反省の日です。
まさにその日に、七世代に渡る祖先から現在に至るまで、すべての厄難にあっている者のために次の物をお供えしなさい。
御飯、多くのおかずと果物、水入れ、香油、燭台、敷物、寝具など、世の甘美を尽くす物をお盆の中に分け、十方の大徳・あらゆるお坊さんに供養しなさい。
この日、全ての修行者は、あるいは山間にこもって禅定し悟りを求める者、それに四道という悟りを得た者、、もしくは木の下で歩き経を上げる者、あるいは六種の神通力で仏の教えを求める人々を教する者、あるいは菩薩様が衆生の姿を借りてこの世にいるなど様々ですが、皆さんに同じ心でこのご飯を食べていただけば、清浄な戒を守って修行する人々の大いなる徳をいただくことができるでしょう。
これらの供養を「僧自恣」の日にすることが尊いのです。
父母も、ご先祖さまも、親族も、罪の重さによる死後の苦しみから逃れることができて、いつしか悟りを得ることができ、衣食にも困りません。
まだ父母が生きている人は、百年の幸福が与えられることでしょう。
もう既に亡くなっている時も七世代に渡る祖先まで天に生まれ、自在天に生まれ変わって天の華光の中に入り、たくさんの快楽を受けることができるでしょう。
そしてやってきた僧自恣の日、目連さんはできるかぎりのご馳走を用意しました。
お釈迦様は十方のあらゆるお坊さんにに命じました。
まず施主の家のためにお経を唱え、遡ること七世代の祖先の幸せを祈り、坐禅をして心を定め、その後で御飯をたべなさい。
初めて御飯をたべる時は、まずその家のご霊前に座って、みんなで祈願をしてから御飯をたべなさい。
その時、目連さんや集まった修行者たちは皆が素晴らしい法の喜びに包まれ、目連さんの泣き声もいつしか消えていました。
お坊さんが方の唱えるお経でその食べ物は膨れ上がり、そのご馳走の一端は目連さんのお母さんのところまで届きました。目連さんのお母さんはそれを口にすることができました。
その瞬間に悟りを求める道に進もうという心、つまり菩提心が生じ、悪かった心は消え去り、ずっと続くはずだった餓鬼の世界から救いあげられたのでした。
目連さんと大勢のお坊さん方は喜びのあまり踊り狂いました。これが盆踊りの由来です。
また、喜んだ目連さんはまたお釈迦様に言いました。
私を生んでくれた父母は仏、仏の教え、仏の教えを受け継ぐ者、つまり仏法僧の功徳をこうむることができました。
たくさんの僧の威大な神の如き力のお陰です。
同じように、将来の全ての仏弟子も、この教えに順ずる者もまた、この盂蘭盆という奉納を行うことで父母から七世代前までの先祖を救うことができると考えてもいいのでしょうか。
お釈迦様は答えて言いました。
いい質問です。まさに私が言おうと思ってたことを聞いてくれました。
みなさんよく聞くのです。
もし僧、尼、国王、皇太子、大臣、補佐官、長官、多くの役人、多くの民衆など誰であろうとも慈悲、孝行をしようとするならば、皆まさに生んでくれた父母から七世の祖先までの為に、さらには他の厄難を抱える者たちの為に、七月十五日の仏歓喜の日、つまり僧自恣の日に多くの飲み物や食べ物を用意してお盆の中にわけ、十方の僧に施しをして祈願してもらいお経を読んでもらいなさい。
現在の父母の寿命が伸びて病気も無く、一切の苦しみ悩みやわずらいも無く、また七世までの祖先は餓鬼の苦しみから離れ、天人の中に生まれて幸福が大いにもたらされることでしょう。
お釈迦様は男女の出家・在家の者たちに告げて言いました。
この仏弟子で孝行しようという者は、しっかりと心の中で常に忘れずに父母のことを思い、七世の父母から全ての厄難がある者に至るまで供養しなさい。
毎年七月十五日に、常に孝行や慈しみの心をもって、両親だけでなく七世代に渡る祖先、その他の厄難を受けている者までを思い、供養のお盆を用意して、仏や僧に施しをして、父母の育ててくれた恩である長養慈愛の恩に報いなさい。
もし仏の弟子となったならば、しっかりとこの法を保ちなさい。
この時目連さん、男女の出家・在家の者たちは、お釈迦様の話に大喜びし、毎年7月15日に供養するようになったということです。
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最近では盆踊りが宗教とは切り離され、地域の文化としてしかとらえられません。
しかしその由来を知らずして、ただ踊るという行為に意味があるのでしょうか。
今日も誰かがお施餓鬼によって救われている。
あ~なんて嬉しいことだろう。
そう思いながら踊ることこそ盆踊りだと思います。
そのためにはまずご供養下さい。
お釈迦様がおっしゃったように、自分の父母だけに供養するのではありません。
全ての厄難を抱える方の為にご供養するのです。
その供養はお経の功徳で大きく膨れ上がり、それが巡り巡って自分の親たちにも届きます。
初盆の時だけ供養する、または自分のところの分だけ供養するというのでは、施餓鬼の真心とはいえないかもしれません。
その日は旧暦の7月15日であったということで、今では月遅れで、8月15日にお施餓鬼供養が行われます。
善住寺でも8月15日にお施餓鬼のご供養を致します。
できれば毎年お参りいただきたいものです。
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