Facebook長堀 優さん投稿記事
先日お会いした迫恭一郎氏のご著書「『からだ』という神様」より。
この本では、"中今に生きる"というテーマについて、三人三様の感性でとても大切なことが語られています。健康に生きるとはどういうことなのか、私なりに考えなおす良い機会になりました。
◎ 矢作直樹先生
中今状態というのは、「今ここにいる」「今この瞬間に意識を置く」という表現になります。いっさいのとらわれも、あらゆる執着もない、中庸というもっとも安定した穏やかな心の状態。ストレスのない、リラックスした状態です。
そのようになれば、自分の内側に気を巡らせることも、その場を浄化することも、いとも簡単にできます。仏教用語でいうと、「刹那」に捉えられるのですが、それよりも「涅槃」に近い意識状態といえると思います。中今の状態は何かに集中するということではなく、むしろリラックスしている状態です。力を抜いてボーッとする感じで思考をほとんど使わないのです。
中今になる方法として、自分が無心になれるものを何か見つけて、それに取り組んでみること、大切なことは、自分の内側に目を向け、感覚を開いていくこと、外側に何かを探し求めなくても、ただ自分の中に存在しているものを思い出していけばいい、 目覚めという意味では、その方が早いのではないかと思います。
・・・・・
さらに、矢作先生は、本書のなかで、
「霊性というのは、この世の次元と他の次元な両方を理解できる、繊細で豊かな感性のこと、
縄文のはるか昔から日本人がもともと持っていたもの」とも指摘されています。
先日、野村行徳美香さんからいただいた質問、「霊性と感性について」に対する一つの考え方が、このお言葉の中にじつに簡潔に示されているのではないでしょうか。ストンと腑に落ちてくる思いです。
◎ 保江邦夫先生
「中今を生きること」とは、今という瞬間だけを生き切ることです。
人は「今ここ」を離れると、たちまち心がさまよいはじめ、まだ見ぬ先のことに不安を感じてしまうものですが、今この瞬間に生きていれば不安は生じてきません。
自分の中心軸にとどまり、「中庸」を意識することでグラウンディングができ、最もバランスの取れた中庸のエネルギー状態で生きることができるのです。
・・・・
保江先生によれば、一連の研究により、すべての細胞を取り囲むのは単なる水ではなく、光と錬成している水であるといいます。そして、この水と錬成する光というのは、「エヴァネッセント・フォトン」というエネルギーの粒とされます。
つまり、「エヴァネッセント・フォトン」は、生命力、生命エネルギーそのものともいえるのです。保江先生は、迫恭一郎氏が世界で唯一手掛ける完全反射のダイアモンドの光はこのフォトンと同質と指摘されます。
迫氏は、人とダイアモンドの相性をチェックするために、ドイツ製の医療機器であるEAVを用いていますが、このEAVにより、人が中今、中庸のエネルギー(数値50)にあるかどうかを調べることができるそうです。そして、ダイアモンドの光により身体のエネルギーが中庸になれば、不調和だった心身のエネルギーが調和して安定し、本来の免疫力、治癒力、生命力が自然と発揮されると指摘します。
言葉をかえれば、「エネルギー的にもっとも安定していた本来の自分自身に戻る」ということになり、矢作先生、保江先生が語る中庸の意識と重なってくるのです。
完全反射のダイアモンドの光によるエネルギー療法は、近未来の波動療法において、ニュートロン、メタトロン、マナーズ音響療法などとともに、重要な選択肢の一つとなっていく可能性を感じさせます。
未来医療への希望が広がる一冊でした。
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写真のキャプション欄に動画配信のお知らせを掲載させていただきます。
内外の豊富な映像情報の分析に基づいた講演会です。
日本のメディアがまったく伝えないなか、世界では、政治や経済の報道も、感染症の扱いも、大きな変化が起こりつつあるようです。イラクでは、ついに金本位制に基づく貨幣制度が開始されたようです。
二元化の極限を迎えた世界から、未来に向かう一元化への道が示され始めた今、
原爆を落とされても相手を恨むことなく、清濁合わせ飲む、表裏一体、という世界に類を見ない感性を持つ日本人の精神性が、とりわけ重要となっていくことは間違いありません。
私たちは、なんという興奮すべき時代に生まれあわせたのでしょうか。この一瞬に意識を合わせ、粛々と未来へ向かっていきたい、あらためて思います。
「感性論哲学」を提唱される思想家、芳村思風(しふう)先生の昨日のご講演からです。
「これからは、民主主義ではなく、『互敬主義 ごけいしゅぎ』つまり、互いにリスペクトし合い、与え合う、そんな社会のあり方が必要になってくる、
民主主義や自由主義は、一見公正に見えるが、じつは、皆の意見を聞くという手続きが必要となる、その過程では、声の大きな人が勝つ、そして、謙虚な人が譲るということが起こるのだ、また、相手の欠点を突いて攻撃したり、自分に有利なことを主張するようになったりする、そのような態度からは調和は生まれない、
さらに、そのような社会では、金を多く持つ人が偉い、と評価される。しかし、そもそも金は貯めるものではない、金は本来、回すことで社会にエネルギーを循環させるのだ、
溜め込まれたお金は朽ち、役目を果たすことができなくなる、これからは、互いに尊重しあい、与え合う『互敬主義』が必要になる、完璧ではない、欠点を持つもの同士が、うまくやっていける唯一の方法が、この『互敬主義』なのだ。」
このお話は、昨日、世田谷観音堂で行われた「哲露秋の会〜君に生きる意味を問う〜」で語られました。主催は、親友の建築家、北澤修さんこと修ちゃんでした。
この会では、芳村思風先生に加え、思風先生の盟友である行徳哲男先生が、ご講演されました。「感性の大元は愛である、これまでは、知識や理性が尊重されてきた。しかし、それだけではなく、理性と感性のバランスを取ることが、この世で生きていくためには大切なのだ」
思風先生が一貫して説いてこられた「感性論哲学」は、今、あちこちで同じようなことを多くの人が語るようになりました。
今のこの時代を先読みしていたのは、間違いなく思風先生です。でも、先生は、驕ることなく、常に謙虚で穏やかです。
行徳哲男先生は、昨日、いみじくも語られています。
「思風先生の名前は世間的には知られていない。でも、無名だからこそ力強いのだ。有名は無力なのである。」この一言こそが、思風先生の真実をついていると思います。
名を売るために、自らの主張を変え、自由を失っていった人がどれほど多いことでしょうか。
思風先生は、さらに語ります。
「なんのために死ねるのか、その理由を探ることこそが、生きる意味なのだ。」
死と向き合うことが無くなってしまった現代社会を憂うがゆえの、思風先生の提言は、重いものがあります。
じつは、この世田谷観音堂には、二体の特攻平和観音尊像があります。
その胎内には、生還を期することのない特攻作戦に志願し若き命を捧げた特攻隊員、陸軍側2000柱、海軍側2615柱の英名が、捧蔵されています。
今回のご講演は、この特攻観音尊像の前で行われました。
拙著「日本の目覚めは世界の夜明け」にも登場していますが、主催の修ちゃんは、私を特攻基地のあった鹿児島県の知覧に導いてくれた恩人でもあります。
知覧の旅は、不思議な偶然に溢れていました。
その知覧で、私が強い衝撃を受けたのが特攻隊員、上原良司少尉の遺書でした。
「きけ、わだつみのこえ」の冒頭にも引用され、上原少尉が「日本はこの戦争に負ける」と大胆に書き記した遺書こそが、私の本のモチーフになったのです。
昨日、この特攻観音尊像の前で、修ちゃんと並ぶことに大きな意味があったのでしょう。
思風先生のご講演のさなか、修ちゃんが突然閃いたかのように、私に最後の一言をお願いしたい、とヒソヒソと依頼してきたのです。
偉大な二人の先達の後を受けるのはあまりにも重い責務でした。しかし、言葉はヒソヒソでも、修ちゃんの気迫に、とても私は断れないものを感じたのです。
この後、覚悟を決め、さらにお二人の話を聞いていきました。
すると、生死一如と日本人、武士道精神と特攻隊員の志、さらには、大きな分岐点を迎えた世界における日本人の役割など、私がいつも話していることと一本につながることに気づきました。
おかげさまで、短い時間ではありましたが、大切なお役目を無事果たすことができたようです。ホッとしてます。
修ちゃん、来年の3月27日に知覧を訪れ、開聞岳に登ることが決まったそうです。またまた凄いことが起こりそうです。
ところで、2009年に、同じ世田谷区内にある大きな公会堂で、「愛ある医療」というシンポジウムが行われました。修ちゃんと初めて会ったのはこのイベントでした。
私の今の活動の原点とも言えるこのイベントを仕掛けたのが女性デュオ、コクーンさんのお二人とマネージャーの雨宮さんでした。今回、この仲間とも久々に会えました。
あれから10年、いろいろなことがありました。
コクーンのメンバー、本多裕子さんのお嬢さん、佐々木心音さんは、今やシンガーソングライターとして、そして女優として、映画や舞台で大活躍されてます。
私も、まさか今のような活動をしているなんて思っても見なかったのですが、昨日は、その原点に戻った感じです。
午後は、本多裕子さんのご実家に立ち寄り、料理の先生であるお母様の心づくしの手料理を楽しみながら、時の経つのも忘れ、当時の思い出を語り合いました。
この先も、チームコクーン、そして修ちゃんとの関係は続いていきます。ご縁に感謝です!
https://ameblo.jp/shichida-blog/entry-12553763089.html 【感性を育てる〈小林一茶〉の俳句】より
七田式のお教室では、レッスンの度に小林一茶の俳句をみんなで読んでいます。
これはお子様の感性力を育てる取り組みだからです。それではどうして小林一茶の俳句なのでしょうか。数ある俳句の中で、小林一茶の俳句を読むのには理由があります。
一つは、一茶の俳句は小さなお子様でも想像しやすい内容であること。
二つ目は、「生きとし生けるものすべてのものに心を馳せる」という利他心に欠かせない心、言葉であふれている句が多いからです。
一茶の俳句のカードは表に絵がかいてあり、裏に句が書いてあります。子どもたちには、俳句の意味を解説したり覚えなさいとは言いません。感性を育むには記憶や理解を求めず、楽しむことが大切だからです。リラックスできる環境で繰り返し、読み聞かせすることで、脳の深いところで記憶するようになります。
深いところで記憶していると、それがお子様自身の思いやりの心や、自然に対する愛となって表れてきます。
ここで、お教室に通っている生徒さんのエピソードを紹介します。3歳で一茶の俳句を100句暗唱したお子様です。
自転車でお出かけすると、「空気が秋の匂いになってきたね。」とか「夏はひまわりだったところがコスモスになったね。」など、お話してくれるそうです。
自然への関心が深まっているのがわかりますね。
小林一茶の俳句を通して親子で感性を磨くことができたら、かけがえのない財産になりますね。ぜひ、ご家庭でも一茶の俳句をより多く読み聞かせしてあげましょう。
https://www.editus.jp/archives/10260 【俳句は子どもの感性を鋭くする〈前編〉】より
青木幹勇(1980-90年代 ・ 小学校)
子ども俳句に開眼する
もう10年、あるいはそれ以前から、俳句を作ることが広く行なわれていることが話題になっていました。戦前から俳句になじんできたわたしは、俳句界の情報にはなにほどかの関心を寄せていました。しかし、このところの俳句ブームといわれる情況の内容は、わたしの関知するところをはるかに上まわっているようです。
俳句人口の急激な拡大は、女性、それも年輩の主婦層の作句活動によるものといわれています。主婦が余暇をもてるようになったこと、学習に好都合なカルチャーセンターなどの普及、あるいは、手近な生活圏(コミュニティ)に、小さな俳句サークルが生まれてきたことなどが、そのブームの要因でしょうか。
もちろん、その間にマスコミの介在が大きなはたらきをしているでしょう。新聞、雑誌、放送はみな投句を誘い、そこへ手軽に参入できる指導の手を伸ばしています。
女性の作句熱が盛んな一方で、子どもたちの俳句学習も急速に広がってきました。
子どもの俳句を募集し、審査し、評価している俳句大会には、なんと、10万、20万という大量の応募があるそうです。
この子ども俳句隆盛のかげには、もちろん多くの教師たちがいるはずです。しかし、その指導は、いわゆる国語科の授業のなかでというのではなく、そこからはみ出して、もっと大きなスケールのなかで行なわれているようです。
個々の子どもが興味をもって作り、投句しているものもかなりあるでしょう。あるいはまた、学校を挙げて大量に投句しているケースも少なくないようですが、これらとはべつに、もっと大量に作られているところがあるのかもしれません。
子どもが俳句を作っているのをのぞき込んだ親は、面白そうで、案外とユニークだと興味をもち、一緒に俳句を作り出します。
こうして、大人の世界へ俳句をひろがらせたエネルギーを秘めていたのが子ども俳句である、と自負しています。
上は、一茶にゆかりがあるといわれている東京都足立区炎天寺に本部のある、「炎天寺一茶まつり全国小中学生俳句大会」の選者であった、俳句作家・楠本憲吉氏の述懐です。
俳句ブームは国内だけでなく、海外にいる日本人の大人、子どもにも愛好されています。しかもそれは、日本人だけでなく、外国人、その外国人の中心にはプロの作家、詩人もいるようです。かつては、季感・季語などが障害になるなどといわれた国ぐにでも、いまはもうそのようなワクや垣根などさっさととり払われ、乗りこえられています。
話が少し広がりすぎました。子どもの俳句情況にしぼってもう少し考えてみましょう。
たしかに子どもの俳句は、過去にはみなかった盛況をみせているのですが、わたしの周りにいる教師のなかで、クラスの俳句指導、あるいは学校全体の作句活動を推進している者はほんの2、3人です。もちろん、教科書に載せられている教材を読んだり、書いたり、わからせたりの指導はいちおうどの教師もしているでしょうが、作句の指導から作品応募の世話まで、手を広げている教師は、子ども俳句が盛んになったといっても寥りょう々りょうたるものではないでしょうか。
わたし自身は、戦中・戦後ずっと作句を続けてはいましたが、これを積極的に国語科の指導にもちこむことには消極的でした。理由は、それを国語教室のものとする確信がもてなかったからです。確信とは何か。俳句が、言語の理解と表現にどのような価値をもつかです。
このもやもやを一気に払拭してくれたのが、子ども俳句の盛況です。うかつにも、わたしが、この情報に関心をもったのは、かなりおくれていました。
やきたてのクッキーみたいな春の風
子ども俳句の盛況といっても、具体的に、その状況を見たわけではありません。わたしを子ども俳句の世界に引きこんでくれたのは、次に掲げる二つの句集です。
『俳句の国の天使たち』(日本航空広報部編)
『句集 ちいさな一茶たち』(楠本憲吉・炎天寺編)
『俳句の国の天使たち』は全ページの半分が、子どもの写真(カラーと一部モノクロ)と、何ページかの切り絵、そして、各ページに一句ないし二句、小中学生の俳句(片隅にこの句の英訳)が挿入されています。
登載されている句は、水野あきら氏の選ばれたものだそうですが、これが粒選りの秀句です。わたしは、この句集を何回となく読みました。そして、ひじょうに強い衝撃を受けました。それはまさにわたしの子ども俳句開眼だったのです。読んでいるうちに、これまでもっていた、子ども俳句の理解を大きく変えさせられました。
これまでの子ども俳句はたいてい、大人の俳句を下敷きにしたものか、子どもっぽいものの見方や、舌足らずの表現でした。しかし、これはこれで、独自のよさがあり、それだけに一つの存在価値をもっていると思って受けとめてきました。
ところが、『俳句の国の天使たち』には、次のような作品がずらりと並んでいるのです。
やきたてのクッキーみたいな春の風 小4 佐々木千里
たんぽぽの種はどこかへ行くとちゅう 小5 石井博
空ぶりのバットのむこうにいわし雲 小4 松田京平
とりあげればきりがありませんが、ここには、もう大人の真似、稚拙さを売り物にするような句はほとんどありません。子どもの目でとらえ、子ども特有の感性と発想による文字どおりの子どもの俳句が作られています。
このような作品にふれているうちにわたしにも、俄然、指導意欲が湧いてきました。こういう俳句を教材にすれば、子どもはかならずのってくる。そんな期待がわたしをつき動かします。先に述べたもやもやが一気にわれて、「子どもの育つ国語教室」は、俳句によってもけるという歓喜のようなものが湧いてきました。
子ども俳句も歴史を重ねてきました。たいそう評判になった作品もいくつかあります。
天国はもう秋ですかお父さん 小5 塚原彩
この句を子どもたちに読ませると一瞬はっと驚き、「はあ、そうなのか」と、一種の感慨をたたえた静かな顔に変わります。子どもたち何人かに解釈をさせてみたり、わたしが補説をしたりしていると、そっと涙ぐんでくる子もおりました。
天国に行った父親は、たぶん急死だろう、だとすると交通事故かな、まだ男ざかりだったにちがいない。そんな平凡な思惑が浮かんできます。
一昨年のいつごろだったか、何気なくテレビにスイッチを入れると、草柳大蔵氏が画面に出ていて、なんと、この俳句をとりあげて話しているのです。おやと思って見ていると、氏は、この俳句の作者に電話をして、父親の死因をたずねたそうです。ところが、わたしの憶測した交通事故ではなく、(聞きとりは確かではありませんが)心臓に関係した病気だったようでした。わたしはこの句に対する草柳氏の関心の強さに驚きましたが、この句については、すでに『句集 ちいさな一茶たち』のなかに、楠本憲吉氏が、
この句の作者に私は会いたいと思います。このきびしい美しさのある句を作った子に脱帽します。
「うつくしい」ということには二種あって、一つは「美しい」という美的うつくしさ、もう一つは厳しさの美「厳(うつく)しい」です。この厳しさの美を創る鍛練が大切なのです。
と書かれています。『句集 ちいさな一茶たち』のなかには、もうひとつ評判になった句がとりあげられています。
さそり座の尾の一げきに流れ星 中2 村上克美
楠本氏もメンバーの一人であった「男の井戸端合議・五人の会」(扇谷正造、草柳大蔵、楠本各氏ほか二人)、この五人で書いた『花も嵐も踏みこえて』という本のなかにある座談の記事に、こんな一節があるそうです。
扇谷氏の「いつか楠本さんから聞いた『さそり座の尾の一げきに流れ星』、あの俳句にはびっくりしましたね」という発言に楠本氏が、話を合わせて、こんなことをいっています。
「(子どもたちの作品を)たくさん見ていまして、ハッと目を見張る思いをしたのが『さそり座の尾の一げきに流れ星』。これは中学校2年生の子の句です。僕はあまりうますぎるので怖かった。お父さん、お母さんの代作か、あるいは盗作かもしれぬと思って電話したんです。そしたら、これはアニメなんです。テレビの場面が変わると、さそり座がさそりになる。それがピンと尾をはねたら星を一つはねて、それがビューッと落ちていって流れ星になったというんですね」
このいきさつを聞いて、草柳氏が、「でもよかったなあ。テレビという媒体がなくて、その子が本当に夏の夜空を見てつくったんだったら、脅威だよ」と、ホッとされていましたし、楠本氏は「もうこっちはお手上げですよ」。草柳氏も「もう物書きはやめるよ(笑)」と感嘆しています。
楠本氏は、二十何年も、子どもの俳句の評価にあたってきているそうですから、子ども俳句についての理解がひじょうに深く、豊富な話題の持ち主でしたが、先年なくなられました。
おしまいに、新聞のとりあげた、子ども俳句の秀作を並べてみましょう。
さんかん日うしろにかあさんいいにおい 小1 すぎおかしんペい
でかせぎに父いく日には本高く読み 小3 安田宏光
麦の秋家中まどを開けて留守 小6 田中正範
あじさいの庭まで泣きにいきました 小6 惣田美由紀
ふくらんだカーテンの中夏たまる 中2 吉野輝彦
以上五句、読売新聞1990年5月10日「編集手帳」に引用。
たけのこよ/ぼくもギブスが/とれるんだ 小2 畑上洋平
君のきれいな目から/ひとつぶひとつぶ/真珠が落ちる メキシコ・男・10歳
秋風がそっと/雁をせき立て/巣へもどらせている フランス・女・12歳
上三句は、『地球歳時記’90』所収。一句目は大岡信氏が朝日新聞・1991年5月16日「折々のうた」で、他二句は、1990年8月18日「天声人語」で紹介。
自分にも作れそうだと思わせる
先生がたいいんしたよとんぼさん
赤ちゃんがよくわらうなあ春の風
母の日です茶わんあらいをかくれてする
こういう作品を読むと、このような心境にいる子どもたちが、無性に美しく感じられてきます。尊くさえ見えてきます。
これまでの俳句指導では、教科書に載せられた、古典俳句、近代の名句などを教材にしてきました。しかし、それが俳句として客観的評価は高いものであっても、子どもたちにはしっくりと理解されるものではなかったといえそうです。結局は、教師の解釈を押しつけるような授業になりました。それはそれで、無意味ではなかったでしょう。
ところが、ここへきて右のような子どもの作品が教材として使えるようになると、状況は一変してきます。
❶─作品のモチーフがよくわかります。
❷─作者の生活感情に共感がもてます。
❸─わたしにも作れそうだなという親近感がもたれてきます。
❹─作品を読む・作る指導に生かす手だてが見えてきます。
つまり、これらの俳句が、子どもを読むことへ、作ることへ動かす。触発してくれるのです。いや、子どもたちより教師です。
❶─この俳句なら、きっと子どもたちにわかる。
❷─おもしろそうだと感じさせることができる。
❸─作ることへ誘いこむことも、そうむずかしくはなさそうだ。
❹─俳句学習にからませて、他のことばの学習ももくろめる。
❺─とにかく、授業へもちこんでみたい。
教師も、このような作品に惹ひかれます。いうまでもなく、すぐれた俳句、評判の高い俳句が、かならずしもすぐれた教材とはいえないこともありますが。
長年、俳句に親しんできたわたしは、このような子どもたちの作品を読んで、これを自分の手で授業へのせてみたい。授業にのせる、つまり、教材として生かそうとすれば、あれやこれやの方法が案出されそうな気がしてきました。
数多い授業者たちのなかには、俳句は古い、老人や暇な人の慰みものだと思っている人がいないとはいえますまい。いやもう、そんな人はいないかもしれません。しかし、俳句という文芸に学ぶことが、国語科の学習にとってどういうメリットをもっているか。俳句だからこそ、こんな指導が可能であり、効果的であるということがいわれるか。そのような点になると、まだ問題はあるでしょう。まして、国語教室での授業の構成や、効率のいい俳句の指導法など、今後にのこされた課題はたくさんあると思います。したがって、物語とか、説明的な教材、自由詩などの指導に比べると、俳句は依然、授業の片隅におかれることになりかねません。
わたしは、ここで、これをしっかりと国語教室に定着させるために、あらためて、これが俳句の学習(指導)価値だと思われるものを書きならべてみました。
❶─俳句は短い。俳句にはリズムがある。これが、読みやすさ、覚えやすさ、そして、<ruby>暗<rt>あん</rt></ruby><ruby>誦<rt>しょう</rt></ruby>にもつながる。
❷─俳句は短くて、読みやすいが、句意をとらえることは、かならずしも容易ではない。この抵抗も一つのメリット。
❸─俳句は詩である。俳句を読むこと、作ることによって詩感を養い、<ruby>詩<rt>うた</rt></ruby><ruby>心<rt>ごころ</rt></ruby>を育てることができる。
❹─俳句表現には、ことばの省略、文脈の屈折が多い。これを理解や表現につなぐことができる。
❺─俳句の表現には、諸種の比喩や飛躍が多く用いられている。
❻─季語の理解と使用を契機に、季節と季節の動き、季節の動きから季感へと、関心を広げることができる。
❼─句の意味を理解したり趣を感じとったりするために、想像をはたらかせ、連想をあしらって読むことが要求される。
❽─短詩型であること、季語その他の制約があるために、語を選び、省略をする。それが表現の飛躍や屈折につながるなど、散文では学びにくいレトリックを学ぶことになる。
❾─理解や表現に即し、言語感覚を具体的に養うことができる。
❿─俳句を作ることがきっかけになり、作文に不得意な子どもも、書けるようになる。俳句をたしなむ主婦が随筆を書くようになる例は少なくない。
上の10項目にはいくつか重なったところがあります。また、このように並べると、俳句の肩をもちすぎているというそしりを浴びせられるかもしれません。
なかには、物語や説明的な教材に比べると、なんとなく、つかまえどころがなくて……と、感じられる教師も少なくないかもしれません。限られた国語科の持ち時間は、現在すでに限界にきている、とても俳句に割く時間はない、といわれる人もいるでしょう。
このように俳句への理解が浅く、どちらかというと、軽視、敬遠の教室では、依然として、俳句は日陰におき忘れられていきそうです。
いうまでもなく、俳句は詩です。そして、それが子どもも作れる詩であることは、十分実証ずみです。俳句には関心の薄い教師のなかにも、いわゆる自由詩の指導を手がけた教師はたくさんいると思います。詩の学習として両者の共通するところは少なくありません。
作文指導の強化が、これまでにないほど強調されています。俳句はいうまでもなく作文です。短作文です。俳句から散文表現への移行など、これも、作文指導の新しい志向かもしれません。
俳句は、短いけれども、ひじょうに多彩な、そして、奥の深い学習内容を内蔵しています。作文の価値は、作られたものの長短では決まりません。俳句という表現形式には、森羅万象、喜怒哀楽、どんな内容でも盛りこむことができます。俳句は、古い、むかしのものだ、年寄りの手なぐさみなどと、考えている教師がいたら、その人こそ古い、むかし人間です。
国語の教科書の多くは、俳句を6年生の教材としていますが、俳句は、どの子でも作れます。幼稚園児だって、けっこういい作品をみせてくれています。
さあ、書くぞ、作るぞ、と構えなくても、いつでも、どこでも、作れます。
教師にとって、俳句作品の評価や処理にはさほど手間がかかりません。子どもたちの手によって、個人の句集、クラスの句集をまとめることも、手軽にできることではないでしょうか。
https://www.editus.jp/archives/10522 【俳句は子どもの感性を鋭くする〈後編〉】より
青木幹勇
(1980-90年代 ・ 小学校)
前編から読む
俳句学習は片隅におかれている
俳句ブームの仲間入りはとにかくとして、国語科の学習内容として俳句をとりあげることは、戦前から行なわれています。したがって俳句教材も、国定教科書時代から用意されてきました。
昭和8年から行なわれた『小学国語読本』、いわゆる「サクラ読本」の第12巻には、次のような作品がとりあげられています。
雪残る頂一つ国ざかひ 子規
菜の花や小学校のひるげ時
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
犬が来て水のむ音の夜寒かな
夕月や納屋もうまやも梅の影 鳴雪
矢車に朝風強きのぼりかな
夏山の大木倒すこだまかな
かつて、俳句教材といえば、なんといっても、芭蕉、蕪村、一茶の古典作品が幅をきかせていましたが、右のように、子規、鳴雪の作品をとりあげたことは、俳句を子どもの理解に近づけようとする、近代俳句の選択だったといえるでしょう。
この後、戦後になって編集された、国定最後の教科書「こくご」「国語」の4年生用・下にはじめて、子ども俳句作品が載せられました。これは、この教科書の編集責任者であった石森延男氏の発案によるもので、そのとき石森氏の委嘱を受けて、子ども俳句の選択にあたったのが、石井庄司、花田哲幸、荻原井泉水、中村草田男各氏だったそうです。
右の教科書には、子どもの俳句が20句ほど掲載されていますが、そのなかから7句をとりだしてみました。
かあさんがぼんやりみえるかやの中
こがらしや子ぶたのはなもかわきけり
すみきったボールの音や秋の風
秋風にプールの水がゆれている
二重にじ青田の上にうすれゆく
朝つゆの中に自轉車のりいれぬ
持ちかえしせんこう花火のゆれている
教材としての適否はとにかくとして、子どもの作った俳句が教科書に登場したのは、これがはじめてだといえるでしょう。
右の国定教科書を最後に、教科書は民間検定教科書になりました。民間検定教科書になっても、俳句教材はずっと載りつづけてきました。ところで、その民間教科書のなかで、教材はどのように処遇されているか、過去はとにかくとして、現在使われている3社のそれを見ますと、
❶─すべてが、6年生の前期に学習される配置になっています。
❷─その教材は、短歌、さらには、自由詩と抱きあわせの単元になっているところなど、各社、似たりよったりです。
❸─それらの単元で、どんな俳句がとりあげられているか。やはり芭蕉と蕪村はどの教科書にも顔を出しています。
❹─これまでかならず登場していた子規のほかに、子どもたちにも、なんとかなじめると思われる、現代の著名な作品が、5〜6句掲出されてきました。
とかく、いまなお俳句に関しては、保守的だと思われる教科書の編集は、まだどこも、子どもの俳句はとりあげていないようです。憶測するところ、教科書教材としての評価が定まっていないというのが理由でしょう。
教科書は、右のような作家の作品をとりあげ、まず、その句意を解説しています。教科書によっては季語、定型、文語表現などにふれているものもありますが、教材としてとりあげている意図は、もっぱら俳句の理解におかれていて、俳句を作るという学習への志向をみせているものはほとんどありません。
そのように、教科書という側面からみると、ここでも目下のところ俳句は、国語科指導の片隅におかれた影の薄い存在ということになっています。
教科書がこのような状況であることも、要因の一つでしょう。まだまだ俳句の学習が、子どもにとっては特殊なもの、さほど積極的に学ばせなくても、という意識は拭われていないようです。子どもにとって俳句も作文であり、詩を作ることと一連の学習であるとすれば、その切り替えが求められます。
世間一般では、幼稚園の子どもでさえ、どんどん作っているというのに、多くの国語教室では6年生、それも、俳句を読むという学習にとどまって、作るというところに手を伸ばしているクラスは、限られた一部の教室ということでしょう。
俳句はブームだといわれるのに、国語科における俳句指導の一般的現状は、右のようにとらえることができると思います。
このような教科書教材をどのようなねらいで指導したか、これもわたしの憶測ですが、一般的には第一に、句の解釈、つまり、どういうことがまれているか、それをわからせること、そして、それに加えて定型と季語などのことなどがとりあげられたかと思います。
しかし、俳句は、小学校はもちろん中学でも、すでに何度も述べてきたように、国語科指導の傍系におかれていました。俳句が、わが国の庶民的な文芸ではあっても、それはもっぱら大人のものとしてあるので、子どもの学習対象としては、十分に認められていなかったことは事実です。
古池や蛙とびこむ水のをと
菜の花や月ハ東に日ハ西に
というようなよく知られた作品であっても、それがわかるためには、大なり小なり体験的な理解が必要です。そうでないと、表現されている情景、あるいは、表現の内側に漂っている句の趣といったところまでは、よくわからないはずです。理解するといっても結局は、教師の解釈を聞かされることが中心なので、子どもにとってさほどおもしろい学習にはなりにくいのです。それならといって、
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
痩せ蛙負けるな一茶にあり
のような句がとりあげられることもありましたが、はたしてこれらが、俳句を学びはじめる子どもたちにとって好ましい教材となり得るかどうか。俳句指導にとっても、どんな教材を用意するか、その発掘や選択は重要な課題です。前述のような俳句指導の不振は、第一にこの教材に問題があったともいえるでしょう。
俳句のよさは伝わっていた
わたしは、子どものころから、俳句になじめる家庭環境に育ちました。しかし、作ったことはほとんどありません。そこに俳句があり、家に集まる人びとの俳句話もしばしば耳にしましたが、それらのことが、わたしの詩心、俳句への関心を触発する教材性をもっていなかったのです。しかし、門前の小僧で、俳句の理解は、たんなる注釈を聞いたり読んだりするのとはちがった経験になっていたかもしれません。
わたしが本気で作句に取り組んだのは、あの戦争の末期、大勢の子どもたちと雪の越後で暮らした集団疎開の一年でした。
その後、四十幾年、ときに中断したこともありましたが、なんとか作りつづけてきました。はじめは、卒業する子どもたちへの餞はなむけとして3年ごとに作った句集が3冊、その後、十年あまりへだてて第四句集ができています。
ある小さな句会に参加していましたところ、どうしても引き受けざるをえない事情になり、いまは、その句会のまとめ役もさせられています。
こうして俳句とのつながりは生涯ついてまわりました。戦前・戦中も、教科書教材の指導をきっかけに、たびたび作句指導に手をつけたこともあります。いまはもう還暦にとどこうとする教え子たちのなかには、それをよく覚えている子どももいます。
詩人の芥川賞といわれるH氏賞を受賞している石川逸子さんは、『十代にどんな教師に出合ったか』(未来社編集部編、未来社刊)という本のなかで書いています。
青木先生はまた、私たちに、和歌を作らせ、俳句を作らせた。何首でも一週間ごとに自由に提出させ、優れたものをプリントし、授業で取り上げた。私はたちまち和歌を作り、俳句作りに熱中していった。学校の往き帰りまで頭はそのことで占められ、これまで漫然と眺めていた風景が作歌の対象のなかで、新しいものとして見えてくるのに驚いた。「夕げの煙冬の雨に消えていく」そんな破調の俳句を作って、「これはいい」授業のなかで賞められるとただもう嬉しく、一首でも多くプリントで取り上げられたいと励むのだった。
石川さんは、昭和17年、わたしが上京して最初に担任した4年生のクラスにいました。
右の文章は、短歌・俳句の学習を中心に書いたものではありません。わたしの担任するまえには、学習にも行動にも、活気のない消極的な子どもだったようです。いや、そう思いこんで萎縮していたらしい石川さんが、わたしとの生活の2年目あたりから、学習に目覚めてくる過程を書いたものです。が、少しオーバーにいえば、その学習開眼のきっかけになったのが、国語科での表現の学習だったというのです。
石川さんは、その記憶を詳しく書いていますが、遠いむかしのことですから、どんな指導をしたか、わたしはほとんど覚えていません。
石川さんたちを担任するまえ、宮崎時代に受けもった教え子のなかにも一人、現在、宇部市に住み、そこでご主人と二人で短歌雑誌『あらつち』を編集し、短歌の指導をしている吉武久美子さんという主婦がいます。石川さんより、2〜3歳年上でしょうか。吉武さんも小学校の5〜6年生時代、わたしから詩や短歌・俳句などの指導を受けたのが、今日につながっていると、歌集『幼な髪』(日本現代歌人叢書)に書いています。
吉武さんは元の姓を日野といいました。彼女が文集にのこしている「吾家の歴史」によると、日野家はなかなかの名門です。父君は宮崎大学の前身、宮崎高等農林の教授でした。植物学の大家で、宮崎の観光名所の一つになっている「青島」の熱帯植物群その他を克明に調べられたことは有名です。
わたしの担任したクラスは、5年生で男女に分けたので、女の子ばかりの十六名でした。当時のことを思い出すには格好な文集「南の窓」がのこっています。昭和14年秋、戦火が中国に広がっている時代でした。
ガリ版刷りで150ページ、「よくもまあ!」と驚くほどていねいな手書きの文字です。かなり多彩な編集ですが、巻末には火野葦平の「土と兵隊」の抜粋を載せてあるのにはちょっと驚きました。
「頑張り屋さん」、これがあのころの日野久美子さんの記憶です。現在の吉武さんとは緊密につながりませんが、文集に載せてある短いものを1〜2、引きだしてみましょう。
母のあむ毛糸を見ても秋はきた。
朝露にはねをぬらしたとんぼがとまっている。
ここに掲げるのは、いささか場ちがいの感なきにしもあらずですが、彼女の歌集『幼な髪』から何首かを引用させてもらいましょう。
まず、連作「夢殿」から2首。
仰ぎ見れば今しも歩みきますがに仏は足を進め立ちます
香に灼け黒ずむ天平の如来仏もの言ひたげに口むすびゐる
短歌文学賞受賞作のなかから、
赤錆びし回天魚雷に雨うちて散りくる桜の花びらの付く
万感は言葉にならずと出撃の遺書は短く母に宛てあり
吉武さんは、ご父君のご他界後、遺作を整理して歌集『群竹』出版の親孝行をされました。
この時代にも、かなり熱心に作文指導をしましたが、それが今日の吉武さんにつながっているとは思えません。上にあげた石川、吉武の二人は、そもそも詩的表現能力に恵まれていたのでしょう。わたしにできることがあったとすれば、たまたまわたしが、その才能に小さな火をともす点火の役回りだったのだと思います。
この人たちに、短歌や俳句を指導した青年時代のわたしは、これという指導の体系、これならという俳句・短歌の指導方法をもっていたわけではありません。教材にしても、教科書教材をどう理解させるかという授業が中心で、作歌・作句、つまり表現への展開は付録だったのだと思います。
戦後になっても、短歌・俳句の指導はしばしば行なってきました。そのなかには中学生の指導もありますが、そのころまではまだなにひとつ新しい俳句指導の発想は見出されず、たいていは、未熟であり、不徹底の授業だったと思います。
その原因はいくつか考えられます。なかでも、
❶─この俳句なら、教材の大部分が古典俳句だったので、わたしの指導意欲にも欠けるところがあり、また子どもの関心にアピールさせるだけの指導力ももっていなかったこと。
❷─定型、季語、文語表現などにこだわったこと。
❸─作ることへの、これといった指導法が手にはいっていなかったこと。
などをあげることができると思います。
子どもにとって、俳句は古くさい、よさがわからない、約束ごとなどがめんどうだ、というような声なき声があったのではないでしょうか。
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