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前回みたように、五島盛清は先代藩主の弟で藩の後見役につき、18年の長きにわたって独裁を布きました。
そして幕府から旗本に取り立てられるとともに、五島藩から3,000石を分知する命を受けたのです。
そこで今回は、盛清がつくった富江領が成立するところをみてみましょう。
五島盛清の処遇問題
万治3年(1660)12月に盛勝が成人して従五位下に叙位されると、盛清の後見役は解除されました。
そこで、盛清をどう処遇すればよいかが問題となり、藩重役たちが協議しますが結論が出ず、幕府の裁許を得るしか道がなくなってしまったのです。
すると幕府は、盛清に五島藩知行地の五分の一を与え、旗本領として独立させることとしました。(以上『物語藩史』)
富江領の確定
分知が決まったものの知行地確定の作業は難航します。
分知そのものは幕府からの太鼓判がありましたので、もはや覆ることはありません。
また、幕府の決定で分知の石高は決まっていますが、その具体的な領地は、五島藩と盛清側とで取り決めることとなっていました。
もし盛清が同意しなければ五島藩が幕府の意向に逆らうことになりますので、実質的には盛清のいうがままに決めることになってしまったのです。
もちろん、盛清にとっては勝手知ったる五島藩領ですから、決められた三千石のうちで最も恵まれた土地を選ぶことができました。
逆に、五島藩からしてみれば、できるかぎり良い土地は渡したくないわけですから、取り決めるのに時間がかかるのはやむを得ないところですね。
富江領の成立
むつかしい交渉のすえに、寛文元年(1661)7月には二十ヶ村・三千石をもって分知すると、翌寛文2年(1662)11月には福江島の南辺にあたる富江に陣屋を構えて城下町を整備しました。(『海の国の記憶』)
富江陣屋のあたりは五島列島最大の穀倉地帯ですし、上五島の中通島・有川湾に設けた領地は、五島でも最高の漁場。
その他の知行地も五島で一等の場所ばかりでしたから、もともと小藩だった五島藩はさらなる窮地に追い込まれたのはいうまでもありません。
この結果、のちに富江領の魚目村と福江領有川村は、有川湾の漁業権をめぐって血で血を洗う抗争を繰り広げることになってしまいます。
今回みたように、富江領分知によって、ただでさえ厳しい五島藩の財政に新たなダメージが加わって、藩政は破綻してしまうのでしょうか?
いえいえ、ここに救世主ともいえる存在があらわれました。
それは「鯨」、のちに五島を代表する産業へと発展し、一時期は藩を支える存在となったのです。
そこで次回は、五島の捕鯨業についてみてみることにしましょう。
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前回は、富江領分知で小藩の五島藩が、さらに厳しい財政状況に追い込まれるところをみてきました。
今回は、五島藩の財政危機を救った捕鯨業についてみてみましょう。
日本の捕鯨
日本では、古くは弥生時代から捕鯨を行っていたとされていますが、鯨組や突組と呼ばれる専業化した集団による捕鯨産業が出現したのは、戦国時代の終わりごろでした。
元亀年間(1570~73)に三河湾の内海のものが、師崎付近を漁場として、7~8艘の船で、銛による突取を行ったのが日本捕鯨業のはじめとする説が有力です。
この漁法で捕獲したのは動きが鈍く潜るのも浅いうえに死んでも浮いているなどの特徴を持つ背美鯨で、背美鯨より速く、深く潜る座頭鯨や長須鯨などは捕ることができませんでした。
「千絵の海 五島鯨突」(葛飾北斎、シカゴ美術館)の画像。
【「千絵の海 五島鯨突」葛飾北斎、シカゴ美術館 捕鯨は浮世絵の画題にもなっています。】
捕鯨法の伝播
こうして伊勢湾で誕生した突取捕鯨法は、文禄元年(1592)には紀伊半島に、寛永元年(1624)には土佐に伝わったのです。
また、千葉県勝山には慶長年間には突取捕鯨法が伝わりましたが、専業化したのは明暦年間(1655~58)と考えられています。(以上『くじら取りの系譜』『日本捕鯨史』)
このように伊勢湾で誕生した日本の捕鯨業は、太平洋沿岸の主要な漁場に次々と伝播して定着していきました。
五島での捕鯨業のはじまり
いっぽう、平戸や五島を含む九州北西部の海域、西海漁場へ突取捕鯨法が伝わったのは元和2年(1616)に紀州の突組が進出したのが始まりと考えられています。(『くじら取りの系譜』)
いっぽうで、五島においてはそれよりも古い慶長2年(1597)有川村江口甚右衛門が紀州湯浅の庄助から突取捕鯨法を伝授されて有川湾で行ったことにはじまるとされて、その後もおもに紀州系の人物によって次々と鯨組がつくられていきました。
その後、五島列島北部の有川・魚目・宇久がすぐれた漁場となって、慶長10年ころには捕鯨組が10組にもなり、年間80頭を捕獲したと伝えられています。
最盛期に入った寛文年間(1661~72)には、有川側に10組、富江領の魚目側に7組もの鯨組が組織されて、鯨のみならず、イルカ・ブリ・マグロ・ヒウオ・カツオ・イワシも漁していました。(以上『物語藩史』)
鯨の効能
江戸時代に大槻準が編纂した『鯨史稿』には鯨の効用が詳しく書き込まれています。
「然レバ一ツモ棄ル所ナシ故ニ背美ノ大魚ヲ得レバ金千両ヲ得サレハコソ奥ノ俗モ七濵賑フト云フ」と記されています。(『鯨史稿』)
鯨の部位ごとの利用法の概要を記すと、肉は食用、歯は笄櫛など、毛(ヒゲ)は麻などの代用、尻尾は最高級食材、骨は肥料、軟骨は食品、筋は綿を打つ弓弦、脳漿は最良の清油、糞は薫香、皮は食用、血は薬、脂肪は精製油といった具合に、まさに捨てるところがありませんでした。(『日本捕鯨史話』)
鯨の解体(『鯨史稿 巻六』大槻準 編、国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【鯨の解体『鯨史稿 巻六』大槻準 編、国立国会図書館デジタルコレクション 】
こうして地域の重要な産業に発展した捕鯨業ですが、ここに前回みた富江分知問題が影を落とすことになります。
次回は、富江分知による境界紛争と、それを乗り越えて最盛期を迎える捕鯨業についてみていきましょう。
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前回は、五島に捕鯨業が伝わったころをみてきました。
今回は、富江分知による境界紛争と、それを乗り越えて最盛期を迎える捕鯨業についてみていきましょう。
有川湾境界紛争
日本有数の豊かな漁場である有川湾は、もともと漁村である魚目村が漁業権のほとんどを持っていました。
その一方で、農村である有川村も生活のために漁に出る必要がありましたので、魚目村と長く漁業権をめぐって争ってきたのです。
さらに、前回に見たように江戸時代初めには捕鯨が有川湾でもはじまって莫大な利益を生むようになると、問題がこじれてしまったのは当然のなりゆきでしょう。
これにくわえて、富江分知で所領が分かれたために、漁業権をめぐる争いはさらに激化して、死者が出る事態にまで発展してしまいます。
幕府の裁可
問題解決の糸口さえ見えない状況になったことで、ついに幕府の裁可を仰いで決着を図ることとなりました。
元禄2年(1689)2月に下された幕府の裁可は、有川湾を入会とするもので、過去の富江領魚目村の優位が覆されたのです。
その後も紛争はくすぶり続けましたが、元禄3年(1690)にも同様の裁決が幕府から下されたことで、十年に及ぶ紛争はようやく終息しました。(以上『物語藩史』)
捕鯨法の革新
延宝5年(1677)紀州太地浦、現在の和歌山県太地町で、太地(和田)角右衛門頼治が、鯨をあらかじめ苧製の網にかけてから突取をおこなう網掛突取法を発明しました。(『くじら取りの系譜』『日本捕鯨史』)
あるいは、これより先に、大村の深沢儀太夫がイルカ網を苧網に改良して鯨をはっておいた網に追い込んで銛で仕留める捕鯨方法を考案したとする説もあります。(『物語藩史』)
いずれにせよ、この新しい漁法によって、これまで遊泳速度が速くて取るのがむつかしかった座頭鯨の捕獲が容易となったうえに、捕鯨の効率が大幅に上がる成果が現れました。
捕鯨後の祝い(『鯨史稿 巻六』大槻準 編、国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【捕鯨後の祝い『鯨史稿 巻六』大槻準 編、国立国会図書館デジタルコレクション】
鯨のめぐみ
この新しい漁法は網を張るのに適した場所、網代が限られるものでしたが、有川湾にも魚目・有川の境界紛争中の延宝6年(1670)に導入されています。
さらに、境界紛争が解決したあとの元禄4年(1691)以降、毎年25~83頭の鯨を捕獲するという成果を上げました。
その後は、赤字の年もありますが、最大で一年間に銀316貫余、おおむね銀100貫前後の利益を上げるまでになったのです。(『物語藩史』所載の「青方文書」)
また鯨組は、鯨の捕獲に水主など200人余、捕獲した鯨の解体と加工を行う納屋には30人余、そのほかにも地元農漁孫から日雇い100~200人がいました。
このためので、鯨があがると地域でひろく利益を受けたのです。
そのうえ、例えば元禄13年(1700)には背美鯨一本につき銀一貫八百匁(金30両くらい)と、利益に応じて藩に運上銀を納めることができました。(『物語藩史』)
これは鯨の取れ高によるので不安定な収入ではありますが、藩にとってもまちがいなく魅力的だったに違いありません。
捕鯨業の衰退
しかし、正徳5年(1715)以降は捕鯨数の減少と卸値の低下に見舞われて赤字経営となってしまいます。
これを克服するために捕鯨組織を大型化したり、有川と魚目の共同経営としたり工夫をしますが、赤字傾向から脱却することはできません。
そしてついに、宝暦2年(1752)には地組の捕鯨権を放棄して有川庄屋江口甚右衛門一人に組請負を譲渡するまでになって、地域を支えてきた捕鯨業は下火となったのです。(以上『物語藩史』)
こうして一時期は五島藩の財政危機を救った捕鯨業は、卸値の低下がたたって急速に衰退しました。
「諸国名所百景 五嶋鯨魚ノ図」(歌川広重、大英博物館 )の画像。
【「諸国名所百景 五嶋鯨魚ノ図」歌川広重、大英博物館 五島での捕鯨が衰退しても、「五島は捕鯨」というイメージは幕末でも広く浸透していました。】
こうなると、五島藩の財政悪化は止まる見込みが立たなくなってしまいます。
次回は、五島藩における極度の財政悪化が招いた悪夢をみていきましょう。
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前回みたように、五島藩は捕鯨からの収入を期待できなくなってしまいました。
さらに藩財政悪化がすすみ、そこから悪夢のような事態が巻き起こることになっていきます。
そこで今回は、この極度の財政悪化が招いた事態をみていきましょう。
五島藩再びの財政危機
一時期、地域を支える産業にまで発展した捕鯨業が、急速に衰退したところを前回みてきました。
五島では鯨ほかにも、イルカやマグロ、イワシ、キビナゴなどを獲る網があって運上銀を納めています。(『物語藩史』)
さらに、シイラも五島の名物で藩への運上銀がありました。(『海の国の記憶』)
たしかに五島は日本有数の漁場でしたが、これらから得られる収入では藩の財政を改善させるほどではありません。
またまた増税
そこで藩は収入を増やすべく、捕鯨業が一時停滞した延宝3年(1675)には領内検地と新地改、人別改を行います。
くわえて、農民には棕櫚皮、漁民には鶏の尾羽と物納を新たに設けて増収を図りました。
そこへもって、延宝年間は毎年のように風水害が起こっていたうえに、前回みた富江との境界紛争で捕鯨が一時中断してしまいました。
前に見たように、捕鯨で暮らしていた人が多かったのですから、これが完全にストップすると収入が途絶えて村民は飢餓状態に追い込まれてしまったのです。
農漁村の疲弊
こうした状況では、多くの人が奉公人や賃金労働となって村を離れざるをえませんでした。
その結果、労働人口が流出して農村が荒廃する悪循環に陥ってしまいます。
そこで藩は再開墾を奨励するとともに、奉公に出るのを12歳までに限定するなど対策を打つものの、その効果はほとんど現れません。
さらに農漁村の荒廃が進むと、さらなる藩財政の悪化にみまわれましたので、藩は運上銀を新設して増税をおこないました。
これにくわえて、元禄期には五島にも貨幣経済が浸透して農村をさらに追い込むこととなります。
藩財政が悪化すると、増税をくり返し、これが農漁村の疲弊を招いて藩の収入減少を引き起こすという悪循環から抜け出せなくなってしまったのです。
相次ぐ藩主の急逝
不運なことに、藩主も盛勝はこの盛暢が元服するのを見届けた翌日の延宝5年(1677)12月13日に34歳で江戸屋敷にて死去。
さらに跡を継いだ盛暢も元禄4年(1691)6月7日に30歳で病気により急逝と、あいついで藩主が働き盛りの年代で死去してしまいます。
その結果、未成年の藩主が続いて藩行政部の腐敗も次第に深刻となっていきます。
盛暢が急逝したために、元禄4年(1691)9月14日わずか5歳で襲封した五島家七代(宇久家二十六代)盛佳(もりよし・1687~1734)の治世においても、財政悪化に歯止めがかからない状態となりました。
借金に次ぐ借金
前に見たように、捕鯨業も赤字に転落して頼りにならず藩財政がひっ迫するなか、はじめは江戸や京・大坂の大商人から融資を受けるようになります。
ところが、それでも止まらず長崎の貿易商からも多額の借金をしてしのがざるを得ない状況になりました。
元禄3年(1690)には長崎商人伊藤小兵衛から借銀した際には、彼を長崎屋敷の御用商人に取り立てざるえませんでした。
こうして、地元商人たちも利権を期待して藩に融資するようになってしまったのです。(『物語藩史』『三百藩藩主人名事典』)
奉公人だらけの島
こうしたなか、元禄14年(1701)には大飢饉が発生します。
貨幣経済の浸透と相まって農漁村の荒廃が一気に進み、多くの農漁民が身分を変えて転落していきました。
ついに、譜代奉公人が蔓延して終身奴隷制に近い状態にまでなってしまったのです。
この状況に対して、なんと藩は現状を追認して制度化し、譜代奉公人と化したものからも未納の税や夫銀を徴発しようとしたといいますから驚きを隠せません。
人別把握体制の確立
五島では、夫銀を徴収するために他藩で類をみない人別把握体制、つまり当時一般的だった家単位ではなく人単位で課税する制度が確立したのです。
こうして、藩収入確保のために農漁民を犠牲にした独自の領国経済体制が出来上がっていきました。
今回みたように、もはや五島では終身奴隷制に近い譜代奉公人が蔓延する状況は変えようがないところまで来てしまいました。
このままでは五島の農漁村は疲弊して人がいなくなってしまいかねません。
この危機に五島藩はどう対応するのでしょうか。
次回は、五島藩が導入した稀代の悪政「三年奉公制」についてみてみましょう。
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