https://blog.goo.ne.jp/mitunori_n/e/0b831c2f072b0b1b5545332e7439dcb8 【〜季語で一句 ㉕〜】より抜粋
酉の市(とりのいち) 「秋-行事」
大津留 直
見掛けのみ値切りてゆかし熊手市
【永田満徳評】
「熊手の商談」と呼ばれる駆け引きも酉の日の名物。掲句は値切りも名物の一つだとして、ゆきずりに「見掛け」で値切ってみるのである。風物詩となった「酉の市」という祭の楽しみ方をうまく詠んでいる。
【季語の説明】
「酉の市」は、鷲神社、酉の寺、大鳥神社など鷲や鳥にちなむ寺社の年中行事として知られる。境内に露店が出て、手締めして「縁起熊手」を売る祭の賑わいは年末の風物詩である。酉の市は11月の「酉の日」に行われ、3度行われる場合は、1度目を「一の酉」、2度目を「二の酉」、3度目を「三の酉」という。
Facebook俳句大学(俳句通信学部)投句欄より抜粋
蝌蚪の陣黒き頭をぶつけ合ふ 大津留 直
誇るごと母は仔馬を先づ舐むる 大津留 直
晴れ渡る空遥かまで茶摘かな 大津留直
鬼灯や海にも続く薄明り 直
家中の襖を外し夏座敷 直
桐一葉浮かべて澄める手水鉢 直
ふるさとの美(は)しき山河や終戦日 直
http://haiku.g2.xrea.com/sq202009.html 【 俳句スクエア集・令和 2 年 9月号】より抜粋
銀河には銀河の祈り阿蘇高原 大津留直
やがてまた龍の飛び立つ天の川 若き尼髑髏と語る夜長かな
https://ameblo.jp/rintaroyagi/entry-12792277593.html 【歌に滲み出た哲学者の思索と生き様】より
哲学者の大津留直さんは歌人でもあります。
大津留さんから、3月2日に送られてきたメールの文章に大津留さんが切り開いた世界の風景を見ました。
以下はそのメールのコピーです。
次の拙文は、私の俳句についての断章です。ご笑覧願えれば幸いです。
私は、俳句にはいろいろ異なる方向があって良いと思います。その迷い多い私たちを掬ってくれるのが、日本の歴史・風土に根ざした季語であり、言霊であると思っております。結局、各人が「舌頭に千転」させてゆくほかないのでしょう。そうすることで、梵我一如とも言える宇宙・自然と一体となった趣が生まれてくるのだと思います。
私にとっては、今・ここが季題の現場なのです。つまり、詩は、自分自身を見詰めること、自己の生の奇跡を感受することから生まれるということです。もちろん、俳句においては、このことは秘され、季節の物に即して詠われます。逆に言えば、詩歌においては、どんな物が詠われようが、それは自己自身であるということです。したがって、わざわざ詩を外に求める必要はないのです。むしろ、何かを外に求めて、自分自身を見失っているのがわれわれなのだと、私は日頃から痛感しています。西行や芭蕉において、旅は外物を見物することではなく、むしろ、自分自身を見詰めることであったのです。
私はあくまでも、俳句は自由であることを忘れないようにしたいと思います。すべてを言霊にまかせることと、自由は決して矛盾しません。むしろ、一句を舌頭に千転させる覚悟こそが、われわれを自由にするのだと思います。
俳句が常に新鮮であるためには、時には、思い切った実験的な試みや時事詠の試みも必要なのだと思います。もしかしたら、俳句にはもともと実験的な性格があるのかもしれません。しかし、そのような「計らい」も受け入れてくれるのが言霊の大らかさだと思います。
ここで思い出すのは、私の畏友が語った次の言葉です。「俳句というのは、せんじ詰めれば、推敲に推敲を重ねて、自分でも思いがけない句を言霊自らが詠い出すのを待つことなのだ。」
そのように皆さんと俳句を大らかに楽しんでゆきたいものです。非常に拙い者ですが、これからもよろしくお願いいたします。
舌頭に転ばせてゐる春の雪 直
その時添付されていた歌
俳句大学の三月の担当の辻村麻乃先生から次のようなご鑑賞をいただきました。
3月1日
朧月人の求むる幸とかや 直
人が求める幸福は富ばかりではない。健康であったり、人間関係であったり。その形は様々である。「とかや」という古語は「ということだ」という意であり、そこが目を惹く。そこで自分のことだけでなく他者のことまで考えていることが伝わってくる。はて、自分は何を幸せと思うのだろうか。春のやんわりとした朧月夜はそんな事を考える時間となる。翌日は雨かもしれない。それでも、人はすべきことを淡々とこなしていく。
舌頭に転ばせてゐる春の雪 直
2022年8月2日の八木麟太郎ブログ にも 大津留 直 さんから送られてきた歌を投稿していますので鑑賞してください。
https://ishimota24.seesaa.net/article/202002article_1.html 【大津留直先生の新歌集『仮橋』】より
帰り来しわがふるさとはかそかなる金木犀の香に包まるる
希臘(ぎりしあ)語を学び疲れてベーテルの夜道に明き月を仰ぎし
癲癇を病む若者が全身をふるはせて聴くバッハ受難曲
没りつ陽は筑後川面にあかあかと義父をし惜しむごとくかがよふ
つばくらめ短き夏を惜しむがに塔をめぐりて身を翻す
芍薬の花はドイツのさむき雨ふふみて重くうなかぶしゐむ
若き日のわが自画像の澄みし眼に未だに遠き灯火(ともしび)を見る
http://www.arsvi.com/2000/0910fh.htm 【「ヘルダーリンへの応答 大津留 直歌集『仮橋』」】より
ヘルダーリンへの応答 大津留 直歌集『仮橋』 藤吉宏子
谷の上に仮に掛けたる吊橋を歩むごときかわが思惟の道
歌集の題名『仮橋』は、ドイツの詩人へルダーリンの詩『パトモス』の一節に拠っている。人と人との間に架けられる「かりそめの橋」が可能なら、それは詩歌によるのでは、と著者は自問される。
帰り来しわがふるさとはかそかなる金木犀の香に包まるる
二十四年ぶりにドイツから帰国されたときの感慨。流れるようなリズムにのり、心静かな充実感や安堵感に加え、満ちてくる幸福感が、木犀の香に象徴される。
存ふもむごきことかと惑ひつつ父母は生かせり麻痺の子われを
老父母のたつき安かれわが麻痺をおのが咎とし思はすなゆめ
わが歩み支ふる妻の黒髪に混じるしらがの目立ち初めたり
枯芝を焚く火にほてる妻の顔わが知らざりし美しさ見す
脳性麻痺というハンデを負いながら、著者の前向きな生き方や精進努力に驚嘆する。強靭な心の奥にある他者への優しさや労りの真情が読む者に感動を与える。
山の笑ひ山の嗚咽の幾許を聴きえしわれや耳納しぐるる
焼き終へて露に濡れたる阿蘇の野は深々として足裏にやさし
自然を見る目も鋭く、詩の発見にふるえるような心情の昂揚が感じられる。大自然を前に敬虔な祈りにも似た思いが伝わる。
著者は師にも恵まれ、「あけび」主宰の大津留温氏、「歩道」の大津留敬氏という血縁の歌人の薫陶をうけられ、満を持しての待望の第一歌集である。
(短歌新聞社 二五〇〇円)筆者=歌と評論短歌新聞 二〇〇九年十月*作成:岡田 清鷹
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